心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その5

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※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。

 I将棋クラブ
 将棋のどこがそんなに面白かったのだろうか。
 今現在は将棋を指したいとはあまり思わない。自分の家の近くには将棋クラブがないが、ネットで指すやり方なら知っているので、指そうと思えばすぐに指せる。でも、もう10年以上指していない。現在の趣味は、読書・犬と遊ぶ・囲碁など。それと、これは趣味と言うのかどうかわからないが、平均すると2週間に1回くらいスナックにいく。10年くらい前までテニスをしていたが、今は、スポーツはしていない。子どもの頃は囲碁よりも将棋の方が面白いと思っていたが、なぜ変わったのだろうか。囲碁の方がゲームの流れが穏やかだから中高年向きだと言う人もいるが、自分はあんまり賛成できない。中高年でも囲碁より将棋が好きな人は多いようだ。
 あの頃、将棋がどう面白かったのかを的確に人に説明したり文章に書いたりすることはとても難しい。ほぼ不可能である。
 将棋は海だ。とてつもなく広く大きく深い。将棋盤の上は生き生きと輝くカオスだ。そこには、命がけのアクション、リアルな迫力、死屍累々の戦場、阿鼻叫喚の輝ける闇と光がある。盤上の駒は、ある時は前進しある時は後退しある時はじっと同じ場所にとどまり、ある時は跳んで跳ねて血を吹いてぶっ倒れ、そして敵方に寝返って再び活躍する。そこには、躍動する生の輝きがある。
 将棋盤の中に挑戦がある。将棋盤の中に冒険がある。将棋盤の中に感動がある。将棋盤の中に考える喜び、工夫する楽しさがある。将棋盤の中にはすべてのものがある。
 気がついてみたら、自分の中に将棋盤があり、将棋盤の上に自分がいた。
 というくらいのことなら書ける。当たらずとも遠からずというところかもしれないが、もちろん、これで書き尽くしているとは到底言えない。
 現在あまり将棋を指したいと思わないのは、どうしてだろうか。「将棋くん」は自分のこころの中にはもういないのだろうか。それとも、こころの中に住んでいることには変わりないが、すっかり年をとっておとなしくなったのか。あるいは居眠りをしているのか。どうしているのか、どこにいるのか、どこにもいないのか、それが全然わからない。ほっとしている面もあるけれど寂しい。どこかに生きていてくれているといいなあ、とも思う。

 当時書店には、『近代将棋』と『将棋世界』の二冊の将棋雑誌が置いてあったが、『近代将棋』の方が子どもにはとっつきやすかった。この雑誌には、いろいろな将棋クラブの宣伝が出ていて、それらを見ているうちに自分たちの住んでいる場所の近くにI将棋クラブとT将棋道場があることを発見した。I将棋クラブ・T将棋道場ともにバスに乗って30分くらいのところにあったが、I将棋クラブの方が停留所3つ分ほど近かった。
 笠松君・田山君と相談して、「一つどんなところか行ってみよう」ということで、3人でT将棋道場よりもちょっとだけ近くにあったI将棋クラブに行った。
 ここが一つの分かれ目だったかもしれない。I将棋クラブとT将棋道場では、将棋の強い子どもに対する接し方がかなり違ったようで、T将棋道場の方が、プロ棋士を育てることに関しては定評があった。
 I将棋クラブには、アマチュア名人戦の東京都代表になったこともあるアマチュア強豪の下村(仮名)先生と、その奥さんがいた。下村先生は、弁当箱のような四角い顔に黒縁のメガネをかけていて、声が大きくよく笑う陽気な人で、奥さんは小柄丸顔で明るく元気がよく楽しい人だった。平日はどちらか一人しか店にいなかったが、土日は二人ともいて、夫婦仲がよさそうだった。
 その頃自分の家庭は、両親が夫婦で言い争うことなどもあったので、うらやましいなと思っていた。
 下村先生は子ども好きで、詰将棋とか6枚落ちなどで将棋を教えてくれて、3人はだんだんと強くなっていった。
 技術的なこと以外では、「道場に入ってくる時には挨拶をするように」ということはうるさく言われ、そのおかげでわりあいちゃんと挨拶ができる人にはなれたような気がする。
 最初に行ったのがたぶん小学校5年の3月で、3人とも棋力9級と言われ、その3か月後の6月には、3人とも6級くらいになっていた。
 下村先生以外の大人も、面白がって自分たちの相手をしてくれて、だいたい6枚落ちとか2枚落ちくらいで指すことが多かった(もちろんこちらが下手)。
 また、I将棋クラブには本棚がありそこに単行本の棋書や将棋雑誌のバックナンバーが並んでいて、下村先生が適当な本を選んで「次に来るまでに読んでみたら」と言いながら貸してくれた。
 将棋そのものも面白かったが、I将棋クラブは雰囲気がなかなかいい感じで、そこに来る大人の言動も面白かった。
 一番印象に残っているのは、「竹内さんのおじいさん」と呼ばれていた年配の方で、小柄でいつもニコニコしている人だった。
 竹内さんのおじいさんは、ほとんど毎日3時頃になるとタクシーに乗ってやってくる。夏休みなどに平日行っても3時頃に来るし、土日でも毎回だいたい3時頃に来る。棋力は3級くらい。かなりの早指しで、たいてい毎回同じ人と指す。いつ指しても負ける人がいて、その人と指すと毎回同じような展開でいつも同じように負ける。その人以外の人だと勝つこともあるのだが、とにかく勝っても負けても同じようにニコニコしていた。負けて敗因を考えるようなことはなく、したがって全然上達するということがなく、ひたすら毎局ワンパターンの同じ戦法で同じような手を指していて、上達する喜びとか考える喜びとか工夫する楽しさなどとはまったく無関係で、とにかく駒を動かしているのが面白いようだった。どこにもたどり着けない歩行のように目的のない純粋な行為に喜びを見出している様子で、地位にも名誉にも出世にも権力にも興味がなく、ただただ毎日将棋を指すのが楽しくて生きているという風情だった。
 今でもたまに、竹内さんのおじさんあのいつも嬉しそうにしていた姿を思い出す。竹内さんのおじいさんのいるところだけ時間の流れが止まっていて、絶対的な安住の地に住んでいるようだった。閉じた円の中にいて永遠に同じことを繰り返し、竹内さんのおじいさんだけは死ぬこともなければ宇宙の終わりが来ることもないのではないか、とも思えた。
 一言でいえば、自然で純粋で安らかな人だった。子どもの頃にああいう人に出会ったということが、心の財産になっている。「人間が生きているということは、それだけですごいことだ」という言葉を体現していた幸せな人だった。

