心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その29

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その28

 大学の将棋部に入る
 大学受験は、東大文2と早稲田の政経・法・商に落ちて慶応の商学部に受かるという結果になった。
 模擬試験では東大文2の判定が「合格圏内」の時もあったが、現実は厳しかった。慶應よりも早稲田に行きたかったが、それもうまく行かなかった。
 もちろん、一応名前の通った大学に入れたので、どこも受からないよりはいいに決まっているのだが。
 慶応に入ってみると、どうも自分にとっては面白いとは言えないことが多かった。
 まず、授業をする教授等がなんとも俗物的で、予備校の先生のようないい授業をする人がいない。
 授業中に「貸し借りの論理」なる言葉を強調して、「他人に貸しの多い人が出世する」という説を強調する教授とか、「職人になってはいけません。職人は寂しい生き方です」と言う教授などがいて、どうも感心できなかった。
 自分は、名人を目指して将棋の道を究めることを中心に生活する将棋職人のような生き方をしていた時期が充実していてよかったという感覚だったので、こういった考え方は合わないと思った。
 同級生の様子を見ていても、「Aの数がいくつくらいあれば、どこどこ程度の1流企業に入れる」といった就職話とか女子大との合コンの話などが多く、文系なのに文学とか政治とか思想の話題にならない。「自分も人のことは言えないのかもしれないけど、どうも軽薄でうすっぺらい人たちだな」と思っていた。
 東大か早稲田に入っていたら少しは違ったかな。という考えが時々頭に浮かんだ。
 その30年くらい後のことだが、佐藤優さんの『同志社大学神学部』とか『私のマルクス』という本を読むと、学問や学生運動に熱中する学生の姿が活写されていて、どうも自分の学生時代に比べ充実していてうらやましいと思った。
 将棋研究会というクラブに入ったが、ここでもやはり、なんとなく雰囲気が合わなかった。ほとんどの部員は、将棋が強くなりたいというよりも、将棋を通じて仲間を作ったり部室で試験や就職などの情報交換をすることが目的で将棋研究会にいるように見えた。もちろん、それこそが大学生としては健全なあり方で、自分の方が変わっていたのだが。
 ただし、大学の団体戦で優勝した時とか、合宿の最終日の飲み会とか、場面場面で慶応大学将棋研究会に入れてよかったなと思ったこともあった。

 自分が大学生だった頃のある年の将棋部の合宿は、富士五湖の一つ西湖の湖岸にある民宿などで行われた。
 そこで将棋部の合宿をやるのは初めてだったらしく、行くと民宿の主人が、「本当に将棋をやるんですか」と疑わしそうな顔をしていた。おそらくその民宿は、ウインドサーフィンなどのかっこいい遊びをやる、いけている若者たちばかりが来るところだったのであろう。
 みんなで手分けしてビニールの盤とプラスチックの駒を持って行き、大広間で将棋を指した。
 たぶん毎年、前年度の流れを踏襲して同じような日程で活動していたのだろう。リーグ戦とトーナメント戦、個人戦と団体戦を組み合わせ、いろいろと目先を変えながら朝から夕方まで対局していた。
 夜は酒を飲んだり麻雀をしたりする人が多かったが、夜になっても将棋を指している人もいた。
 合宿の最終日には、恒例の負け抜き飲み比べ大会があり、二人ずつ前に出て一気飲みをして、審判の判定によって負けた方がずっと飲まされるということをしていた。
 審判は毎年4年生が3人くらいで務めた。審判の判定はいい加減で、早く飲んだ方が勝つわけではなく、概ね面白いパーフォーマンスをした方が勝ちというものだったが、飲みすぎて体調を壊しそうな人は勝たせていたようだ。
 それと、飲み比べ大会が終わると麻雀の歌というのを歌った。
 これは、麻雀を打っている時の様子を歌謡曲などの替え歌で歌うもので、なぜか毎年必ず上級生が「これは将棋研究会に代々伝わる歌です」などといいながら変な替え歌を披露していた。
 例えば、「トンナンシャーペーハクハツチュンン、イチキュウイチキュウなんでもロン、国士無双の歌でした」「死んでもチャンタでテンパイしーたいとー…(以下略)」といったばかばかしいものばかりであったが、下級生は歌詞を覚えて上級生になったら歌おうと考えていたのか、笑うべきところは笑いながら真面目な顔つきで聴いていた。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その30

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