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今も面影を残す、東京・丸の内に存在したロンドンとニューヨーク。

こんにちは、東京歴史ナビへようこそ!
本日も、歴史とともに東京の街を案内していきます。

今回の歴史ナビのテーマは「丸の内に存在したロンドンとニューヨーク」です。

丸の内にはロンドンとニューヨークが存在してた頃がありました。
その名も一丁倫敦と一丁紐育です。

一丁倫敦とは現在の鍛冶橋通り沿いに存在した洋風建築の赤煉瓦のビルの並んだロンドンのような街並みを表しています。
一丁紐育とは現在の行幸通り沿いに近代的なアメリカ式ビルの存在したニューヨークのような街並みを表しています。
互いに一丁とつくのは長さを表していて数字にすると100mです。
100メートルごとにビルのならんだ街並みという意味から一丁とつけられています。
現在も丸の内には一丁ロンドンと一丁ニューヨークと言われた頃の面影を残す部分がありますが、
今回はその2つをお伝えしていきます。

東京歴史ナビでは各地域にスポットを当てた歴史や、
その歴史的な視点でルート案内を行った内容をPodcastやYouTubeで配信しています。

noteではそれをテキスト化し、画像を含めて分かりやすく説明しています。

早速いきましょう。


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イギリス、ロンドンにあった赤煉瓦の街並み
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丸の内には三菱の企業が多数置かれています。
明治23年に三菱が陸軍から払い下げたことがきっかけでした。
詳しくは別の回で話していますので省かせて頂きます。

三菱により払い下げられた丸の内はその後、「三菱が原」と呼ばれる草原が広がっていました。
そこを、開発していくのですが、そのコンセプトとして上がったのがイギリス・ロンドンにあるロンバード街の赤煉瓦の街並みです。

建てられたのは
建築家のジョサイア・コンドル氏が設計した、クイーンアン様式と呼ばれる外観を基調とした煉瓦(れんが)造りの建物です。
現在の三菱一号館美術館として存在する建物は復元されたものですが、当時の面影を残しています。


三菱の丸の内開発のはじまりがその一号館であり、日本で最初のオフィスビルでもありました。
東京駅丸の内駅舎の赤煉瓦建築もその一つです。

それが東京国際フォーラム横を通る馬場先通り沿いにあり、明治時代中期の丸の内の中心はここにありました。
当時は馬場先門から伸びる通りであったことから、馬場先通りと呼ばれていたそうです。

馬場先通り沿いに似たような赤煉瓦の洋風建築ビルが建てられていき、コンセプトとなったロンドンの街並みを彷彿とさせるところから一丁倫敦と呼ばれました。


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アメリカ、ニューヨークの近代建築ビル
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一丁紐育は一丁倫敦の後に誕生します。
大正時代に入ると東京駅を含め、現在も丸の内を代表する建物が多く建築され急速に発展していきます。

その流れの中で赤煉瓦街がニューヨークのスラムを連想させるという声があがるようになり次第に赤煉瓦の建物は解体され建て替えられていきました。
その後出来たのがアメリカ式建築の近代的ビルです。
コンクリート造りの高層ビルで、およそ31メートル、階数にして7,8階建てのビルです。

今は各ビルの低層階として面影を残しています。

当時にしてはそれでも巨大高層ビルだったそうです。

東京駅丸の内口から一直線に伸びる行幸通り周辺にはそのアメリカ式建築のビルが並ぶようになり、ニューヨークさながらの様相を見せました。それを一丁紐育と呼ぶようになったそうです。
その頃には丸の内の中心も一丁ロンドンのあった鍛冶橋通りから行幸通りへと移っていきました。


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オマケ 丸の内スカイライン
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一丁ニューヨークが存在していた頃、建物の高さは百尺(31メートル)で制限されていました。
景観を損なわないための規制でもありましたが、耐久性と言う面でもそれが限界だったと言われています。
その百尺で揃えられたビルの面影は今もひそかに残っていて、丸の内を歩く際のちょっとした楽しみになると思います。
丸の内に存在する丸ビルや新丸ビルの低層階とタワー部分は別構造で設計されています。
低層階は一丁紐育と呼ばれていたころの高さ百尺を維持した設計で、
丸の内周辺を見わたすと、その低層で揃えられた当時の高さを再現するビルが多く並んでいることに気づけるかもしれません。
それが一丁紐育の面影とも言えます。

大正から昭和にかけての丸の内周辺のビルは、高さ百尺で揃えられ、丸の内の空を見上げるとビルの高さが一直線に揃っていたそうです。
それを丸の内スカイラインと呼んでいました。


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まとめ
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ということで、丸の内に存在したロンドンとニューヨークについてお伝えしてきました。

明治中期ごろに三菱一号館からはじまった赤煉瓦建築のビルが並んだ鍛冶橋通り周辺を一丁倫敦といいました。
当時の面影は三菱一号館美術館の外観で確認できます。

大正時代に入り、赤煉瓦建築が姿を消すとコンクリートつくりのアメリカ式近代ビルが行幸通りに並んでいきました。
その周辺を一丁紐育といいました。
当時最高であった高さ百尺は、現在も丸ビル、新丸ビルなど低層階によって面影を残されています。

その高さは当時、丸の内スカイラインといわれ現在の美しい丸の内の街並みへと繋がる魅力的な景観でした。

以上が丸の内に存在したロンドンとニューヨークのお話でした。
いかがでしたでしょうか。


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あなたの通勤や暇潰しのお供となれれば幸いです。
ありがとうございました。

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