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誕生日を祝う意味とは? 〜礼としての誕生日〜

最近誕生日を迎えたが、ふとなぜ誕生日を祝うのだろうかと疑問に思った。
生まれた日というだけでなぜそんなに大切なのだろうか。

そんなことを考えてると、ふと儒教における<礼>という概念を思い出した。
<礼>といえば、礼儀を普通は思い浮かぶだろう。そしてなんとなく「礼儀を重んじろという古臭い堅い教えでしょ」なんて思ったりする。この一見古臭くて堅いという<礼>という概念に対して、全く異なった解釈を与えた人がいる。

ハーバードで東洋哲学を研究しているマイケルピュエット教授に言わせれば、礼とは<かのように>を演じることによって自分自身を変える営みだという。別の言い方を使えば、理想を演じることによって現実にいい影響を与えようとする営みなのである。


孔子は祖先や亡くなった家族の霊を祭る祭祀が大切だと説いていたのだが、孔子曰く実際に先祖の霊がいるかは大事ではなく、あくまで「霊が目の前にいるかのようにする(祭如在、祭神如神在)」ことが大切であると。

思えば現実の家族関係は必ずしも祭祀で演じるように理想ではなく、例えば生きている間は父とはずっと不和だったかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、理想的な関係を体現する空間である儀礼空間に入れば、生前の恨みは解消され、よりよい関係に発展しうる。そして、そこにいた今生きている家族の関係にも良い影響を与える。
もちろん一回限りの祭祀ですべてが変わるとは限らず、日常生活に戻るとまた面倒臭い関係に悩まされることが多い。だからこそ、繰り返し祭祀を行って、理想を演じることによって、現実にいい影響を与えるのである。

マイケルピュエットはこれをカップルの間で頻繁に交わされる「愛してる(I love you)」になぞらえる。(日本人は愛してるなんてめったに言わない人が多いから、日本語に直すとしたら「好きだよ」が適切だろうか笑)

口癖のようにこのセリフを交わしているカップルも、おそらく年がら年じゅう心からの愛を感じているわけではない。
まず間違いなく、ときには相手に対していろいろ複雑な感情もいだくはずだ。しかし、「愛してる」と口にする礼によって、現実から離脱してどの瞬間も互いに心から愛し合っているかのようにいられる空間へ行き、二人の関係をはぐくむ大義名分がある。カップルが<かのように>の愛を口にする瞬間、二人は本当に相手を愛しているのだ。

さて、本題に戻ろう。
このように<礼>を、理想を演じることによって現実にいい影響を与えようとする営みだと解釈すると、誕生日とは何だろうか。

我々が生まれた時、間違いなくその<生>を家族をはじめすべての人に祝福されたであろう。そして、毎年のように生まれた日になると、それを祝福してくれる人がいる。
現実の我々の生活はおそらく誕生日で祝福されるようには理想的なものではないだろう。仕事で失敗したり、人間関係で揉めたり、試験でミスったり、不注意で事故だって起こすかもしれない。しかし、誕生日になれば、いろんな人が祝福してくれるおかげで、この世に生を授けたことが素晴らしいことだったんだと再確認できる。誕生日を祝うことは、先祖に対する祭祀やカップル間で交わされる「愛している」と同様に、一つの理想の空間を作り出すことであり、それによって我々は必ずしもうまくいかない現実の生活にいい影響を与えられる。
そう思うと、何気なく使っている"Happy Birthday"という言葉も非常に大切な重みのある言葉に思えてくる。

ということで、これからの1年も自分なりに一生懸命生きたいと思います。
そして、誕生日を迎えるすべての人の<生>を祝福する言葉を最後にこの記事を締めたいと思います。


"HAPPY BIRTHDAY"



<参考文献>
Michael Puett, Christine Gross-Loh "The Path: What Chinese Philosophers Can Teach Us About the Good Life" (邦題:『ハーバードの人生が変わる哲学』熊谷淳子訳、早川書房)


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