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「話しあうプログラム サカイノコエカタ」第3回レポート『コエカタを見続けること』(ゲスト:川内有緒さん)

第3回「話しあうプログラム サカイノコエカタ」のゲストは、ノンフィクション作家の川内有緒さんをお迎えしました。デビュー作の『パリでメシを食う。』から最新作『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』まで、著作の紹介を通して川内さんが実践してきた「サカイノコエカタ」について、お話いただきました。

「話しあうプログラム サカイノコエカタ」とは?

アートプロジェクト「東京で(国)境をこえる」のプログラム。自分と他者の間にある明確なサカイを起点に、様々な方面で活動する5組のゲスト実践者と参加者が話し合いを通して他者との関わり方を見つけるプログラム。

川内有緒(かわうち・ありお)
プロフィール
ノンフィクション作家。1972年東京都生まれ。
映画監督を目指して日本大学芸術学部へ進学したものの、あっさりとその道を断念。中南米のカルチャーに魅せられ、米国ジョージタウン大学の中南米地域研究学で修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏のユネスコ本部などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどの執筆を行う。
『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』(幻冬舎)で、新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『パリでメシを食う。』『パリの国連で夢を食う。』(以上幻冬舎文庫)、『晴れたら空に骨まいて』(講談社文庫)、『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)など。全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さんを追ったドキュメンタリー映画『白い鳥』の共同監督。  
現在は子育てをしながら、執筆や旅を続け、小さなギャラリー「山小屋」(東京)を家族で運営する。趣味は美術鑑賞とD.I.Y。高尾山にも登ったことがないわりに「生まれ変わったら冒険家になりたい」が口癖。
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)が最新刊。
Twitter: @ArioKawauchi

日本、パリ、それからバングラデシュ

 「話しあうプログラム サカイノコエカタ」、第3回はノンフィクション作家の川内有緒さんをゲストに迎えた。前半は、川内さんの著作の紹介も交えながら、これまでの経歴をお話しいただいた。

 作家としての川内さんの出発点は、国際機関に勤務していたパリ時代に遡る。当時の生活は、2014年の著作『パリの国連で夢を食う。』に描かれており、個性豊かな同僚の方々の存在や、国際機関のちょっと突飛なイベントや慣習を垣間見ることができる。しかし、職場以上にその後の川内さんの人生に大きな影響を与えたのは、エツツさんという、1人の日本人女性との出会いだったようだ。エツツさんはパリのスクワット(アーティストやホームレスによって不法占拠された場所)で暮らしながら、アーティストとして活動しており、越境者というフレーズがピッタリと似合う経歴を持つ人だった。エツツさんの語るエピソードがとても魅力的だったので、「その話ブログに書いたりしないんですか?」と川内さんは聞いてみたという。ただエツツさんは、それはめんどくさいからしたくないとのこと。それであれば、自分がその話を書いてもいいかと聞いてみたことから、パリに住むさまざまな人の生活を書き留める、川内さんのプロジェクトが始まった。そうして時間をかけ、書き留められた文章をまとめたのが、川内さんのデビュー作『パリでメシを食う。』(2010年)だ。いま振り返れば、ここからノンフィクション作家・川内有緒の活動が始まったわけだが、デビュー作を書いた時点で、「作家になる!」という気持ちが特にあったわけではないと、川内さんは話されていた。

