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『ショットムービー制作ノート─8月から11月まで』意味をこえる身体へ のきろく#3

『意味をこえる身体へ』は、アートプロジェクト『東京で(国)境をこえる』のメインプログラム、『kyodo 20_30』から派生した企画です。

この企画は2020年度の『kyodo 20_30』の活動の中で、参加者が共同制作のプランを考えたときに発案されました。2020年度は新型コロナウイルスの感染拡大により実現できなかったので、今年度の『kyodo 20_30』でフリンジプログラムとして実施しています。
この企画の中心となっているのは、2020年度と2021年度に参加している蔣雯(ジャン ウェン)さん達です。
noteでは、この企画の活動の記録をメンバーが執筆していきます。

こんにちは。「ショットムービー」プログラムのプロデューサー、脚本などを担当している長谷川祐輔です。
普段わたしは大学院で哲学(フランス哲学、美学)を研究しています。

今回は、タイトルにも掲げた「ショットムービー」の制作プロセスを記録に残そうということで、わたしの視点から、2021年の8月から本格的に始まった制作フローと、そこで生じた様々な困難について2回に分けて書き留めていきます。今回はまず制作の具体的なフローを中心に書いていきます。

まず最初に「ショットムービー」という言葉について少し説明します。これは代表の蔣雯(ジャン ウェン)さんの研究テーマ、関心から来ている言葉です。
簡単に説明すると、予め物語を設定してそれに沿って俳優が演技をしていくというものではなく、俳優の対話や断片的な映像(ショット)を掻き集めてつなげていくことで、そこに生成していく物語(ムービー)を見つめていこう、という意図が込められています。

8月から続いているショットムービーの制作は、おもに以下の手順で進行しています。

1)プロットの制作
2)俳優同士の対談(オンライン)(8月〜10月)
3)撮影(対面)(10月〜)
4)編集

ここではわたしが関わった1)〜3)について書いていきます。

1 プロットの制作

俳優同士が対談をするにあたって、制作組でプロットを事前に準備します。
「プロット」と言った時に含まれているのは、主に場面設定とセリフです。時系列、俳優同士の関係性、心情などをまずは制作サイドが決めます。それらを固めた後で必要である場合にセリフを書きますが、即興の場合も多いです。対面での撮影は、これを書いている11月3日現在では2回行われましたが、オンラインよりもセリフを作って撮影に臨むことが多いです。
プロットの制作は、オンラインでのやりとりだけでもあまり苦労もなく、比較的円滑に進みました。

2 俳優の対談(オンライン)

プロットを作ったら、俳優に内容を把握してもらい対談を始めます。
1回目の対談では、まだプロフィールしか設定されていないので、俳優同士の人間関係がありません。なのでどうしてもぎこちなくなります。対談していくなかでお互いの関係に相互的な身体性が生じて、文字情報でしかなかった人間関係が質の宿ったものになっていきます。
話を重ねることで人と人の関係が情報ではなく生ものになっていく、というパターンはフィクションの世界のみならず、実際の人間関係にも当てはまることでしょう。文字情報としての物語を設定してそれを遂行していくという制作方法ではなく、対話から生じる断片を積み重ねていってその先に現れるものを見たいという、ウェンさんがこだわる制作方法は、現実世界での人間関係が出来ていくプロセスと重なるものがあります。
対談の回数を重ねるうちに、わたしはウェンさんがなぜこの方法にこだわるのか気になり始め、ウェンさんに聞いてみたことがあります。それはわたしが人と人との関係について、個人的に考えていたこととも深くつながる内容であり、このショットムービーのみならず2019年からずっと「東京で(国)境をこえる」に参加している理由でもあります。これについては回を改めて書くことにします。

3 撮影(対面)

オンラインで対談を重ねるうちに、虚構の役割としての俳優ではなく、「人対人」としての俳優同士の関係性が作られていきます。
即興の対話は生ものです。「対談→プロット制作」の流れを繰り返していくうちに、「ここから先はオンラインでは撮れない」というフェーズが自然にやってきました。ショットムービーの制作で実感した「ここから先は直接会わないとできない」という感触は、例えば何らかの物や空間が場面設定上必要だからといった具体的な理由によるものではありません。
理由はよく分からないけど、とにかく次の場面は会って撮らないと意味がないという判断になったのです。それは8月から毎週末対談を始めて、一ヶ月程経った9月頭のことでした。

さて、ここまでかいつまんで書き進めてきましたが、実際にこの流れを全てオンラインでこなすのは体力がいることです。オンラインでの対談は、8月〜9月にかけてほぼ毎週末行われ、しかも1日に3本撮りということが多かったです。
また、オンラインから対面撮影に移行するとなると、それまでは必要なかった話題──具体的には予算、様々な場所や人への許可、カメラマンの手配、移動、スケジュール調整など──についても話し合う必要が出てきます。そうしたバーチャルからリアルへの切り替わりにおいて発生した話し合いを進めるなかで、人の態度はそれまでと変わることがあります。

ここで少しだけ次回の予告的に書いておきます。
例えば人と1時間話すと言った時、オンラインだったら前後の時間を気にする必要がありません。家で話せるし、終わり次第すぐに次の予定に取り掛かることができる。しかし実際に会って1時間話すとなると、移動が必要になるしそれは1時間にとどまらずほぼ1日(あるいは半日)時間を作る必要が出てきます。
コロナ禍以前はそんなことは当たり前でした。しかし今となっては、人の時間を1日「もらう」ということについて、それを申し訳ないと思うかぜひ会いたいと思うか、価値観が分裂しています。わざわざ交通費を払って来てもらうのも申し訳ない、場所を使うにあたって許可が必要ならオンラインで済まそう、移動しても会いたい、といった風に。

オンラインでの生活が長くなり、偶然性や余白といったものが求められるようになりました。しかしそこで言われている偶然性/余白というのはどこか平和的な、お互いに「会えることの喜び」のみを前提とした響きを持っています。
しかし今回ショットムービーの制作にあたって見えてきたのは、そうした幸福に満ちた「抽象的な身体性」とは別の、事務的なことを考え始めたら不可避的に生じてしまう「具体的な身体性」や偶然性です。
偶然性というのは制作において理想的なものとして求められることが多いです。しかし偶然何かが起こるということは、予想外の成果を生み出すことがあると同時に、それまでの空気や関係性を破壊する側面も持っています。

次回の記事ではショットムービーの制作において生じた具体的な問題と、そのことを踏まえたうえでのわたしが考えるこのプロジェクトの性格、人間関係、またアートプロジェクトや芸術が果たしうる役割について書きたいと思います。

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この活動に興味を持った方がいたら、ぜひ『kyodo 20_30』に見学にきてください。詳しくはこの記事で紹介しています。👇

執筆者:長谷川祐輔 新潟大学 博士前期課程 哲学(美学、現代フランス哲学)

写真:井上明日香