もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第6話 つまるところ、優先すべきは価値観である(その3)

 10年くらい前に流行った『もしドラ』を意識して書いた小説です。
 自分がよく行くスナックで行われていることを脚色して書きました。
 『もしドラ』と違って、テーマごとに違う話が展開する短編連作です。

※ 第1話から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第1話 仕事の仕方と学び方から読むことをおすすめします。
※ ひとつ前の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第6話 つまるところ、優先すべきは価値観である(その2)

 第6話 つまるところ、優先すべきは価値観である(その3)
 裕樹に将棋を教えたのは、マスターで、4歳から6歳位の頃に教えた。その頃のマスターは、キャバクラ2軒とウェブ制作会社を経営していたが、わりあい仕事を任せられる社員がいて、家にいる時間があった。確かに将棋は頭の訓練にいいのだが、それで生活しているプロが存在しない算数パズルかなにかの方が、こうした進路の悩みはなかったかもしれない。でも、マスター自身将棋が好きなので、やはり好きなことを教えた方がうまくいくという面はありそうだ。
 裕樹は、マスターに教わった後、インターネットや町の将棋クラブで指したりして腕を磨き、小学生将棋名人戦や中学選手権・高校選手権でも優勝した。勉強でもK大医学部に現役で合格。大学生になってからも学生名人戦や一般のアマチュアの大会でも優勝することで、プロ棋士と対戦する機会を得て、プロとの勝率も7割を超えている。

「まあ、今からでもプロ棋士になろうと思えばなれるかもしれないけど、なんでもっと早くプロをめざそうと思わなかったんだ」
「うーん。母がいい顔をしないというのもあって決断するのがのびのびになっていたような気がします。それと、頭が悪くて勉強ができないから将棋の道に進むと思われるのがしゃくだ。というのもあったかもしれません」
「そうか。まあ、年をとってから決断するのもそれはそれで意味があるのかな」
「お父さんは、なんで医学部に入ったのに、水商売を始めたんですか?」
「うーん。俺の場合は、もともと医者になろうという考えがあったわけじゃなくて、大学受験では、とりあえず入るのが難しいところに挑戦してやろう。という感じだったな。大学生になって、いろいろアルバイトをしたりいろんな人に会う中で、やっぱり自分で商売をしたい。という気持ちになったんだ。鬼龍院先生の授業の影響もある。あの先生の話をを聞いていたら、医者ももちろんとても立派な仕事だけど、もっと自分を見つめて、自分のやりたいことをやろう、という気持ちになった」
「ぼくも鬼龍院先生の授業を聞いて、将棋指しになろうと考えた面もあります」
「ああいう先生が大学1年の医学概論の授業を長年持っているというのも、面白いなあ」
「ちょっと変ですね。わりとあの先生の授業を聞いて、医者になるのを辞めた人がいるという話を聞きます」
「ふーん。俺の時もそうだった。最近は医者にならないでどんな仕事に就く人がいるのかな?」
「聞いた話だと、親がやっている会社を継ぐとか、予備校の数学の先生になるとか、地方議員に立候補する、といった人がいるそうです」
「そうか。でも、まあ、ああいう人が1年の医学概論を教えているというのも、悪いことじゃない。『なんとなくお金が儲かりそうだから医者になる』という安易な考えの人を減らす役割をしていると思うよ。それで、お母さんはなんて言っている」
「将棋は趣味にしてお医者さんになれば、将棋の強いお医者さんということで尊敬されるんじゃないか?というようなことです」
「まあ、普通のおばさんが言いそうなことだなあ。他に何か言っていた?」
「基礎医学の方に進んで大学教授になる。医者になるんじゃなくて研究者・教育者になる方法もある。といっていた」
「それは、なかなかいい意見じゃないかな。よく見てると思う。裕樹は、人と対話するよりは、大学の授業みたいな演説スタイルで話す方が得意じゃないかな?それと、目の前の患者を治すより、自分で決めたテーマがあって、それを研究していく方が向いてそうだ」
「そうですか?うーん、そうかもしれない。でも、将棋のプロ棋士になって、一局一局勝負という形で結果が出る方が好きなのですが…」
「そうか…。役に立つかどうかわからないけど、ドラッカーさんの言っていることを手掛かりに考えてみようか?」
「ドラッカーって、前にも言っていた学者ですか?」
「うん。経営学者なんだけどね。ドラッカーは、こうしたことを考える時に強み・仕事の仕方・価値観の3つを考えることを薦めている」
「強みというのは、才能とか適正みたいなことですか?」
「そうだね」
「仕事の仕方というのはまあ、仕事のやり方とか進め方のことだと思うんですが…」
「そう。例えば、人と組んだ方がうまく仕事ができるか、一人でやった方がいいか、とか、安定した状況と緊張や不安のある状況とどちらが力を発揮できるか。とかそういったことだ」
「価値観というのは、自分の好みとか、こだわりとか、やりたいこととか、そういうことですか?」
「そうだね。それで、その3つを軸に考えてもらいたいんだけど…」
「強みという点では、将棋も医学も同じくらいでしょうか?将棋の方が全国優勝したりしているのでやや上かもしれませんが。医学の方も、でも、K大医学部で普通くらいの成績はとっているので、医者になること自体はできそうです。それで、世の中にどの程度貢献できるかわかりませんが。仕事の仕方ですけど、これはまだ、ちょっとわからない。医者の仕事は、開業医だったら基本的に一人ですが、大病院の外科だったらチームで動かなければならない。それに、さっき言ったような基礎医学の方に進んで研究者になるとまた、かなり様子が違う。将棋の方は研究会もあるけど、基本的には一人でできるけど一人でやらないといけない。将棋の方が選択肢が狭いかもしれません。ぼくはどちらかと言えばチームではなく一人でやることに向いているような気がします。サッカーとかラグビーみたいに本格的にチームを組んで何かをやった経験がなく、チームで動くことには自信がありません。価値観になると、やはり、将棋の世界の方が勝ち負けがはっきりしているし、基本的に自分の頭で考えることで勝負できるので、将棋の方が合ってると思います」
「うーん。ドラッカーも言っているけど、価値観を優先させるしかないと思う。やっぱり最初から答えは決まっていたんだな。」
「そうかもしれません。結局、自分でも答えが決まっているのに、人から背中を押してもらいたいのかもしれない。なので、あまりいい相談の仕方ではないかもしれません」
「いやー、でも、世の中の相談事というのはそれが普通だよ」
 予想通りの展開になったと思い苦笑いしながら、マスターはコーヒーを飲んでから腕時計を見た。
 10時になっている。店の様子も少し気になるので、店に戻ることにして、裕樹とは、店の外で別れた。

