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「他者への想像力」をもつということ

先日久しぶりに北京に行きました。
サークルの仕事で行ったので、あんまり観光できなかったのですが、北京での思い出を思い起こしながら懐かしい気持ちに浸っていました。
本日は北京で思ったことを記事として綴ります。

昨年、とある学生交流プログラムに参加するために北京に行きました。
プログラムが始まる何日か前について、いろんなところを観光で回りました。そのうちの一つが「抗日戦争記念館」です。いわゆる日本でいう日中戦争について紹介している博物館です。
僕自身は北京在住経験があり、中国の教育を受けたこともあるので、なんとなく中国人のあの歴史に対する見方がわかります。中国人視点でなぞる日中戦争の展示物をみながら、ふと思いました。

「これを普通の日本人がみたらどう感じるだろうか」

「日本が過去にこんなことをしたのを知らなかった」と素直に展示を受け止める人もいれば、「反日的だ」「共産党のプロパガンダだ」「そもそも展示物が本物だろうか」と違った見方をする人もいるだろうかと思います。
僕自身はどうかというと、もちろん展示の内容に関して首をかしげる箇所も一部にはあったものの、基本的には「中国人からあの歴史がどのように見えるか」を学ぼうという思いで展示をみていました。

見えない他者の存在

あの歴史に関するキーワードを調べてみたときに、現在の日本社会のネット空間にはどのような言論が溢れているのだろうか。
たとえば、「南京事件」。Googleで調べてみた結果、上から4つめに「「南京大虐殺」は捏造だった」という記事をみつけた。他にも全否定論が目立つ。
そのほか、「日中戦争」や「慰安婦」などいろんなキーワードで調べてみたが、そうでない記事もあるものの、極論や日本の正当性を主張する記事がかなり溢れている(なにをもって中立、極論とするかはかなり主観的なものだが)。

我々が普段生活する中で、何か話したり行動したりするとき、どれだけ見えない他者のことを考えられているだろうか。
歴史問題でいうと、極論(全否定論)を主張する人は果たして他者、ここでは中国人・韓国人、のことを考えているだろうか。はたしてそのような主張をすることが問題解決・相互理解につながると思っているのだろうか。同じことは逆側にも言えて、反日デモしたところで、何の問題解決にもならないのだ。ただ単に日本人の対中・対韓感情を悪くするだけだ。(もちろん声高に主張することが時に効果を発揮することは、公民権運動や女性解放運動などで示されている。声高に自分たちの意見を主張することすべてが一概に否定されるわけではないことに留意しておく)
歴史問題に限らず、この問いは様々な場面で問われる。例えば、SNSでの炎上もそうだ。炎上を起こしてしまう人はどこまで画面の向こうにいる遠い他者のことを考えられているのだろうか。そして、炎上に乗る側にも同様の問いを投げかけられる。私たちは、自分の言葉が遠い他者にどのような影響を及ぼしてしまうのかをどれだけしっかり考えているのだろうか。

東大で感じたこと

私は東京大学に在学しているため、良くも悪くも比較的恵まれたいわゆる社会的にはエリートと呼ばれる層と話すことが多い。
ゼミや学生団体の活動で社会問題や国際問題について議論を交わすことも多いが、ある日ふと思ったことがある。

「問題の当事者じゃない僕らで話す意味ってあるだろうか。」

問題の当事者でない僕たちは当然当事者の苦しみを知らないし、どこか他人事だと思っている部分は否めない。これは近年の辺野古基地移設問題や生活保護受給者へのバッシングでも感じることだ。はたして辺野古基地移設問題で自分の意見を発信する人はどこまで沖縄の人たちの苦しみを想像しているだろうか。生活保護受給者をバッシングする人たちは実際の受給者の気持ちを考えたことがあるだろうか。そして、自分が同じ側になった時同じ主張ができるのでしょうか。

当事者でない人がその問題を論じるなということは不可能だ。そんなことを言い出したら政策立案も、コンサルティングも成立しなくなる。僕たちにできることは、当事者の立場に寄り添い、できるだけ想像することである。当事者の声を聞くことや現場にいくことも、もちろん途轍もなく大事だ。ただ、その前に当事者の立場に寄り添おうと思えるかどうか。その気持ちをまずは持つべきじゃないだろうか。その結果、当事者の声に耳を傾けようとしたり、現場に行こうとしたり、行動ベースで変化が生まれる。

