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ショートショート「雨は、私の心まで濡らさない。」

雨は、私の心まで濡らさない。靴下に嫌悪感の滲む不快な澱みが纏わりつく。一歩、また一歩と歩みを進める程に惨めに、酷くやるせなく、自責とも他責ともつかない負の念を込み上げさせながらも私の心は恐ろしく乾いている。

禅を組み、丹田に意識を集中させ、迸る雑念と別れを告げた瞑想の先にこんな世界があったとは。一度認知してしまえば、もう目を背けることは出来ない。どれだけ科学に依って疑おうとも、どうしようもなく、揺るぎなく、それは此処にあるのだ。

その葉を紫色に滾らせ、こちらを威圧するように、或いは嘲笑するかのように瑞々しく屹立する、欅に似た樹形の並木道を歩む。雨に泥濘む、不可思議に硬い粘土のような道を、此処を知覚してしまったことへの、後悔に似た厭世を携えながら傘もささずにただ、歩く。雨は降れど雲は一つもない。いや、あの空が一つの雲そのものなのだろうか。風は見事なまでにまるで吹かない。
化物、悪魔、魑魅魍魎の類は人の心が生み出した創作であると、或いは誤解であると信じきっていた。成程、悪魔崇拝だなんてことをする連中も居る訳だ。

頭痛とまではいかない、鈍い疼きが煩わしい。あの鳥は、鳥なのだろうか。翼はある、三つ。嘴はあまりにも鋭く、銛のように凶器的な格好をし、眼は死んだ魚のように虚ろで、頭部に対して不自然に大きい。
建ち並ぶビルディングは、外観自体は私の知るそれらと大差ないが、どれもこれも途轍もなく死んでいる。中には誰も居ないだろう。汚れている訳でも、綻んでいる訳でもないのにその存在が死んでいることだけは確信が持てる。解せない。

瞑想をする者は多くあるだろうが、皆が皆此処を知覚する訳ではない筈だ。私が特別な人間な訳はない。何か誤った手順のようなものでもあったか。
あの時、悪魔の類の男が(男か?)喝破していた「愚にもつかない思料」と言うのが関係しているのか。深淵のような外套を羽織り、小さな烏帽子を被った、目鼻立ちの整った恐らくは男だった。陽炎でも放っているのか、身体の輪郭を歪ませながら男は私に言った。

「嗚呼、不憫なる隣人よ、知らぬ儘に愚直なる儘に死に逝けば良いものを、観てしまったならば其れ迄だ。貴君がもう晴れることはない。悠久の雨天に心を濡らし照覧するが良い、この世の理を。」

雨の勢いは激しい、然し一粒一粒があまりにもか細く、衣服を滴らせる程ではない。
そう言えば、選挙はどうなったか。票を投じたい候補は通る道筋がなく、投票所へ行く気はもう失せていた。この国の行末をどれだけ案じたとて、この空は明けない。時計の針は十二時近くを指している、昼だろうか夜だろうか。
世界の約束を破りさえすれば、子ども達の未来が照らされるとして、どれだけの人々がそれを選ぶだろう。社会の構造は変わっていく。開けた草叢から、年月をかけて狭く、醜く、パノプティコンのような形状へと。自ずから覗かれるように、自ずから収まるように。

変わらずに風はない。然し轟々と吹き荒ぶ嵐のような音が辺りに響き渡る。猫なのか犬なのか見分けのつかない野良が、私を侮蔑するように一瞥し、目の前を横切る。やがて並木は切れ、より無機質なビル街へと歩いて行く。

始まりは不純な動機だった。禅を組めば仕事が上手く行くと言った種類の甘言に唆され、気安く齧り始めた。存外にのめり込みヨーガや仏教を学ぶようにもなり、成果も僅かに感じられるようになった。そしてある時、深く瞑想をしていると、どこかで何かが結ばれたことを私は見出し、そして眼を開くと重なった世界がそこにはあった。
もとあった世界に、魑魅魍魎の世界が二重螺旋構造のように重なり円環を成していた。

重なった世界からは、もとあった世界に塗れている嘘が透けて見え私は慄いた。政府とは国民の為に政治を行なっているものだと疑わなかったし、テレビや新聞に書いてあることは概ね正しいと信じ込んでいた。
私を筆頭に、人は歴史から学ばない。人類史とは侵略と支配の永劫的な繰り返しであり、それは何も終わってはいなかった。

私は今、“首”と呼ばれた悪魔の類の恐らくは男に会う為にこの道を歩いている。悪魔に魂を売ると言う表現が比喩でないとは夢にも思わなかった。
然し私は、魂を売るつもりはない。背負ったこの重厚なグレネードランチャーで悪魔の眉間を盛大に撃ち抜くのだ。
悪魔を相手にこんなものが通用するのかは分からない。されど撃たねばならない、親が子の未来を諦める訳にはいかない。

湿度も気温もともに高く、雨に濡れた肌は酷く冷えているが、身体の芯は火照るように暑い。
雨は、私の心まで濡らさない。頬を伝うのが雨なのか汗なのか、それとも涙なのか、自分でも、とても判別できそうにはない。



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