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他者を介して自分を知ること

「話しあうプログラム サカイノコエカタ」第2回レポート
『作品でコエていく』(ゲスト:突然、目の前がひらけて)

第2回「話しあうプログラム サカイノコエカタ」のゲストは、武蔵野美術大学と朝鮮大学校の間にある壁に橋を制作したアーティストコレクティヴ「突然、目の前がひらけて」より、鄭梨愛(チョン・リエ)さん、灰原千晶(ハイバラ・チアキ)さん、李晶玉(リ・チョンオギ)さんをお迎えしました。今回は、2015年の展示「突然、目の前がひらけて」の裏話やそれからの活動についてお話いただき、参加者の皆さんと「違い」をこえて他者と付き合うことについて話し合いました。

「話しあうプログラム サカイノコエカタ」とは?

アートプロジェクト「東京で(国)境をこえる」のプログラム。自分と他者の間にある明確なサカイを起点に、様々な方面で活動する5組のゲスト実践者と参加者が話し合いを通して他者との関わり方を見つけるプログラム。

<2015年当時>

突然、目の前がひらけて

「突然、目の前がひらけて」は、2015年に武蔵野美術大学朝鮮大学校の学生が両校を隔てる壁に橋を架設することで2会場を往来できるようにした展覧会のタイトル。当時、それぞれに活動していた両校の学生5名、市川明子さん、鄭梨愛さん、土屋美智子さん、灰原千晶さん李晶玉さんが企画・運営をし、各々の作品を出展する。2017年には東京都美術館にて「境界を跨ぐと、」を開催。2021年には京都市京セラ美術館にて「平成美術:うたかたと瓦礫 1989-2019」に参加。

プログラム前半では「突然、目の前がひらけて」の李さん、鄭さん、灰原さんにお話していただきました。

朝鮮大と武蔵美

ー李さん:2015年のプロジェクトについてお話する前に、武蔵野美術大学と朝鮮大学校(以下、武蔵美と朝鮮大)を簡単にご紹介したいと思います。

朝鮮大学校は東京都小平市に位置する学校で、校舎には北朝鮮の国旗が掲げられています。朝鮮総連という組織が運営する学校で、私と梨愛は小学校から大学まで所属していました。全校生徒も約600人と小規模で、私たち美術科の同期は7人しかいませんでした。全寮制で校内に寮があるため、外部からの入校はかなり厳しくなっています。学生の国籍は朝鮮、韓国、日本と様々ですが、国籍というよりも民族教育の選択によってクラスが編成されています。

ー李さん:そんな朝鮮大学校に隣接しているのが武蔵野美術大学です。朝鮮大に寮があることもあり、両校の間に続く壁はかなり高く有刺鉄線も付けられています。朝鮮大から武蔵美に入ることはできたのですが、その逆はほとんどなかったので武蔵美の生徒からしたら朝鮮大学校は本当に未知の領域だったと思います。

壁に橋をかけるまで

ー李さん:私と梨愛が美術科に進学した2011年は、ちょうど灰原さんが武蔵美で「渡れるかもしれない橋」を制作していた時期でした。

<渡れるかもしれない橋>

ー灰原さん:「渡れるかもしれない橋」というのは、武蔵野美術大学の端っこ、朝鮮大学校の寮と隣接する場所で制作していた作品です。
3.11の後、個人的に社会が同じ方向を向き同じことを考えなければならないという空気を感じ、どこか自分と異なる価値観を持っている他者の声を聞いてみたいと思っていました。そんな時期に隣にある朝鮮大を改めて意識しました。けれども、どうやって話しかけたらいいか分からない。そこで、もしそこに完成のない構築物を作っていたら、いつか壁の向こう側から誰かが話しかけてくれるかもしれないと思い作品制作に取りかかりました

幸運にも、壁の向こう側にある朝鮮大の男子寮で暮らす学生が話しかけてくれて、そこで初めて朝鮮大にも美術科があることを知りました。同時期に同じゼミの友人が晶玉たちが運営していた朝鮮大美術科のSNSの発信を見つけて、みんなで行ってみよう!ということになったのです。

