怒り・イライラについて具体的事例をもとに考える その4 「鬼婆は鬼婆でもいい鬼婆じゃ」

 人間にとってなかなか扱いづらい感情だと言われている怒り・イライラについて、自分が見聞きした具体的事例をもとに考察していきます。
※ 最初から読みたい方は、怒り・イライラについて具体的事例をもとに考える その1 ドトールの高校生から読むことをおすすめします。

 以前、自分で小さな書店を経営していた時、小売業のことを学ぶために家の近くのセブンイレブンでアルバイトをさせてもらっていたことがありました。本屋さんを始めて半年くらい経った頃から1年くらいやっていました。
 「仮説を立てる」「店をいつもキレイにする」「元気に声を出す」など、いろいろなことを学びました。また、その店は毎日の売り上げが壁に貼っている紙に書いてあるので、「へえ~、セブンイレブンの売上ってこんなもんなのか」ということもわかりました。
 いろいろとためになったことが多かったのですが、一つだけ困ったことがありました。
 それは、年齢はたぶん20歳以上年下だけど先にその店に入った先輩のアルバイトがいて、うまくできないことがあると「このくそじじい」なんて言って感情的に怒り出すことでした。
 最初少しむかついたのですが、「あの性格は一朝一夕には直りそうもない」と思い、「まあ、確かにくそじじいなんだからしょうがない」と思って、「はいはい」と言うことを聞いていました。
 そのうち仕事に慣れ、そんなことは言われなくなったのですが、あれは怒ってもしょうがない場面だったと思います。「まあ、確かにくそじじいなんだからしょうがない」という考えが正解だったのだろうと思います。

 それで一つ思い出すのが、自分の父方の祖母のことです。
 もう亡くなったのですが、生きている時は広島に住んでいました。
 たまに広島まで訪ねて行ったのですが、父とはあまり仲がよくなく、あるときこんなやりとりがありました。部分的に取り出して紹介するのでかなり変なやりとりなのですが、前後をよく覚えていないので仕方がありません。

私「うちのお父さんは、おばあさまのことを鬼婆と呼んでいますよ」
祖母「鬼婆…。鬼婆は鬼婆でもいい鬼婆じゃ」

 
 この祖母の言葉は、目の前の人が話すのを直接聞いた中では自分の人生の中でも一・二を争う印象的な言葉です。
 相手の言うことも認めながら、ちゃんと自分の考えも述べているところがなかなかうまい。自分のことを鬼婆と認める客観性もあり、それでいながら自己主張もちゃんとしていて、「よく、こういう言葉がパッと出てくるなあ」と感心したものです。
 「鬼婆」なんて言われたら怒ってしまいそうですが、別に全然怒っている雰囲気はなく「そう思うのもある意味もっともなところもある」と考えている雰囲気でした。

 「鬼婆は鬼婆でもいい鬼婆じゃ」
 
 まさに至言です。
 私もコンビニで働いていた時に「くそジジイはくそジジイでもいいくそジジイである」と言えばよかったなあ。と後で気がつきました。
 祖母は、90代後半まで元気で生きていたのですが、「こういう言葉が自然に出てくる人が楽しく長生きできる人なんだなあ」と思います。
 簡単には真似できないかもしれませんがとても参考になるものの言い方で、「○○は○○でも××な○○だ」という枠組みを頭に入れ、その場の話題に合った単語を○○・××のところにあてはめれば、たまにはこういう台詞が言えるのかもしれません。
 こういうセリフを言えるようになると、無駄に怒ったりイライラしたりしないですみそうです。

※ 次の話→怒り・イライラについて具体的事例をもとに考える その5 「困った時はボケるのが一番」

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