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楽しい史料のすすめ ~加藤曳尾庵『我衣』~

加藤曳尾庵 著『我衣』その1

まずは、加藤曳尾庵(注1)の随筆『我衣(わがころも)』を紹介しましょう。この書がどんなものかは、曳尾庵先生みずから記しています。

此わが衣といふ書は、往し寛政の始、古写本あまた求得し中に、寛永の比より宝暦の初までの、異説・寄話・時世装の転じたる、或は時々の流行の言葉、男女の風俗のうつりかわり、衣類、笠より木履に至る迄、其図を願し、年月をよく糺したる書一冊あり。盆なき事とは思へども、好古の癖やみがたく、其中より抄出して、壹百枚とぢ物とす。

『我衣』巻十七 巻頭より

この記述の通り、著者が(当時の)古書から見つけたりその目で見て耳で聞いたりした江戸の人々の暮らしぶりや町の様子、時代の変化が本当に詳細に記されていて、例えばフィクションの世界で当時の世間を描写するときには絶好の参考資料になるのではと思います。全19巻の大著なうえに本当に詳細な内容なため、私も完全読破には至っていないのですが、面白かったり勉強になったなという記事をいくつか取り上げていきます。(注2)

イキり侍、大恥をかく

巻六(文化六年・1809)の記事より。

四月廿日、小石川水府公御家舗前を、四尺ばかりの朱鞘の太刀を横へ、小き差添えて小倉の袴着たる男の、掻髪やつこにて丈六尺に近きが、向うよりふより来る肥とり、檐桶を刀の錨に突あてたる。怒りて、慮外者なりとて散々にのしる。こいとりの百姓大に恐れ、干伏してわびれ共聞入ず。

『我衣』巻六 六九

ガタイ良く、朱塗りのさやに収めた大振りの刀に小倉袴、髪型も流行りのスタイルにしたなんかイキった感じのお侍さんが、小石川の水戸藩邸の前で肥桶をかついだお百姓さんとすれ違うときに、なんと肥桶と刀がぶつかってしまった、というのです。当然、お侍が怒り狂い百姓は恐縮して土下座して謝りますが、このお侍は許してくれません。

殊に辻番人の見る前もあり止事を得ざるにや、彼四尺斗の刀を稲妻の如く抜はなし、手元に居たるこいとりを只一刀に切付る。 あわや眞二ツになりしかと見る所に、彼とひとり下におきたるになひ棒をとるよと見へしが、頭上に来る刀を一はらいに払ひ退れば、其勢い風を生じて三間ばかり脇なる大どぶへ刀は落たり。

同上

辻番の者や野次馬も事の行方を見守るなかついに、このお侍は刀を抜くと百姓を切りつけます。人目もある手前、武士としては「まあいいや」と言うわけには行かなかったのでしょう。武士の特権「切り捨て御免」の発動です。ところが次の瞬間、驚くような展開になります。百姓が肥桶の担ぎ棒で振り下ろされた刀をひと払いすると、立派な刀は宙を舞い近くのドブに見事落っこちてしまったのです。

其ひまにこいとりは見物の中をつとかけ通り飛鳥の如く行方しらず逃失たり。彼侍はいふに及ばず、辻番の足軽諸見物、たゞあきれにあきれて忘然たり。彼侍是非なく袴の裾を引上、そろゝどぶへ下りて彼刀を拾ろい上、手拭にてよごれをふき、辻番へ上り不慮成事にて面目もなき仕合と一礼のべて、すごくと出行けり。

同上

当の侍はもちろん、様子を見ていた辻番も、周囲の野次馬も呆然とするばかり。その隙をついて百姓は肥桶をほったらかしにして飛ぶ鳥のごとく逃げ去ってしまいました。仕方なくお侍さんは気の毒なことに袴のすそを引っ張り上げて、みずからドブに入って刀を拾い上げます。彼はその後、辻番にひとこと言ってスゴスゴと立ち去ろうとするのですが・・・。

貴殿相手の者逃のびたる跡に残りたる菌たご一荷、屋敷前不浄に候へば御付可成と申につき、彼の侍、夫は何共迷惑にこそ候へ、暫く差置候はゞ前刻のこゐとり參り持参可致と申けれ共、辻番人承知いたさず(中略)是非なく其とひ桶をかつぎ、牛込揚場の方へ向て、大小袴羽織にておめくと出行を、立どまりたる諸見物聲をこそ上げね、囁き合て跡より慕ひ行けると(後略)

同上

水戸公の屋敷前にあの百姓が残した汚いものを置いて行く気か?と辻番に詰められたお侍、「あの百姓があとで取りに戻ってくるはず」などと言い訳しますが受け入れられず、結局、その肥桶を自分でかついで帰る始末となりました。道行く人々がコソコソと言い合ってしばらくその後を追ったとあるので、みっともないことこの上なし、といった目にあってしまったのでした。
泥だらけの袴に二本差しのお侍が肥桶をかついでトボトボ歩いて行く様子が目に浮かぶようです。
…それにしても、このお百姓さん、何だかタダ者じゃなさそうですね。


(注1)加藤曳尾庵(かとう・えいびあん) 江戸時代の医師、文人、俳諧師匠。宝暦十三年(1763)に水戸藩士の家に生まれる。江戸に出たのちに医術を学び、さらには諸国を遊歴して見識を広めたという。京では鑑定を学び、江戸では太田蜀山人や山東京伝、谷文晁などの著名文化人が参加していた「雪茶会」のメンバーとなって、曲亭馬琴や屋代弘賢などとも交流した。のちに田原藩の藩医として勤め、渡辺崋山とも交流があったことがその書に見える。
『我衣』の最後の巻が文化十三年(1811)中の記事であるが、その後の曳尾庵の消息は不詳で没年や墓所も現在まで不明。

(注2)引用はすべて昭和46年に三一書房から刊行された『日本庶民生活史料集成』第15巻所収のテキストを原典としています。



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