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外の風がもたらしてくれるもの

「話し合うプログラム サカイノコエカタ」第1回レポート
『共事でコエいく』(ゲスト:小松理虔さん)



「話し合うプログラム サカイノコエカタ」第1回目となる今回のゲストは、福島県いわき市で様々な地域活動を行うローカル・アクティビストの小松理虔さん。今回は理虔さんが考案する共事者(事を共にする者)をテーマに東日本大震災からの復興と再生、福祉、そして外の世界との関わり方についてお話していただきました。

「話しあうプログラム サカイノコエカタ」とは?
アートプロジェクト「東京で(国)境をこえる」のプログラム。自分と他者の間にある明確なサカイを起点に、様々な方面で活動する5人のゲスト実践者と参加者が話し合いを通して他者との関わり方を見つけるプログラム。

小松理虔(こまつ・りけん)
1979年、福島県いわき市小名浜生まれ。ローカル・アクティビスト。
いわき市小名浜でオルタナティブスペース『UDOK.』を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年『新復興論』(ゲンロン)では大佛次郎論壇賞を受賞。著書には『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』など。

関わる場がそこにあること

まずは、理虔さんから「共事」についてお話しして頂きました。

ー理虔さん:震災後『当事者』であることとそうでないということでやたら線が引かれているように感じていました。

この10年間、もしかすると思いやりがあるからこそ震災について語れなかった人もいるかもしれません。けれども、語れないまま時間が過ぎると人々は語らなくなるのです。

今、当事者と呼ばれている人はみんな100年後にはいません。被当事者が震災を語る未来を見据えた時、どう外側の人たちを巻き込んでいくか、そしてその時に「あなただって当事者ですよ!真面目に考えてください」という言い方ではなくて受け手が自然に「もうちょっと福島に関わってみてもいいかな、行ってみようかな」と思ってもらうにはどうしたらいいのか、僕はずっと考えてきました。

そこで学んだのは、100ある自分の想いを5ぐらいまで抑えて面白おかしいものに翻訳しながら伝えていく必要があるというこということです。

何か大きな出来事があると、みんなその後のことばかり考える傾向があるのですが、その前から地続きになっているものを見ていかないといけないと思っています。福島にだって震災前の時間があるのです。

僕自身の活動を通して分かったのは、ずっと前からあるものがもたらす「楽しい」とか「面白い」という感情が人々の分断をコエていくということでした。


ネット上で罵詈雑言を浴びせられているような論客が、魚を釣る時には楽しそうな顔をするんですよね。うみラボの船には原発推進派の人がいれば反対派の人も来て「なんかなぁ」と思ったりするんですけれど、みんな魚を食べる時には良い顔するんですよ!(笑)

お酒や美味しいものの力を借りれば「ところであなたはなんでその立場になったんですか?」と話しができるかもしれない。そんな場がそこにあることがすごく大事だと思うのです。

でも、こうしたことができるのは僕のように福島の人間でありながら家族も家も無事で楽しく生活している『当事者』と『被当事者』の狭間、まさにサカイにいる人の特権だと思います。当事者性が薄れているからこそ僕は面白いことや楽しいことをやって、外との「関わり」を形成していきたいのです。


事を共にする社会を目指して


ー理虔さん:同じ困難を解消する時に、個人に責任を求める個人モデルと社会に課題解決を求める社会モデルの二通りがあります。

例)障害者の場合
個人モデル=足がなくても階段を登れるように訓練する。本人への専門的な働きかけ。
社会モデル=エレベーターを作るなど、周りの環境・社会に対する働きかけ。

要するに、障害のある人が尊重され自分らしい時間を作るという福祉にはプロの知恵や知識が活かされます。でも、僕はその知識がないので本人に対して専門的に働きかけることはできません。けれども、その代わり社会には働きかけることはできる。つまり、部外者であるからこそ個人ではなく社会に働きかけることができるなと思うようになりました。そこで思い浮かんだのが『共事者』という言葉です。

「当事者」=事に当たる者
「共事者」=事を共にする者

当事者とまでは言えないけれど、ただそこにいて話を聞きたい人も『共事者』という言葉なら拾いあげられる、そう考えた時、当事者/被当事者ではなく純粋に事を共にしているというだけで充分なのではないかなと思うようになりました。

実際に面白かったのは、地域史を研究されている方が認知症の方たちのグループホームでリサーチしたとき、介護を超えた豊かな時間が流れていると感じられたことです。
認知症の方は昔の出来事をすごく鮮明に覚えているので、少し昔のことを聞けば事細かにお話してくれます。何度も同じ話を聞いているヘルパーさんにとっては「またその話だ」と思えるようなことでも、地域史の研究者にとっては「新しい事実」に思えることもあり、何時間でも盛り上がるかもしれません。お互いにものすごく豊かな時間にもなり得ると感じます。

つまり、その人を守らなきゃいけない、支えなきゃいけないという想いも大事なのですが、個人的な関心に迂回していく事で、結果として福祉的な時間がつくれるかもしれない。そういった回路も、僕は大事だと思うのです。

僕は「震災復興なんて全く考えていないけれど、福島ってなんか面白そうだな、行ってみたいな」と思ってくれる人を増やしたいと思っています。なぜなら、僕自身がそういう人と関わることで人生が豊かになるからです!

