心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その31

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その30

 バー「リスボン」

 この頃、誰かに連れられて「リスボン」というバーに行った。誰に連れられていったのか覚えていないが、たぶん将棋大会の後で「みんなで行こう」というグループがあり、それについていったのだと思う。
 ここは、将棋大会の後などにアマチュア強豪や将棋雑誌の編集者などがよく行く店で、新宿歌舞伎町にあった。
 カウンターに6人くらい座れて、それ以外に将棋盤が4面と椅子が8つ置いてある店で、バーというより将棋酒場と言った方がいいかもしれない。マスターとママさんがいる店で、二人は夫婦だった。
 マスターは、肩幅が広くて体格がよく、若い頃ボディビルをやっていたらしい。「わっはっはっは」といかにも作ったような豪傑ふうの笑い声を発するが、場の雰囲気を明るくするためにやっていたようで、嫌な感じではなかった。水を張った器を冷凍庫にいれて作った氷の塊をアイスピックで適当な大きさに砕く手慣れた職人芸のような手つきとその時のガンガンガンという小気味よい音が妙に印象に残っている。
 ママさんは小太りで愛嬌がある中年の女性で、「いい悪いは別にして」という言葉をよく発する、人生談義のようなことが好きな人だった。
 自分はカウンターに座って他の人が話していることに耳を傾けていた。
 しばらくすると、元奨励会員の奨励会退会後の人生についての話になった。
 将棋連盟の職員になった人や将棋ライターになった人、将棋とは関係のない仕事について成功した人、怪しい裏街道のような道を歩んでいる人などいろいろな人がいるようだった。
 そのうち、自分のことになり、奨励会を辞めてから受験勉強をして慶応大学に入ったということを言った。
「ところで、筒美君はいつから、いい大学を目指そうと思ったの」
 マスターが自分に聞いた。
「それは、やはり高校を卒業して浪人する時です」
「えー、そんな後なの」
「でも、高校が進学校だったので、定期試験の前などに少し勉強してました」
「そうか。それで、どうして奨励会を辞めたの」
「それは、親に反対されたからです」
 これがかなり端的な言い方だったのかもしれないが、酔っぱらった頭で他にどんな言い方ができたかというと、なかなか難しい。
 ここで、突然ママさんが発言した。
「奨励会に入ったって一流棋士になるのはほんの一握りなんだから、ちゃんとした大学に行った方がいいに決まっている。親を怨むもんじゃないわよ。奨励会に入って4段以上の一人前のプロ棋士になれる人なんて10人に1人もいないじゃないの」
 ここで、今だったら「別に親を恨んでいると言ったわけではなくて、『親に反対されたから辞めた』という単なる因果関係を言っただけなので、それについてどう思うかについてはまだ話していませんよ」「それは結果論または確率論であって、価値観の問題を軽視しているような気がします」などと理屈っぽいことを言うかもしれない。あるいは、「親を嫌ったり怨んだりするのは人間界においては普通のことなのであって、嫌われたり恨まれたりするのが嫌だったらそもそも子どもをつくろうと思わなければいい」といったことを、自分に子どもがいるわけでもないのに偉そうに言ってしまいたくなるかもしれない。
 それと、「親のことを恨んでいても、恨んでいる一方で感謝したり尊敬したりしていればいいのではないですか。人間の頭や心は一枚岩ではないので、いろいろなことを思うたくさんの人たちが心の中に蠢いているのが、ごくごく自然で当然のことだと考えることが大切だと思うんです」というわりあい心理学ふうの原則論みたいなことを、こういう場面で言いたくなるかもしれない。
 でもその頃は、そういう考え方は自分の心の中にいろいろと蠢いていたが、そういったこと言うために必要なものの見方とか問題意識とか表現力などが不足していたので、それらのことは一切言わず、なんとなく一応聞いているような風情で微かにうなずいていたような気がする。
 まあ、大学に入ったばかりの若者が酒場で上記のようなことを言ったら、なんだか理屈っぽくて妙に口がうまくてつき合いにくい若年寄みたいな奴だと思われた可能性が高いので、言う必要がないことだったのかもしれない。でも、もちろん、言ったからと言って怒られるようなことでもない。言ったら言ったで、年のわりに大人びていていろいろと理屈っぽいことが言える奴だと思われた可能性もある。それは、タイムマシンを使って実験してみないとわからない。
 ママさんの考え方は比較的常識的な一般人に近いのだが、将棋界のことはわりあい表面的に見ているだけであんまりよく知らないと思った。その点では、自分の両親と近かったのだろう。
 それと、バーのママさんなので、職業的な理由でお客さんの過去の状況及び決断・行動などに関しては肯定的に言うのが癖になっていた面もあったようだ。
 それと、ママさんは奨励会にいてプロ棋士になれずに苦労している人を知っているらしく、奨励会の制度を批判したい気持ちもあったようだ。確かに、「~奨励会に入って4段以上の一人前のプロ棋士になれる人なんて10人に1人もいないじゃないの」という発言は正しい。自分にとっての奨励会ではなく、比較的一般的に見た場合の奨励会という機関の仕組み等については、次の項目に書く。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その32

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