<朝鮮大美術科の展示会場にて>

ー李さん:袴田ゼミのみなさんが朝鮮大まで作品を見に来てくれたのが、初めて「突然、目の前がひらけて」のメンバーが会った日でした。

ー灰原さん:2011年の朝鮮大の展覧会で初めて会ってから翌年、同じ制作者として「なぜ作るか」をテーマに意見を交換し合う合同展を行いました。 

ー李さん:続きを展開して行こうという話になり教科書を交換して読みあったり、一緒に外部のギャラリーを回ったりしていたのですが、なかなか方向が定まらず、それぞれで活動を進めていました。

ー灰原さん:一緒にギャラリーを巡っていた時、私が二人に「在日朝鮮人には選挙権がないって本当?」と聞くと、二人は笑顔で「そうだよ」と答えてくれました。その笑顔の真意が私には分からず、それ以上踏み込む勇気もなく、、卒業した後共同制作から私はしばらく距離を置いていました。とは言ってもその間も交流は続いていて、2014年に二人が参加していた武蔵美と朝鮮大の合同展覧会を見に行くと、晶玉が壁をこえて搬入/撤収をしている動画を見せてくれました。

ー李さん:朝鮮大美術科のアトリエから武蔵美の展示室まで正門を通ると遠回りになので、合同展をした展示メンバーであの高い壁をこえていたのです!

ー灰原さん:それを見た時、私の中で活路が見えた感覚がありました。「何か一緒に面白いことできそうな気がする!」そんな思いから動き出したのが、2015年の橋をかけるプロジェクトです。当時、私が抱いた感覚をそのまま展示の名前にしました。

私が動画で得た着想は、朝鮮大のアトリエから武蔵美の展示室を使ってひと続きに展示を見られたら面白そうだなということでした。

初めは、桁橋のように平坦な橋をかけて両校の展示室を回れる仕組みや、いっそのこと壁を取り払ってしまおうかという案もありました。けれど、それをすると同化主義的なものになってしまう危険性があるのではないかという意見も出てきました。

<フラットな橋をかけて両校の展示室を回れるようにする案>

ー灰原さん:それぞれ名前がついた川が流れているのに全てを合体させてしまうのは、個々を同質化するようなメッセージ性を持たせることになるのではないか。それは今回のコンセプトとは違うよね、ということになり壁は残す方向で進みました。


<2015年に完成した実際の橋の様子>

ー李さん:写真を見ていただくと分かると思うのですが、壁が橋より少し高く残っています。実は建築基準法の関係で、橋をこれ以上高くできなかったのです。けれども、この仕切りを跨いで進むことで、境界線をこえるという実感がより一層強く伴う作品になったと思っています。

同じ日本ではあるけれども、この壁をこえた先にある朝鮮大と武蔵美では居る場所の感覚が全然違うのです。

ー鄭さん:当初、私たちは武蔵美の芸祭期間に合わせて展示しようという話をしていました。けれども朝鮮大は人の出入りが厳しいこともあり、この作品はかなり厳しい制限を課せられた中で実現しました。

ー灰原さん:初めは「やろうよ!」と言ってくれていた職員も「今年じゃなくてもいいんじゃない?」と言い始めたり、実際に実現するまでに数多くのやりとりが行われました。
武蔵野美術大学とのやりとりで矢面に立ってくれた袴田教授の提案もあり、最終的にはみんなで学長に手紙を書くことになりました。

「閉塞する『塀』がときには何かから守る『壁』にもなるように、反面その安心感から脱しなくてはならないと思うこともある」

 ー灰原さん:梨愛のこの言葉に学長が感動してくださり、正式に承諾してもらうことができました。この言葉はプロジェクトの開催趣旨の文章として起用しています。

他者と関わることの可能性

ここからはゲスト実践者と参加者が話し合う時間です。

ーEさん:2015年の作品で、建築基準法の関係で少しだけ段差が残ったことが逆によかったというお話がすごく腑に落ちました。みなさんは、世の中にフラット(平坦)にすべきサカイというものは存在すると思いますか?