 店では、予想通り、常連たちがけっこう来ている。
 エリコは、マスターが帰ってきたのを見つけて聞いた。
「さっきの若者は、マスターの息子なのでござるか」
「そう」
「なかなかイケメンでござった。今何をしている人なのでござるか」
「医学部の大学生」
「それは素敵なのでござる。拙者に紹介してもらいたいのでござる」
「イラン人の次は医学部の学生か。ずいぶんと違いがあるなあ」
「でも両方イケメンでござる」
「そうかなー。でも、医者にはならないで将棋指しになると言っているよ」
「将棋って、日本に昔からある、王と飛車とか角とかが盤の上を動くゲームのことでござるか?将棋で遊ぶのが職業になるのでござるか?」
「遊ぶでもいいけど普通将棋は『指す』と言うんだよ。まあ、収入を得る仕組みとしてはゴルフとかテニスのプロみたいなものかな。これはこれで。職業として成立しているんだ」
「初めて知ったでござる」
 若い女の子から「素敵」なんて言われる仕事を捨てて。職業として成立していることも知られていない仕事に就こうとしているのだから、不思議な話だ。でも、それは本人の価値観なのだから、それでいいのだろう。
 裕樹と十五町さんは似ているのかもしれない。二人とも自分なりの価値観を持っている。十五町さんの価値観が「自分は出世したくない」だとすると裕樹の場合は「俺は女の子にもてたくて生きているわけではない」といったところか? 
 マスターはそう思いながら、クリスマスイブなのに一人でスナックにやってくる男たちが楽しそうに飲んでいる様子をぼんやりと眺めていた。

※ 次の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第7話 人生をマネジメントする

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