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記事一覧
やがて、忘れる。(第1回)
市井より子は38歳、独身、ひとり暮らしである。
金曜の夜、そろそろ終電の時間、繁華街は酒を飲む人達で賑わっている頃合いだが、彼女はひとり、オフィスで残業をしている。
友達らしき友達はいない。外に飲みに行くとしたら、ごくたまに行われる会社の同期会に参加するくらいである。それも彼女自身が企画することはなく、唯一、その企画を毎回立ててくれていた、同期の中では一番近しい存在であった中松優子が、3年
やがて、忘れる。(第2回)
設備も真新しいコインランドリーは、休日の割に人がそこそこいた。より子も、それらの人たちに混じって、洗濯機に洗濯物を、そして硬貨投入口に100円硬貨を5枚入れた。その後ホットのカフェラテを、コインランドリー内に併設されているカフェで注文し、それをカウンターで受け取ると、大きなウッドのテーブルの一角に席を取った。
カフェラテは紙コップに入っており、この紙コップの小さな飲み口が、より子はやけどしそう
やがて、忘れる。(第3回)
きゅうりを縦に切ったスティックに、実家の母から送られてきた味噌を添え、冷凍の讃岐うどんを茹でてポーションのつゆをかけたもの、そして漬物とを、小さなテーブルに並べる。
テレビのニュースを流し見しながら、夕飯とした。明日の天気を確認しようと思って、テレビを点けたが、これはただの癖である。高尾山を登りに行く予定があるわけでなし、明日の天気など、別に晴れていようが大嵐だろうが、より子には何の関係もない
やがて、忘れる。(第4回)
自宅で入浴するよりも、ずっと熱めの湯に浸かりながら、より子はリラックスするどころか、考えることを止められずにいた。
公共の場で、しかも番台に座る初老の男性相手に、自分が女としてどう見られているのか、などと馬鹿なことを考えてしまった自分は、気でもふれてしまったのだろうか。何を考えているのか。何を考えてはいけないのか。
湯船から上がって、髪を洗い、体を流す。昔と全く変わっていないと思われるケロリ
やがて、忘れる。(第5回)
日向文治は62歳であった。昔は、歳の割に若い、などと言われることもしばしばあったが、ある出来事を境に、ここ数年はめっきり老け込んでしまっていた。
文治の旧姓は杉岡といった。内装工事職人として働いていた杉岡文治は、25歳のときに、2歳年上の日向かず子とお見合い結婚をして、婿入りをした。仲介人となったのは、よく内装工事の仕事を一緒にやった日下部達夫という男で、達夫はかず子の親戚だった。
お見合
やがて、忘れる。(第6回)
妻のかず子を亡くして文治は、ひなた湯を畳もうか、真剣に悩んだ。
ひなた湯を継いだ時に、建物と土地は相続して自分名義となっているから、光熱費と食費だけどうにか賄えば、何とか暮らしていけるのではないか。息子の会社の業績もよく、未だに心配して幾ばくかの仕送りをしてくれている。有難いことだ。
長年連れ添ったかず子が居なくなってしまった喪失感は、文治の想像を超えて、心に巨大な空洞を開けてしまった。
やがて、忘れる。(第7回)
心が動揺することなど、久しく無かった文治はすっかり気疲れしたのか、女性客が洗い場にいる間、番台に座りながらほんの一瞬、眠りに入っていた。
そして、夢を見た。
居間の炬燵に、湯飲茶碗が二客。向かって左手の位置にかず子が座っていて、籠に盛られたみかんを、二人で剥きながら食べている。
「文治さん。」
「なんだ。」
「人間はさ。どんなにツラいことがあっても、どんなに頭にきても、どんなにオドロクこ
やがて、忘れる。(第8回)
日曜の朝。
より子は、リプトンアールグレイのティーバッグを、紺色のマグカップに入れた。そして冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、やかんに注ぎ、火にかけた。
紅茶は、缶入りのリーフティーの方が、缶もステキだし、おしゃれだな、とは思っている。それに合わせて、洒落たティーセットでもあれば、女性っぽいんだろうな、とも思う。だがより子は、ティーバッグのリプトンアールグレイが、リーフティーのそれより
やがて、忘れる。(第9回)
文治は、空色のバスタオルを手にして、ひとり脱衣所に突っ立っていた。
昨晩あの後、ひとまず番台脇に置いておいたものを、今朝、開店前の掃除にやって来て見つけ、改めてそれを手に取った。
ふと鼻先にバスタオルを持っていき、すっと、匂いを嗅いだ。匂いはしなかった。
女というものはまるで猫だな、と文治は思った。
子供の頃、文治は猫を飼っていた。文治は猫の匂いを嗅ぐのが好きであった。
猫というも
やがて、忘れる。(第10回)
すっかり考え事に耽ってしまった文治は、時計を見て「もう昼前か。いけねえ」と独りごち、ブラシを持つと洗い場へ向かい、ゴシゴシと掃除し始めた。
しばらくすると、旧知の仲であり、かず子との仲介人でもあった日下部達夫が、いつものように前触れもなく、ふらっと現れた。
「よう、文ちゃん、元気。どう、あっちの方は。」
この「どう、あっちの方は」というのは達夫の挨拶代わりで、文治が内装工事職人だった頃から、
やがて、忘れる。(最終回)
日曜の夜、ひなた湯の閉店まであと1時間のところで、より子が突然、現れた。柱時計の22時の時報が、ちょうど鳴り止んだ頃合いであった。
もうあのお嬢さんは来ない、と決め込んでいた文治は、虚を突かれた。
しかし、昼過ぎに達夫がやってきて、そして帰った後、彼女が現れたらどうするか、ということについてはすっかり腹を決めていたので、その決定に従い、落ち着き払って、言った。
「いらっしゃい。」
「あの