見出し画像

【Last Season Essay 2022 #4】 OL#74 屋敷昌尭

フットボールの背中

父とはあまりしゃべらなかった。

幼少期はキャッチボールなどよく遊んでいたし、旅行などもよくしていたが、受験期での衝突などもありだんだんとしゃべらなくなった。父は、僕と兄に勉強をすることを望んだ。大学時代に勉強しなかったことを悔いていたのだろう。兄は昔からとにかく勉強をしていた。勉強が大好きだったようだが、勉強してほしいという父の意向にはしっかり応えていた。

一方で僕は勉強よりも運動が好きだった。小学校の授業も宿題も好きになれなかった。小学校高学年になり、親の意向で塾に入ったが、中学受験へのモチベーションが低かったので、受験勉強への意欲も湧かなかった。それでも塾に行き続けたのは、塾の友達と喋るのが楽しかったからだけではない。辞めることに対するプレッシャーを感じてしまっていたからだ。

中学校に入ってからも、勉強よりも運動をしたい自分と勉学で身を立てて欲しいと願う親の意向とのギャップに常に思い悩んできた。東大に入学した後も、やはり勉強してほしいという親の思いは感じていた。父は「アメフトは危ないし、大学は勉強するところだ。アメフトばかりして勉強しなかったら父みたいに社会に出てから苦労するぞ」とアメフト部の入部には猛反対だった。しかし、大学生になったわけだし、自分のやりたいことは自分で決めたいと思い、親に黙ってアメフト部に入部した。

親の意向に抗っての入部であったが、実は入部してからずっと見ていたビデオがある。それは1987年の甲子園ボウルである。父が京都大学の主将として活躍していた試合であった。自分たちと同じ国立大学の京都大学が甲子園ボウルに出場していた。1年生のときは、出てくる名前も聞いたことある父の友人・知人ばかりで初心者の自分からしたらアメフトを見る機会として馴染みやすかったという理由で見ているだけだった。しかし、いろいろなスキームの差はあれど、学年が上がっても飽きずにその映像を見ていた。学年が上がるにつれ、いかに父のプレーがすごいかがわかるようになった。

そしていつしかそんな選手になりたいと思った。今まであまりアメフト部に関わろうとしていなかった両親も自分が試合に出るようになるとだんだん応援してくれるようになった。家で息苦しさを感じていた自分としてはそれだけでもすごく嬉しかった。

4年生になり、秋シーズンももう残すところはあと一戦となった。自分はまだこの一年で追いつけてはいないだろう。でも残り1試合、どこまでもその背中を追い続けたい。(4年 OL #74 屋敷昌尭)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?