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「闘争」としてのサービス

去年の今頃書いていた『「闘争」としてのサービス』がお蔵入りしていることに気づいたのでここに残しておく。

「闘争」としてのサービス

著 山内裕、出版 中央経済社、2015年初版、全243ページ


概要

本書はサービスの原理を解明しようというものである。サービスとは顧客を満足させることであるというテーゼが頻繁に聞かれるがこのような言説に対して感じる違和感を多少でも解明することが本書の目的にある。

本来サービスというものは、その過程に顧客がさまざまなレベルで参加するため不確実性が高いものである。しかし例えばファストフードで食事をするというサービスにおいては、顧客を限られた選択肢の中に制約することにより一般的にサービスの不確実性が下げられるように設計されている。一方で本書が取り上げるような鮨屋や、高級レストランにおいては顧客に選択権が委ねられているが故に不確実性が非常に高い。これはつまり「顧客満足度を高める」という目的だけでは説明できないサービスの設計がされているということである。通常我々はサービスを奉仕やおもてなしなど「闘い(struggle)」とは全く逆の概念で理解するが、ここではサービスの目的が顧客の要求を満たすことであるという主張を否定し、弁証法的に二重化していくことでサービスという行為の可能性を閉じないようにするための議論が示される。

本書は、第I部で鮨屋、ファストフード店、イタリアンとフレンチレストランという食事サービスを提供する店舗を対象として、観察やビデオ撮影を通した経験的エスノメソドロジー研究によってその場所で起こる現象やそれらの差異を比較分析することで、本書で「闘い」と呼ぶものがどういうものかについて説明している。そこから闘争としてのサービスが持つ価値とその実践方法について第II部と第III部で検討している。

要約

まず、各店舗ごとに異なる具体的なサービスについて本書で述べられていることを整理する。

1:鮨屋
対象は伝統的なカウンター形式の職人が客の目の前で仕事をするスタイルの東京にある鮨屋である。鮨屋では伝統的に客が一つ一つ「お好み」で注文して食べるということ、そしてその独特の雰囲気から、客はそのサービスに参加するときに緊張するという側面がある。例えば入店してすぐ客は飲み物の注文を尋ねられる、ここでは「蒸してるんで、生ビールで」と言う客と、「ビールで」と言った客が比較されている。前者では自身の注文に理由を付与することで、その注文の適切性を相手に伺っている。後者では端的に注文を答えることで、適切かどうかを志向していない事がわかる。つまりこの最初の質問から、客は何も情報も与えられていない状態で相手のテリトリーで出方を伺われている。このような注文に関する会話から、鮨屋においてのやりとりはただ情報の交換ではなく、客を試すための質問であることが見えてくる。

2.ファストフード
ここでの調査は「モスバーガー」で行われた。ファストフードのサービスでは、本当に客がどういう人なのかは問題とならない。その人が客であり、あるいは店員であるという役割の範囲で取引が可能となり人々の間には関係性は生じない。しかし本文では店員が客を試すようなことはないが、それでも客がどういう人なのかは問題となりうるということが示されている。注文の場面では客は端的に「モスバーガーください」というのみではなく、メニュー表を指差しながら確認をするように注文している様子が見られた。つまり客であってもただ自分の欲しい品を言うのではなく、自分のその品に対する理解も含めて店員に伝える必要があるということだ。ただ欲しい商品を言うだけではなく、その品が適切かどうかに配慮しながら注文するという点で鮨屋との類似性がある。

3:イタリアン/フレンチ
続くイタリアンレストランとフレンチレストランの比較では同敷地内の同会社が運営している別の店舗が対象とされた。これまでファストフードと鮨で比較されてきたことがレストランという同じ枠組みの中でも大きくサービスの形態が異なる二つの店舗で比較された。例えばメニュー表に関して、イタリアンの方はカジュアルでメニューにも「人気No.1」や「季節限定」などのキャッチーな文字が書かれていた、一方フレンチでは、「Court」や「Hommage」などフランス語が用いられていた。さらにイタリアンの方は店員の服装や内装も含めて明るく、軽めであり、フレンチは静かで、落ち着いた演出であり、対照的な店舗であることがわかった。注文の仕方では、イタリアンは一度に注文を聞いてできるだけ客を待たせない接客がされているのに対して、フレンチでは店員がメニューを渡したのちは一歩下がって待っているという形態であった。イタリアンでは店員からお勧めが示されることも多かったが、フレンチでは尋ねられない限りはお勧めはしなかった。このことは鮨屋とファストフード店の例から考えても、サービスが高級になればなるほど親しみやすさや情報などの「いわゆるサービス」が減少することを説明するヒントになっているだろう。

以上の例を踏まえて闘争としてのサービスを設計することがどのような価値を持つのかについて説明する。

ここまで見てきたようにサービスの根本的な特徴は、客や提供者という人が関わるということである。しかし人同士が、対等に関わるということは、不安を呼び起こし、緊張感を持ったものとなるためサービスにおいて対等な関わりは客と闘うざるを得ないということになる。「闘い」という語は、勝敗の決する「戦い」とは異なる意味をしている。サービスが闘いとなる時、それを自らの差異化し、より卓越したものであるように定義するという原理が働いていることが見て取れる。人は根源的に自分をよく見せようと努力するし、それが価値となる。しかしサービスの大衆化によってそのような振る舞いを経験を得ずとも体得できるようになってきた。例えば鮨屋においても、お好みではなく、お決まりで大将に食べるものを任せる人が現れ始めている。このことが客に求められる経験、知識、スキルの水準を下げ、お金を払えば誰でもサービスを受ける事ができる言説の形成につながった。その結果サービスにおいて気遣いという行為が客にへり下るような振る舞いを指すようになってきている。しかし気遣いがサービス品質を高め顧客満足度につながるという考え方は、一つの側面を見落としている。気遣いをするということは得てして、相手に対して自らを下の立場におきかねない危険を伴う行為であるということである。高度なサービスがなぜ気遣いを押し出さないのか、それは気遣いが明示的になることでサービス提供者が客に対して下の存在であるとされないためであろう。

このようにしてサービスが闘いであることを理解するとサービスデザインとしては、脱人間中心の設計が求められることになる。現在主流である人間中心の設計では、顧客のために働くことが不満や混乱から解放することであると認識されているが、実際にはそうではないということはこれまでに見てきた通りである。客に闘いを挑むようなデザインというのは、デザイナーを超越的な立場に置かず、客あるいはユーザーと対等な立場に立ち、予定調和ではなく、相手と自らの間に緊張感を持つことが必要である。人間という存在は特定の概念に還元することはできず常に自分を定義し、他者との関係から自らを構築するような存在である。客をユーザーという概念に還元して、そのユーザーの要件を満たすというアプローチは闘争としてのサービスにはそぐわない。むしろその正反対のユーザーを対等な存在として尊重することによってこそ人間を脱中心するということ、闘いとしての実践を想定することができるのだ。

人々を客や、提供者などの概念に押し込み、一方の要求を他方が満足させるという予定調和によって、個人は要求という属性に還元されてしまう。闘争としてのサービスによって、社会を流動化させることは、我々の生活に浸透しているサービスを自らの行為主体性を獲得するための脱従属的な関係に基づくものとして再定義し我々の社会におけるサービスの関係を反転させるために、また、サービスにおける人と人の関係性が閉じることなくそこから本当の人間関係が生まれるように仕掛けていくことが必要である。


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