 最初の著作を生み出したパリ生活は、川内さんの国際機関からの退職と共に終わりを迎える。一度日本に帰国した川内さんがその後向かったのは、前職の職場がある欧州でも、大学院時代とコンサルタント時代を過ごしたアメリカ大陸でもなく、南アジアの小国・バングラデシュだった。「バウル」と呼ばれる人たちの存在が、川内さんをバングラデシュに向かわせたという。バウルはいかなる既成宗教やカーストにも属さない特異な存在で、バウルたちと関わると、「あなたは誰ですか?」「あなたは何者ですか?」と問いかけてくるそう。ただこの質問は、余所者に対してのみ向けられるわけではなく、バウルが自分たちに常に投げかけている問いでもある。この問いだけでも、バウルが精神世界というか、内面の世界を重視していることは窺い知れるが、そのことを示すエピソードがもう一つある。バウルは聖地巡礼をする人たちに対して、どうしてそんなことをするのと疑問をなげかける。というのもバウルたちの考えでは、聖地巡礼をする理由は自分自身の中にあり、ひいては聖地自体が自分の中にあるから。バウルにとっては、自分の中の聖地こそ重要なのだ。バウルとの交流は、『バウルを探して』(2013年)という書籍に結実する。同書は後に新田次郎文学賞を受賞した。この受賞が川内さんにとって、「物書きとしてやっていけるかも」という自信のきっかけにもなったとのこと。

アートを巡るノンフィクションへ

 その後、先述の『パリの国連で夢を食う。』、『晴れたら空に骨まいて』(2016年)と著作を重ね、2018年に出版したのが、アーティスト・蔡國強といわき在住の実業家・志賀忠重の交流と活動を描いた、『空をゆく巨人』である。蔡さんは文革時代の中国に生まれ育ち、若い頃からとにかく国境を越えたいという思いがあったそう。そんな中、たまたま来られたのが1980年代の日本だった。蔡さんと、アートに全く関心のなかった志賀さんの出会いもこれまた偶然の産物と言えるようなもので、志賀さんが知り合いに勧められて蔡さんの作品を購入したことがきっかけだった。そんな二人は交流を続ける中で、1994年に行われた「地平線プロジェクト」(いわきの海上に火花を走らせるプロジェクト)など、一緒にさまざまな協働制作を行っていく。川内さんが志賀さんに会うきっかけとなったいわき回廊美術館もまた、蔡さんと志賀さんの協働で作られた作品だ。川内さん曰く、『空をゆく巨人』を書くのは非常に大変だったそう。しかしこの本を書き終えてみて、「何かを書くのは自分自身が自由になるためだった」と感じたという。

 そして川内さんの最新作が、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(2021年)だ。この本の主人公・白鳥さんは全盲の美術鑑賞者で、20代の頃から美術館に関心を持つようになり、そこから色々な美術館に電話して、鑑賞の際に絵の説明をしてもらえるようトライし始めた。「うちはそういうサービスをやっていないんです」と断られることが多かったなか、門戸を開いてくれたところの一つが水戸芸術館だった(ちなみにその時水戸芸術館にいたのが、現在国立新美術館館長の逢坂恵理子さんで、逢坂さんはニューヨーク近代美術館が提唱する対話型鑑賞メソッドを日本に紹介した一人)。川内さんは友人からの紹介をきっかけに、白鳥さんと美術館へ行くことに。実際に白鳥さんと鑑賞をすると、色々なことに気づいたそう。例えば、白鳥さんと絵を観ると、一つの絵で10〜30分(長い時は1時間!)かけて鑑賞することもあり、その結果自分自身も絵を非常によく観るようになったとのこと。また白鳥さんに実際に会う前は、目の見えない白鳥さんに対して、自分が何かをしてあげなくてはと考えていたが、一緒に時間を過ごしていると、むしろ自分の方が白鳥さんから多くのものを受け取っていると気づいたという。

