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傷だらけの、文学 7.  学者と作家の間には、深くて遠い川がある




 いつの時代も世の中の重力に逆らう人がいる。


 1.

英雄、エリート、才人 (あるいは偉人、学者、作家)。

日本文化の礎を築いたのは明治時代の福沢諭吉である、
とはオサツにのっているからでなく、現在知識人の一致した意見のようだ。
異議をいろいろとなえる人もいるにはいるけど無難な選択といった感じです。

諭吉は、
勝海舟が維新になっても政府要職の中にいたことをなじった。
諭吉にはとうてい理解できなかった。

ところで歴史が示すように中国史ばかりでなく、
日本でも最後の将軍は現体制を正当化するために
どうしようもない無能な人間にしなければならなかった。


( そういうわけで現在の体制でも義務教育や高校を出るまで、戦前の東條英機を悪人だと思わされ、思いこんでいた。
 二十歳も過ぎ、いろいろ本読み、その当時の政治状況では、アメリカに例によって、植民地か反撃されるかに追いこまれていたのだった。負けるとわかっても、比較的温厚な黒人が奴隷にされ人身売買されるより、黄色人種特有のプライドを重んじるインディアンと同じような行動を取るのは明らかだった。
 日本国民を悲惨な目にあわせた張本人としても、初めから降参したほうがよかったのかな。そして次の体制は、中国の歴史などを見なくてもわかるように、文人上がりの軟弱外交が国内の覇権を握った。)


だから海舟は政権内にとどまって、
慶喜公と明治天皇の和解まで死ぬわけにはいかなかった。
30年かかった。
それからしばらくして勝海舟はなくなったのだった。
一回り下の諭吉にはわからなかった。

それに現代の歴史作家は、
明治以降の勝海舟にはとりとめていうようなことはないともいっている。
安全な場所で結果からしゃべる人が多い歴史作家には、
チャンチャンバラバラやるのが英雄だと思っているらしい。

そんな福沢諭吉にも、
優れた学者でも、
身分が低くかったので不遇であった父親を見て、
封建制度は父のカタギでござる、といったのは有名な話だ。
「学問のすすめ」という本があるくらいだから、
学問には思い入れがあったんだね。
父の無念さもあった。
それもあってか、戦前までは学者はえらく待遇されていたようだった。
エリート待遇だったし、いまも優遇されているように見える。

だから一世代下の坪内逍遥が学士さまであるのに、
小説を書いていたので、ひとつコゴト的な意見をいったのです。
彼、諭吉には、小説が幕末の戯作文学に見えたのでしょう。
いまでいうところのマンガ劇画みたいなもので、大学で扱うようなものだろうかなどと。



 2.

戦前、戦後すぐの有名作家や詩人には、生まれ環境もあるのか、
父親が学者である人が気のせいか、多いみたいです。
戦後すぐでも東大の作家、芸大のプロ歌手が
他の希望者よりハンディもらってデビューできるのに、
よほどのハングリーや才能はあっても、多少ためらっていた。

でも最近は東大生や芸大生がやりたいといっても、
最初は話題のネタでいいかもしれない。
いまでは出版社もレコード会社も少しばかり
社会的知名度が上がってきているので、外ヅラより会社経営が大切です。
大手会社になると建物代とか社員のサラリーがかさんで
金まわりが大変、売れない人はいらないといわれる。
マンガ雑誌出している出版社とか、お笑い芸人が多いプロダクションならまだしも。

そんなこんなで
出版社や芸能プロダクションの社会的知名度が上がったり、
サラリーが上がったりしたら、
もう肩書きやエリートはいらない。
外ズラは上がっていくのに、
内ズラがしぼんでいくのが資本主義の宿命で、
共産主義に似て、物質的な対価が欲しくなる。
一流会社になって大企業になれば、ゾウさんじゃないけど、
体を維持するためにたくさん食べ物を食べなきゃいけない。
会社を維持するために、金を稼がなけばいけない。



自然に資本主義社会の定番で、
中味が薄く、刹那的商品として扱われていき、
フットワークがいいというより、フットワークされてしまう。

逆に会社も営業利益に振り回され、
振り回したつもりが振り回されて、会社がオジャンに。
いつしか目先のことに目がくらんで、
肝心な文化芸能のことも、会社組織も崩壊するとは、
政治の幕府体制にも似て、人間の業みたいなものといえばいえるんでしょうね。

だから大企業にならなくても、
大手に潰されないように自分たちの仕事は
これぐらいでじゅうぶんだと思ったら充分じゃない。


たとえば幅広く視聴率を上げるには軽く浅く受けをねらわなければいけないし、
フォロワーを多数もらうには万人向けしなければいけない。
じぶんの言いたい、やりたいことがそんなに受け入れられるはずがなく、
すべての新しい思想や芸術が片隅の少数から始まったのは歴史の当然で、
おじちゃんおばちゃん、子どもたちにそんなに簡単に支持されるとは思われない。

新しい思想や芸術の思いは、いま言ったように社会の片隅で、これはおかしいとか、日常生活のうまくいかないやるせない気持ちから、生み出されてきたんじゃないだろうか。
完成された学問の王道、文学の王道から斬新なクリエイティブなものが生まれるわけもなく、成熟なる絶頂はすでに崩壊が始まっていた。

商売上手とは逆であるような気持ち、
でも上手になりたい複雑な気持ち。
でもやっぱり、少数でもほんとうにわかってもらいたいなどと。



すぐれたもの、共感できるものは静かに潜航して徐々に浮かび上がってきます。
あるにこしたことはないけど、
そんなに広がりを見せなくても、じぶんのやりたいをやって、
これぐらいあれば商売が精算できるとか、
これぐらいあればいいとか。

つぶれないほどの常連さんをつくるような健全経営なんて、
教養ある人、大衆向け、
どちらがむずかしいのだろう、
そこが問題だ。

( しかし何をするにも、お金が必要で
金を握る者は組織を握り、
財務省は官僚のなかで、不動の一番人気もわかってきます。
三島由紀夫の父親が、高級官僚の水産局長にもかかわらず、
大蔵省(現•財務省)のところに、
頭を下げに行っていたのを見ていた子どものカレは、何かしらの思いを胸に大蔵省に入った。)

中学高校で検定教科書をまじめに勉強して、
すなおにテレビや新聞を見て読んでる人に似て
健全に国民教化されている人々には、
じぶんでは教化されていないと思う人々が多いなか、
あたりまえのように、
科学的とデモクラシーをともに掲げている中国や米国に対して、
反対ともにおのおのひとつのサトった意見をもっている。

歴史のなかの国民は、昔もいまも変わらない、当然の健康な考えだった。



 それにしても、すぐれた文学が大衆本位の民主主義的な文化にそぐわないのは、心の貴族制を保つためには理の当然で、いつの時代も世の中の重力に逆らう、困った人がいるのだった。

 華やかだった江戸時代の町民文化もかつてそうだったように、文学ジャンルも、大衆文化支持が大手を振るっていけば、やがて現代の市民文化も文学的なものより、楽な戯作的なものになっていくのは自然の流れだろう。古代のローマ文化や現代のアメリカ文化を見れば、簡単に予想できるってものさ。



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