 それ以外にも印象に残っている人がいた。成川(仮名)さんという30歳位のたいてい地味なスーツを着ているサラリーマン風の人が日曜日などに来ていて、「将棋は駒の損得よりも、スピード将棋の成川だ。これがスピード…」という自分のテーマソングを自分で歌いつつ駒をバチバチ空打ちしながら楽しそうに指していた。
 大川(仮名)さんというお腹が大きくて赤ら顔の金物屋のおじさんもよく来ていて、「そ、そ、そ―来るのか。ひーひーっひっひっひっひ。そんな手を指したって大丈夫だぞ。どっこいこら、……どっこい」なんて言いながら指していた。これは、田山君がよく真似していて、その大川さんのモノマネをする田山君のモノマネを自分もしていた。
 それから「あなた様はお強い」などと相手を大きな声で褒めたたえながら指す頭の毛が薄くてとても顔が大きい年配の人がいて、この人のモノマネもやはり田山君がよくやっていた。
 田山君は、目がくりくりしていて顔立ちが可愛く、大人と将棋を指していて「ぼうず、なかなか強いな」と言われるとすかさず「ぼく、髪の毛があるからからぼうずではありません」と切り返したりする反射神経にすぐれ頭の回転が速い面白い子だった。
 開業医の息子さんで頭がよかったので、今頃は医学部を卒業し、お父さんの後を継いで立派な医者になっているかもしれない。
 I将棋クラブは、強い人と将棋が指せて将棋が強くなったこともよかったが、そうしたいろいろと個性的で楽しい大人に出会えたのもよかったし、自宅や学校とは、使っている言葉が違っていた。自宅や学校で使われている言葉は人工的な雰囲気の標準語だったが、Ⅰ将棋クラブで使われている言葉は東京の下町言葉に近かったと思う。言葉に温かみがあり、熊さん八つぁんの落語の世界のような雰囲気があった。
 一言で言えば、自分の家は出世至上主義とか学歴幻想にこだわる自閉的な世界、I将棋クラブは特定の幻想にこだわらないいいかげんな人が多く、温かみのある開かれた世界だった。
 I将棋クラブにはバスで通っていて、Iというバス停を降りてから国道の歩道を少し歩きそれから左に曲がって細い坂道に入り50メートルくらい歩いたところにあった。毎回、歩道から細い道に入ったあたりに来ると心が弾み出し、ご主人様を見た時の犬のようにI将棋クラブに向かって駆けていった。
 現在は、テレビゲームとかネットゲームのような将棋以外の室内娯楽も増えたし、将棋自体もネットで指す人が多く、ああいう街の将棋道場というのは激減しとても珍しくなっているようだ。寂しいことだと思う。
 それと、将棋を指して頭が疲れると、3人で樹がうっそうと茂る近所の小さな神社に行った。神社には、植木の周りに石が円形に置いてあるところがあり、そこで石の上を小走りに走ってぐるぐる回りつつ手を顔の横でぶらぶらさせる変なポーズをとりながら、「わー、キチガイキチガイ」なんて叫んでいた。なんであの場面で「キチガイ」という言葉を思いつき、しかも口に出していたのか不思議と言えば不思議である。でも、確かにあの時、自分の胸は不思議なときめきでいっぱいになっていた。
 今考えてみると、どうしてあんなことをしていたんだろうと思うが、「またやってみたいな」とも思う。あの時は、まさに無邪気に、無心に、自分がやりたいことをやって楽しんでいて、人生の中でも本当に幸せな時間だった。
 あの頃のことを想い出すと、児童文学者の石井桃子さんの「大人になってからの自分を支えてくれるのは、子どもの頃の自分である」という言葉が頭に浮かぶ。
 なお、この気違い踊りは、学校でも3人で体育館の裏に行ったりして時々やっていた。
 今振り返ってみて、自分たちは変な子どもだったんだな、と思う。

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