ー李さん:フラットという言葉が「同質」という意味であるならば、異質な二つの世界をどちらかの一つにしてしまうのは侵略に近い性質を持ってしまうと思います。お話を聞いていて、頭に浮かんだのは朝鮮半島の南北の分断がフラットになるかということでした。これも既に長い時間が経ってしまっていて、そう簡単に同じものにはできるものではないと思います。

ー灰原さん:一方で、自分が誰かとは同じではないということを尊重した上で同じテーブルにつけるのであれば、その”状況”は「フラット」であると言えるかもしれないですね。

ー鄭さん:私は「境」や「違い」を通して違和感を感じることが日々の生活だと思います。なので「境」や「違い」というものをなるべく肯定的に捉えていきたいです。

ーRさん:「突然、目の前がひらけて」のみなさんがフラットな状況がないことを自覚しながらも、なるべくニュートラルに他者と話し合うために気をつけていることがあれば教えていただきたいです。

ー灰原さん:私はできるだけ「私たちは」という言い方をしないようにしています。私と梨愛、晶玉、土屋、市川の考え方は当たり前ですが大なり小なり異なります。なるべく代弁しないように「私が思うに」という言い方をするようにしています。「私たち」という言葉を使うとき、その「たち」には誰が含まれていて誰が含まれていないのかというはすごく大事な話になると感じています。

ー鄭さん:私は活動を通して、他者と関わる過程で自分の輪郭をなぞるような感覚をものすごく感じました。他人を知るというよりかは、他人に向かう自分とは一体何者かという意識が強かったです。

ー李さん:私も似たようなことを感じました。相手との関わりの中で初めて気づく自分の意識が多くありました。合同展の時に、武蔵美の学生がおそらく気を利かせて「在日も日本人もどうでもいいじゃん」と言ったのです。そこに悪気がないことは分かったのですが、どうしてもそれを受け入れて「うん」と言えない自分に気が付きました。

また、別の学生から「『在日』って呼んでもいいの?」と質問されたときには、その言葉がそんなにもタブー感のある響きだということに衝撃を受けました。プロジェクトを通して他者と接しないと分からないような言葉のディテールにも気づくことができたように思います。

他者を介して自分を知ること

ー小林さん:これまでのお話を踏まえて参加者のみなさんが得た何か新しい発見や気づきがあれば教えてください。

ーTさん:私は、鄭さんやみなさんが学長に向けて書いたお手紙のエピソードを聞いて、怖さを与えるのも優しさを与えるのも人だなということを改めて感じました。

ー小林さん:いつも時代も手紙はやっぱり人の心を動かしますよね。手紙に書かれた言葉とSNSに書かれた言葉の重さの違いってどこからきているんでしょうかね。

ー鄭さん:手紙ってすごく個人的でプライベートなものだからですかね。大きな出来事じゃないんだけれど「小さな出来事」のように思えてくる気がします。

ーRさん:私は、先ほどお話にもあったように他人を介して自分を見つめ直すということがとても印象的でした。「他人に」というよりは「他人によって」自分の中に潜んでいる何かが明らかになる面白さも含めて、いろんな人と接していきたいです。

ー小林さん:まさにそうですよね。他人との関わりの中で気づく自分の考えや意識は他では得られない大事なものであると思います。ここでお時間となります。今回お越しいただいた鄭梨愛さん、灰原千晶さん、李晶玉さん、ありがとうございました!

ー鄭さん・灰原さん・李さん:ありがとうございました!

何かを解決したい時、そこにある障害物を単純に取り除くのではなく、その隔たりを踏まえてどうアクションを取るかが重要であることを学びました。もしかすると相手を傷つけてしまうこともあるかもしれません。けれどもそこに在る「違い」を探りながら、相手と交流し続けることがお互いが共に豊かになる一つの方法なのかもしれません。

話しあうプログラム サカイノコエカタ第3回の実践者のご紹介

さて、次回は「コエカタを見続けること」と題して、さまざまな越境を実践する人を見つめ文章にまとめるノンフィクション作家の川内有緒さんをゲストにお迎えします。川内さんにとって、越境を実践する人を見つめること、そしてそれらを言葉にすることはどんな意味を持っているのでしょうか。川内さんの視点は、サカイに対して別の視座をもたらしてくれる予感がしています!

https://www.artscouncil-tokyo.jp/uploads/2021/11/2021_beyond-the-invisible-border_sakainokoekata_flyer.pdf

 日時:1月18日(火) 18:00~20:00(開場時間17:45~)
会場:はぐくむ湖畔
156-0043 東京都世田谷区松原5-2-2 prendre ys 1F
定員:各回8名(先着順)

イベント参加費:¥1000(税込)
※川内有緒さんの回は定員に達しましたので、募集は締め切らせていただきました。

企画:東京で(国)境をこえる 小林真行
主催:東京都/公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京一般社団法人 shelf

ゲスト:鄭梨愛、灰原千晶、李晶玉(アーティストコレクティヴ「突然、目の前がひらけて」より)

ライター:柏原瑚子