憧れの人がNoと言ったって
私は才能ある人に滅茶苦茶惚れ込んでしまう。
お世話になった塾の先生、大好きなエッセイストさん、仕事ができる職場の先輩などなど。
身近な人から著名人まで、そのタレント性と努力の結晶の塊のような人たちを追いかけるのが大好きだ。それで自分がその人たちに近づける訳ではない。けれど、自分が落ち込んでいる時や死にそうなとき。
「いつかは私もこうなりたい」
そんな憧れだけで立ち上がれたりする。我ながらチョロい。でもチョロくて良かった。毎日何とか頑張れるのだから。
けれど、そんな憧れの人たちから思わぬ反撃を勝手にもらってしまう時がある。
少し前に、大好きなエッセイストさんが「自分の身を切り売りするような、そんな自分との対話だけに終わってるような文章はもういい加減飽きた(意訳)」というようなことを仰っていた。雑誌の対談の中のワンフレーズだった。
じくじくとした痛みが自分の中心に広がっていくのを感じた。彼が言っていることは少しも間違っていない。というか私も実際そうだと思う。作者自身だけにベクトルが向けられた話が、個人が広く発信できるようになったSNSでは蔓延しきっている。
それでも私はその一言に小さい切り傷のような痛みを覚えてしまった。理由は二つ。自分がまだそんな文章ばかりを書いていること。そして、彼が若い頃書いていたエッセイが、現在の彼が否定したような内容だったこと。
私は20代前半の苦しくてたまらない時、彼の文章に自分を重ね、救われ、前に進めたのだ。
それをとん、と突き放されたような、そんなめちゃめちゃに寂しい気分に陥ってしまった。(何て勝手な読者なんだろう)
けれど、それと同時に何となく嬉しい気持ちも抱いた。青年期の鬱屈とした感情をモヤモヤと抱えていたとしても、そんな風に言えるようになる日が、人にはちゃんと来るんだなあって。どことなくこそばゆい。なんだろこれ。
私にはまだ自意識過剰で、卑屈で、自己愛と他者評価の間で悩むような大人のままだけど、いつかはそんな日が来るかもしれない。そして彼がもういい、と思ったそういう類いの文章は、私にはまだ必要だ。
半ば傾倒していた彼が手放したからって、自分もそれに倣って手放す必要は、ない。
憧れの人の背中が遠くなったって、全然大丈夫だ。私は私のペースで、その人をまた追いかけていく。
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