心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その3

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 「将棋くん」の胎児がこころの中に宿る
 最初の将棋との出会いは、1冊の本からだった。と思う。
 それは、プロ棋士(八段)の建部和歌夫先生が書いた『将棋入門(ぼくらの入門百科)』という本。読んだのは、たぶん小学校4年の頃。当時自分は、時々風邪をひいて学校を休むことがあり、そうすると母が退屈だといけないということで本屋に行って小学生が読みそうな本を何冊か買ってきてくれたのだが、その中に『将棋入門(ぼくらの入門百科)』があった。それが、本格的に将棋を知るきっかけになったのだと思う。たぶん、そうだった。
 いや、間違いない。 
 秋田書店から出ているぼくらの入門百科シリーズの中の1冊で、このシリーズは『クイズ教室』とか『プロ野球入門』とか何冊か読んだが、その中の『将棋入門』だけはどういうわけか風邪が治ってからも夢中になって繰り返し読んだ。どうして、これだけが特別に面白く感じたのか不思議で、理屈では説明できないことだと思う。
 今はさすがにもうどこかにいってしまって手許にはないが、便利な時代になったもので、アマゾンで検索するとすぐにあの本の表紙の画像を見ることができる。見ると、確かにああいう表紙だったなと懐かしく思い出す。
 王将と桂馬と香車と龍王(飛車の裏)の4枚の駒がどういうわけかそれぞれ右斜め上とか左斜め上向きに置いてある素朴な図柄の表紙。
 今ではもう本の内容を正確には覚えていないが、駒の動かし方とか最初の並べ方とか「ニ歩は反則」「待ったなし」みたいな基本的なルール、王様の囲いの種類とか棒銀戦法みたいな基本的な戦法などが書いてあった。ような気がする。
 駒に可愛い顔がついているイラストが入っていて、今振り返ってみても、大人が子供たちを喜ばせようと一生懸命作ったという雰囲気が出ているいい本だったな、と思う。自分にとっては「初めて見た海」のような本だった。将棋というものが広く大きく深いものであることが感じられ、そこには冒険があり希望があり楽しさがあった。
 その本を読んで、最初の駒の並べ方、駒の動かし方とかルールなどはなんとなく覚え、面白そうなものだなと思った。
 その時、「自分のこころの中に『将棋くん』の胎児が宿った」のだ。
 間違いない。あの時だ。
 「将棋は自分にとって母なる海だ」と思った。
 将棋は広く大きく深い海のような存在である。そして、母のような優しさがある。
 「盤上にはありとあらゆるものがある」とも思った。
 「アリスの不思議な国」も「星の王子様が住んでいる星」も「オズの虹の国」も将棋盤の上にあった。アマゾンの秘境探検もサハラ砂漠大横断も地底探検も海底探検も宇宙開発も将棋盤の上にあった。
 自分は、自分のこころの中に住む将棋に対する思いを、愛情・親しみ・楽しさ・憎しみ・哀しみ・揶揄・諦念などの思いを込めて「将棋くん」と呼んでいる。
 
 小学校の友だちと指していた頃
 自分の通っていた小学校は都内にあったが、東京都の中央からははずれた場所にある公立小学校で、サラリーマンの子ども、公務員の子ども、商店街の商店の子ども、農家の子ども、会社の経営者の子どもなどがいるごく一般的な学校だった。あまり自閉的な雰囲気のない、比較的開かれた場所だったと思う。一方、自宅はわりあい両親ともに難しい顔していることが多く自閉的な雰囲気だったので、当時は学校にいる時の方が楽しかった。
 小学校5年になって、同じ学年のよそのクラスで将棋が流行った。その頃の自分がいた小学校では、テレビゲームなんかなかった時代だったので、メンコが流行ったり酒蓋と言って日本酒の蓋をはじいて遊ぶのが流行ったり、独楽を操るのが流行ったり、今では昔の遊びとして紹介されているようなことがその頃は本当に子どもたちの遊びとして行われていた。一定の期間一つの遊びが流行り、みんながそれにあきると次のものが流行るという具合だった。その中の一つとして、たまたま5年の一つのクラスで将棋が流行った時期があったということで、特別な理由があって将棋が流行ったわけではなかったようだ。自分がいたのは3組で将棋が流行ったのは1組だった。1組の男子たちが、携帯用の将棋盤を持って来て休み時間に指していて、面白そうだなあと思った。
 自分も例の『将棋入門(ぼくらの入門百科)』という本を読んでルールくらいは知っていたので、1回1組の子の仲間に入れてもらって指したことがあった。勝敗は忘れたが、わりといい勝負だったような気がする。ルールを本で覚えたくらいでいい勝負なのだからみんな初心者だったのだろう。
 ただし、別の機会にもう一回仲間に入れてもらおうとしたら「先生が、他のクラスの子と指しちゃいけないって言っていたよ」と言われて断られてしまった。
 もし今自分がその小学校の1組の担任だったら「そういう交流もいいじゃないか」と思うだろうが、その時の先生はそういう考え方はしていなかったようだ。それと、自分のクラスの担任の先生は、とにかく子どもが変わったことをすると神経質に気にするタイプだったので、1組の担任の先生もそれに気を使っていたのかもしれない。
 今の小学校の教育の方が、児童の個性を尊重し、いろいろな生徒同士の交流には好意的な方向に変化してきているようなのだけど、当時は高度成長・規格大量生産の時代の雰囲気が濃厚で、みんなで同じ方向を向いて力を合わせて頑張り、ちょっとでも変わったこと、変なことをする子がいると止めさせようとする雰囲気があった。

 1組のちょっとした将棋ブームはまもなく下火になり、3組では結局将棋は流行らなかったので、学校ではほとんど指せなかった。
 でも、自分のクラスでも将棋の好きな子が自分以外に二人いて、その友だちの家に行って将棋を指すようになった。
 その中の一人は笠松(仮名)くんという大企業のサラリーマンの息子さんで、もう一人は田山(仮名)くんという開業医の息子さん。どちらかと言えば笠松くんの方が一緒に遊ぶことが多かった。笠松くんはエレベーターのないアパートの4階に住んでいて、毎回狭い階段を上って訪ねて行った。トコトコと一人でコンクリートの階段を上る時間が楽しかったのを覚えている。
 日曜日に笠松君の家に行った時は、お父さんが将棋の相手をしてくれて、二人で相談しながら指した。
 「こうやる手がいいんじゃないか」なんて二人で相談していると、笠松君のお父さんは、「ああ困った困った。そんなうまい手があるのか」なんて言って、いざそのうまそうな手を指すと、さっとそれに対して的確な次の一手を指して局面を優勢に導き「人の言うことを信じちゃだめだよ。イヒヒヒヒ」などと言う。背が高く細身で、いつもニコニコしている穏やかで面白い人だった。
 その年は、お互いの家に行ったり来たりして、その3人で指す機会はけっこうあった。でも、強い人に教わるのはたまに笠松くんのお父さんと指すくらいのものだったし、そんなに棋書も読まなかったのであまり強くならなかった。
 でも、楽しかった。
 その頃、花村八段という頭が今で言うスキンヘッドのプロ棋士がいた。「花村が来たでよう、頭が光ああてる~」などという変なテーマソングを作って、笠松くんと田山くんと3人で大きな声で唄い合ったりしていたのを、今でもたまに思い出す。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その4

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