心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その4

※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その3

 「将棋くん」の誕生
 自分は下に妹・弟がいる長男で、毎年正月は、両親と兄弟3人で母方のおばあさんの家に行くのが習慣となっていた。
 おばあさんは、お手伝いさんと二人で都内の一軒家に住み、1軒だけだが貸家を持っていてその賃貸収入(とおそらく死んだおじいさんの年金))で生活しており、自分たちが行くと喜んでくれてお年玉をくれた。いつもニコニコしている穏やかな人で、自分たち兄弟から人気があった。
 自分は小学生の頃、毎年のようにそのお年玉を持って本屋に行った。
 5年生の正月におばあさんの家に行きお年玉を持って近くの本屋に行った時に見つけたのが『近代将棋』という雑誌で、それを買ってきておばあさんの家で熱心に読んだ。
 どういうわけか、子どもの頃正月に家族でおばあさんの家に行くと、両親・妹・弟はその日に家に帰り、自分一人おばあさんの家に残って泊まって次の日に一人で帰ることが多く、その時もそうだった。
 夜になると、おばあさん、お手伝いさんと三人で夕食を食べ、風呂に入ってから用意してくれていた寝間着に着替えて、6畳くらいの布団が敷いてある部屋で寝っ転がって『近代将棋』を読んだ。
 最初のグラビアのページには和服を着た一流棋士の対局姿の写真があり、その次のページには、塚田正夫先生の巻頭詰将棋があった。
 その時の問題は自分にとっては盲点になるような手が正解だったので、なかなか解けず、深夜になってやっとできたのを覚えている。と言っても、ずっと考えていたわけではなく、少し考えてできないとしばらく別の記事を読み、読み終わるとまた少し詰将棋を考え、できないとまた別の記事を読み…、というふうにしていたら、深夜になって突然正解が頭に浮かんだ。
 当時の『近代将棋』には、「棋談あれこれ」という原田康夫先生の将棋界の時事報のような文章があった。これには、子ども心にも「毒にも薬にもならないつまらない内容だなあ」という感想を持った。一方、芹沢博文先生の「飲む 打つ 書く」というエッセイが出ていて、これが非常になんというかその頃の自分にとっては面白い味のある文章だった。後に大学生になって芹沢先生のことをよく知っているプロ棋士と知り合いになってそれを話すと「なんで子どもがあんなものを面白がらなければいけないんだ」と呆れられた。確かに挫折感に満ちた自虐的で世の中を斜めに見ているふうなところがある文だったが、当時の自分はそこが面白かった。「自称ろくでもない奴の自虐的文章の美学」と言ったらいいのだろうか。とにかく、なんだか不思議な魅力のある文だと思って、毎号欠かさず読んでいた。  
 こういうところがどうも変な子どもだったようで、例えば、「ので」という言葉を使って文を作りなさいという国語の問題があると「母が『死ね』と言ったのでぼくは自殺した」という文を作ったり、将来なりたい職業を描きなさいという図工の課題があると乞食の絵を描いたりしていた。どうして、そんな子どもだったのかはっきりとはわからないが、両親が真面目な人で、家庭の状況が息苦しかったことと関係があったのかもしれない。
 『近代将棋』の話に戻る。その頃一番面白かったのが『升田幸三実戦集』という題名の付録の小冊子だった。
 まず、表紙に味があった。升田先生の髭を生やした味のある風貌と「升田幸三実戦集」という表題、その二つだけしか図案の存在しないシンプルな表紙。
 中を開けて見ると升田先生の棋譜が図面入りで出ていたが、それ以外に升田先生の人生談が出ていて、修業時代の苦労とか師匠や兄弟弟子との人間関係など、内弟子修行のあれこれなどについて書いてあった。
 それを読んで、一言で言えば、「将棋の世界というのはすごいんだな」と思った。升田先生は、「極める」ということを目指し、将棋を芸道としてとらえる姿勢を持っていて、創造力や執念を重んじていた。自分は、升田先生のそういった姿勢に感動した。
 静かな正月の夜、あのおばあさんの家の天井が高くてきれいな畳のある六畳くらいの和室で、深夜まで寝っ転がって『升田幸三実戦集』の小冊子を読んでいたあの時間が、今の自分をつくっている。
 こころの中で「将棋くん」が産声を上げたのはあの時だった。
 アマゾンの秘境もサハラ砂漠もピラミッドの大ピラミッドも海底も地底も大空も宇宙も将棋盤の上にあった。日本海海戦も真珠湾攻撃も赤穂浪士の討ち入りも関ケ原の戦いも大阪夏の陣・冬の陣も戦争も平和も革命もゲリラも将棋盤の上にあった。
 「将棋は自分にとって母なる海だ」「将棋盤の上にはあらゆるものがある」という思いが確信に変わった。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その5

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