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「社会に依存」した生き方は、「パパ活女子」の生き方と似てるかも。

年末、東京から沖縄に帰省した。

ぼんやりと海を眺めいた時間は、いろんな依存から解放されていた様に思う。

僕は、社会に依存している。

働いて給料を貰い、税金を払い、社会の福祉に支えられ、衣食住に困ることはない。

けれども違和感を覚える。

衣食住には困らず、物は捨てるぐらい余っていて、技術は日々進化しているのに、一般の生活者の忙しさが減る事はないと。

社会がうまく機能したら、仕事は楽になり、皆もっと楽しく余裕を持って生きられるんじゃないかと。

資本主義の社会では、資本力でヒエラルキーが決められる。優しい人や倫理観のある人が上に立つわけではない。

幼少期に受けた教育や、メディアを通じた価値観は、人間の競争本能や物理的欲求を刺激し、資本主義を加速させる。

一握りのビジネスの得意な人達と、大多数のそうでない人達の格差は開く一方だ。

一握りになれば、見える世界も変わってくるのかも知れないが、大多数はそこに行く事はできない。

そんな時代に、大多数の人達は心からの幸せを得られるのだろうか。

東京は資本主義の象徴の様な街だ。

ここでの生活は便利で、なんでも手に入る。人が集まってくるのは村よりも生活が楽だからなのだろうか、それともメディア広告の影響なのだろうか。

僕は、沖縄、東京、海外に住んだ経験と、日本全国を旅した経験がある。

東京で暮らす人達を見ていると、便利でなんでもあるにも関わらず、心の余裕はなくなっていっている様に見える。余裕がなくなると、楽しむことや優しくあることが難しくなっていく。僕自身もそうだ。

明るい未来に向かって働いていきたいのに、働いても働いても、買える物が少し贅沢になるだけだ。より高価なものを買う為に働いているのだろうか。

僕達は変な方向に進んではいないだろうか。

繰り返すけれど、僕は、社会の福祉やインフラに支えられている。同時に、ブランドやカルチャーも好きで、それが生活の楽しみにもなっている。そして、それはストレスを生むしがらみでもある。

例えるなら、お金の為と割り切って働く「パパ活女子」や、離れたくても離れられない「DV彼氏」に近いかも知れない。僕はそう思ってしまう。

だからなのか、さらなる都市化を目指す資本主義の社会での生活は、違和感が多く、心がすり減り、余裕がなくなっていく。

今後は、資本主義の社会とは、時間をかけて少しずつ離れて、適正な距離を見つけていきたい。

都市型の社会から、村の様なコミュニティに生活を移し、自分らしく精が出る様に働き、価値観の合う人達と支え合い、生きていきたい。

最低限のビジネスをして、自分が食べる分はなるべく自分で作って、空いた時間に創作なんか良いかも知れない。

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