震災をほぼ経験していない妻や娘が僕の人生を豊かにしてくれるように、自分の考えにも及ばない外の人が風を運んでくれたり、自分の悩みを解消してくれるかもしれない。それが復興であり再生に繋がると思います。だからこそ僕は外の人たちと交流したりイベントをやるんだと、そしてそれがきっと芸術や文化の役割なんだろうなという風に感じています。


「共事者」という言葉の可能性と気づき

プログラムの後半は、理虔さんと参加者の話し合いの時間です。

ーSさん(参加者):僕自身アートプロジェクトで日本にルーツを持たない方とお話をする機会があるのですが、その際僕はどうしても外国語が話せないので相手に会話の負担を追わせてしまっていると感じることがあります。踏み込んだ話をしようとすればするほどに言葉が壁に感じてしまうのですが、理虔さんはそうした場面で言葉の壁を感じたことはありますか?

ー理虔さん:言葉ができなくても伝えようとする姿勢があると不思議と伝わっていくような実感が僕の中にはあります。もちろん伝える側の語学力が重要な場面はありますが、それを受け取る側の力が大事になるのも事実です。なので、全てを伝えなきゃいけないと思わずに肩の荷を下ろして気楽にその場を相手と楽しんでいると、意外と相手も受信のアンテナを張ってくれるのではないかなと思います。そして一対一ではなく、その場にみんながいるといろんな人が伝えようと手伝ってくれますよね。

ーSさん(参加者):確かに、今お話を聞いていて自分も相手もまずはその場を楽しむことが言葉の違いをコエる一歩になりそうだなと思いました。ありがとうございます!

ーHさん(参加者):僕は「当事者」と「共事者」というワードがとても興味深く、お話を聞かせていただきました。なんで僕は震災の当事者になりきれないのだろうと思っていた時に、似ているようで似ていない「被害者」という言葉についても考えていました。僕は福島の人でもなければ実際に被害を受けたわけでもないので「被害者」ではない。だからといって「加害者」であるとも思わない、そんな中途半端な気持ちが僕自身の中で当事者性を持てないことに繋がっているのかなと思いました。

ー理虔さん:「当事者にはなりきれないけどなんかモヤモヤする」というのも大切な感情です。ただ、どうしてもそこに他者がいることで人は比較して「被害者」かそうじゃないかという議論に持っていってしまいます。でも、本当は自分の辛さや感じた違和感を大事に育てていくことで作品やコミュニティ、人との関わりをつくることができます。

共事者のテーマでよくお話するのが、自分は自分という人間の当事者だということです。そのモヤモヤした感情を持っているという意味では、あなたはあなた自身の当事者と言えるのではないでしょうか。もちろん他者に向き合う時、その人になりきることはできません。けれども、そこに『共事者』という言葉があることでそれでいいんだと思うことができます。

なので、僕はむしろ震災から10年たった今、東京の人が震災についてどんなことを考えているのかが知りたいです。みんな福島の人の話を聞こうと言うけれど、震災なんてあまり気にしていなさそうな東京の人の考えが実は大事になってくる気がしています。

ー小林さん(企画者):東京の人が何を考えているかは、とても興味深いですね。震災に対する自分の素直な感情や意見を交わすことで、共事者として改めて震災を考えるきっかけになりそうです。

ーYさん(参加者):僕は、今お話しされていた当事者性の濃さ薄さというのが自分の中で大きな発見でした。僕自身ゲイで色んなことを発信しているのですが、ゲイの中にもより苦しんでいる人がいればそうじゃない人もいて。それらをみんな「ゲイ」と一括りにして発信するのではなく、自分がどの位置にいるのかを考えたり当事者の中での濃さ薄さを考えることがより大事だなと感じました。

ー理虔さん:まさに今おっしゃられていたことを最近本で読みました!当事者/被当事者の中でも自分の立ち位置を客観的に把握することで、発信の仕方や活動が変わってくるから自分がどこにいるのかをつかむことがものすごく大事だと書いてありました。宮地尚子さんの「トラウマの地政学」という本です!読んだ後に僕自身の中でも「共事者」に結びつく学びがたくさんあったので是非読んでみてください。

ー小林さん(企画者):もっとたくさんお話をしたいところですが、時間となりましたので一旦ここで終了となります。理虔さん、今日は本当にありがとうございました!

ー理虔さん:ありがとうございました!

復興や再生は「楽しい」や「面白い」という感情から始まること、そして他者に関わろうとする行為そのものがその歯車を動かすこと。理虔さんの活動は私たちが既に持っている力に光を当て、大きく背中を押してくれます。

みなさんも福島や復興、サカイについて、まずは周りの人と話してみるところから始めてみてはいかがでしょうか。

話しあうプログラム サカイノコエカタ第2回の実践者のご紹介

そして次回は「作品でコエていく」と題して、50年以上前から学校間にあった「壁」の上に、橋を架けたアートコレクティヴ「突然、目の前がひらけて」さんをゲストに迎えます。実践と対話、そこから見えてきたものは何か、参加者と一緒に話していきます。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/uploads/2021/11/2021_beyond-the-invisible-border_sakainokoekata_flyer.pdf

日時:12月21日(火) 18:00~20:00 (開場時間17:45〜)
会場:はぐくむ湖畔
156-0043 東京都世田谷区松原5-2-2 prendre ys 1F)
定員:各回8名(先着順)
イベント参加費:¥1000(税込)
申し込みフォーム:https://forms.gle/fhKn4TFNExURuCW39


企画:東京で(国)境をこえる前事務局長 小林真行
主催:東京都/公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京/一般社団法人 shelf
ゲスト:小松理虔
ライター:柏原瑚子