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僕たちの現在はアルベール・カミュによって既に描きつくされていた

少し昨日の続きのような話になる。

目が悪くなって、紙の本が読みにくくなった。そのためフォント調整が可能な電子書籍に頼らざるを得なくなった。しかし、紙の本に比べると、キンドルであれPCであれ、長時間の読書には向かない。すなわち身体的劣化がダブルで僕の読書生活に深刻な影響を及ぼしたのである。

しかし、多読以外は読書ではないわけでもない。自分の頭で考えるということと、よく選んだものを少しずつ精読するということは相性がいい。

今日は、PCとキンドルと文庫本を併用して、最近、再び、ベストセラーになっているカミュの「ペスト」を読んでいた。

カミュとの最初の出会いは、フランス語を勉強し始めの頃で、初等文法をそれなりに終えたあとに、その抑制のきいた、シンプルな文章にひかれて、L'etranger(異邦人)を読んだ時だったと思う。

Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. J’ai reçu un télégramme de l’asile : « Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués. » Cela ne veut rien dire. C’était peut-être hier.

離人症的にも見える、淡々とした語り口は、ビギナーにもわかりやすく、過剰な達成感を得ることができたのを記憶している。

その後は、当然、翻訳で読んだのだと思う。分厚いペストなどをフランス語で読もうと思うほど、フランス語に没入することは結局はなかった。

翻訳されたペストも何度か読んだはずなのだが、さほど記憶に残っているわけでもなく、発表当時の大ベストセラーだとは思うのだが、人生におけるこの一冊になったわけでもない。

今回、自分の本棚でこの本を探したのも、今売れているという新聞の記事を読んだからに過ぎない。

今日は、天気が悪いので、少し落ち込みながら、寝たり、読んだりの生活だった。

こんな文章が目に入った。

このようにして、各人はその日暮しに、そしてただ一人天空に対しつつ、生きることをうべなわねばならなかった。一般のこの見捨てられた状態は、長い間には結局人々の性格を鍛え上げるべき性質のものであったが、しかし最初はまず人々をつまらぬことに動かされる浮薄な人間にした。たとえば、市民のなかのある連中の場合など、彼らはそこでまた別の奴隷状態に陥り、太陽と雨によって意のままに支配される人間になってしまった。彼らの様子を見ていると、生まれて初めて、それもじかに、その日の天気から受ける感じというものを感じたかのようであった。単に金色の光線が訪れたというだけでいかにもうれしそうな顔つきをしているかと思うと、雨の日にはその顔面にも想念にも厚い帷がおおいかぶさるのであった。彼らも数週間前には、こんな弱点や没理性的な隷属状態に陥らないで済んでいたのであるが、それは彼らが世界に対してただひとりでなく、そして、自分と一緒に暮らしていた人間がある意味で自分の住む世界の前面に介在してくれていたためであった。これに反して、もうこの瞬間からは、彼らはむきつけに天の気紛れにゆだねゆだねられることとなり、すなわち、理由もなく苦しみまた希望をいだくこととなったのである。(ペスト)

  自宅に「流刑」(カミユ)状態に置かれた僕たちは、いまだに、この状態が一過性だと考えている。しかしこれが3週間ではなく、半年、1年、2年と延長されていくならば、僕たちの心理がより追い詰められていくのは明らかだ。

その日の天気によって、心が揺れ動く今の状況は、まさにカミュが描き出している初期的隷属状態を示しているという発見に呆然としてしまった。

芸術家の感性が、当時、虚構の中に作り出した実感のリアリティが、まさに、僕たちの心理を正確にとらえているという不思議だ。

このベストセラーは、これまで、あらゆる不条理の象徴を表現したものとして解釈されてきた。ペストは、その喩に過ぎないと。

しかし、その虚構が、現在、むしろ、僕たちの心理のドキュメンタリーとして読まれることになることをカミュには想像することができただろうか。

僕たちは、いつ終わるとも知れない「流刑生活」のほんの入り口に立っているのかもしれないという息が苦しくなるような不安の中で、この小説を読み続けている。

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