 ここまで紹介されたエピソードだけでも、川内さんがいろいろな人と出会いながら、共に時を過ごしながら、本を書いてこられたことがわかった。

具体的な他者といかに関わり続けるか

 後半は、参加者から川内さんへの質問パート。自分とは全く異なるアイデンティティを持つ人と関わりながら文章を書いてきた川内さんに対して、参加者から発された質問の多くには、実際の「他者」とどう関わっていけば良いか、というテーマが共通して含まれていた。その中からいくつかを紹介する。例えば質問の一つとして挙がったのは、「取材対象のひととなりを知るうちに、取材対象のことが嫌になる瞬間はあるか」というもの。それに対する川内さんの回答は、「書き始める段階で、相手のことを好きになっているパターンが多いので、途中で嫌になることはあまりない」というものだった。川内さんは、取材対象に対して「この人に取材しよう」といったスタンスで近づくことはあまりないという。ある人と関わってみて、その関わりの中で「本を書こう!」となる。また、相手の言動に嫌な部分を感じた時に、「それは違うんじゃないですか?」と相手に言えるくらいの信頼関係にならないと、その人について書くことができないとのこと。そのため実際の執筆までにはある程度の時間がかかり、その過程で、最初は相手のあまり好きでないと感じた部分も含めて、その人を好きになっていく。ただし、一度書き始めた取材が必ずしも最後まで行き着くわけではなく、相手があまり人生を深く知られたくないタイプだった場合には、取材の途中で「やっぱりやめましょう」ということもあったそう。

 他にも、「バウルや白鳥さんなど、他者のことを書く時、どのように相手への理解を深めているのか」といった質問が挙がった。それに対しては、「自分を開いていくことが重要」と話されていた。「誰かの話を聞きたい」となったときに、自分の話をしたくない人はほとんどいないそう。しかし聞き手には、ある程度の力量や、誠意を持つことは必要となってくる。そしてそのためには、自分を開いていくことが重要になる。そのことを、逆説的に示す例として、川内さんは自身が経験したあるインタビューについて話された。川内さんは自分でインタビューをたくさんしているが、一方でインタビューをされることも多いそう。その中で記憶に残っているインタビューとして、相手が用意してきた質問事項を、上から順番にひたすら聞かれるということがあったらしい。そのインタビューは、一対一の人間同士で会話しているというより、インタビュアーの頭に予めあるストーリーに沿って、情報を収奪されている感じがして、とても居心地が悪かったそう。相手に自分の話をしてもらうためには、ある程度居心地の良い状態で話してもらう必要がある。そのためには、例えば相手の自宅や行きつけのお店に自分が赴くといった、テクニカルな工夫も必要である一方、なによりも、会話の可能性を閉じず、積極的に自分を開いていくことが重要だという。

 そこから話は、イベントの主催者である小林さんの話題や、アートの話にも及んだ。小林さんは昨年の夏、東京から新潟に生活の拠点を移した。新天地で小林さんが自分を開くために行ったのは、大きな声で挨拶すること。『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』の中には、小林さんが携わる大地の芸術祭の作品の一つ、マリーナ・アブラモヴィッチの《夢の家》(古民家を丸々用いた宿泊体験型作品)が出てくるが、そこに宿泊した川内さんは、「こんなものが世の中にあってもいいんだ!」と思ったそう。それは川内さんがアートについて魅力を感じた経験のひとつで、わからない、変、逸脱しているといった部分が、現代美術の面白さだと感じたという。また白鳥さんとの鑑賞で、白鳥さんや、あるいは他に鑑賞を共にした人たちとアートについて話す中で、同じ作品から全く違う(時には相反するような)感想が出てくることから、アートのすごいところは、人の心がそれぞれ違うんだとわかるところだ、とも考えたと話されていた。

 最後に、参加者それぞれが今回のイベントを通して得た気づきについて、話し合われた。挙がった感想としては、「人と人とで違いがあるのは当たり前」「関心を持つ領域に対して、最初の一歩は軽やかに踏み込んでみるのもありだと感じた」「一歩違う世界に入っていくと、いろいろな世界が繋がっていくことがわかった」などがあった。レポートの筆者にとっては、自分を開いていくことの重要性に関する話題が、もっとも惹きつけられた部分だった。パリ、バングラデシュ、日本での川内さんのエピソードを通して感じたのは、川内さんが新しい人と関わるたびに、自分自身のあり方を変化させていることだった。人との関わりの中で、自分が壊れる、自分が組み変わっていくことを恐れないことが、新しい回路を開くために重要なことであると感じた。
(寺門 信)