この記事のタイトルとして使っている「他者への想像力」というワードは、かなり広い意味に取れる。友人や家族、仕事仲間など身近な人との関係においても大事だし、社会問題など広い問題を論じる際にも大切になる。身近な人の気持ちを想像するのはある程度難くないであろう。その人の行動パターンや思考を知っているから。それではより広い対象への「想像力」を身につけるには、どうすればいいだろうか。
一つの答えは"多様な視点に触れる経験"だろう。多様な書籍・記事を読んだり、様々な人の話を聞くことで、一つの問題に対して様々な視点が身につくだろう。かつて友人に「どんな言説も反論可能だ」と言った人がいる。まさにその通りだと思う。この世に絶対的に正しいものはなく、どれだけ一見正しいものに見えても違う視点が必ずあるのだ。"多様な視点に触れる経験"は一つ重要なキーワードに間違いなくなるだろう。ただ、それ以外にも大事なことがあると最近気付かされた。

損得勘定を超えた仲間意識の重要性

最近、宮台真司という著名な社会学者の記事や書籍をよく読む。彼の意見には過激なものもあるものの、社会を考える上で鋭い視点を提供してくれることが多い。彼の記事の中で特に印象に残っているのが次のものだ。

性の問題について述べている記事だが、その中に今の社会を考える上で興味深い視点が提示されている。

「進化生物学には、正しさという感覚のルーツは『仲間のための自己犠牲を肯んじる構え』。『小さな仲間集団を犠牲にして大きな仲間集団に貢献する構え』も含まれる。だから、正しさの観念は、犠牲を払っても守るべき仲間が存在する時にだけリアルになる。正しさとは『仲間への愛のために法を破る=正しさのために法を破る』ことです。ところが、こうした正しさの観念を生きられない孤独な若い人が増えてきたんですね。
正しさのために法を破るには仲間の存在が必要だけど、仲間を想像できない。」(原文引用)

その後、宮台氏はヘイトスピーチをする極右が中国人や在日の知り合いがいないのにも関わらず、中国人や在日を攻撃する現象を取り上げ、仲間を想像できず知りもしない人間の書き込みを信じる彼らの浅ましさ、「仲間がいない孤独ゆえに妄想的に損得にこだわる」彼らのヘタレぶりを批判している。

また、宮台氏は炎上という現象についてこう語る。

「 仲間がいない不安に苛まれたヘタレは、不安を埋め合わせたくて、少しでも法を逸脱していた人を指差しては炎上し、炎上に勤しむ連中を「インチキ仲間」として粉飾する。「インチキ仲間」に過ぎない事実は、不安を埋め合わせて自分を楽にしたい損得野郎のクズ連中だというところから直ちに明らか。(中略)はあちゅうさん騒動やベッキー不倫騒動に対する、集団炎上の背後にある営みも、全く同じですね。(中略)要は「不安の埋め合わせ」のための「言葉の自動機械」に過ぎないので、ハナからマトモに取り合う必要がないのです。」

損得勘定を超えた仲間意識をもてる仲間が身近にいるかどうか、それによって「他者への想像力」も変わるし、自分の内面にある安心感も変わる。実際、身近な仲間の存在は自分に承認と安心感を与え、それが人格形成において大きな影響を与えるのはいうまでもない。

「みんな」の範囲が見えない現代において

もう一つ、宮台真司氏は著作『14歳からの社会学』の1章と2章において、次のようなことを論じている。

「かつては子どもが家に帰ると父親と遊べたり、母親と話せたりした。そして、近所の人のことについても知っていて、一緒に世間話をしたり、遊んだりもしてた。身近な「みんな」の範囲が見えていた時代である。現在は、家族の絆も以前と比べて弱まり、近所の人の交流も減るように、社会共同体が持つ力が弱まった。その影響として、みんなが持っていた「共通前提・共通感覚」が弱まったのだ。その結果、2008年の広島県踏切事件のように、ルールに対して厳しくなり、『ルールはルールだけど、いろんな事情もあるんだから現実的にやろう』から『どんな場合もルールを当てはめて、白黒はっきりつけよう』になったのだ。」(筆者まとめ)

原文はかなり膨大なので、気になる方はぜひ読んでほしい。ここで述べていることは先ほどのことにもつながっているように私には感じられる。「みんな」が見えない時代だからこそ、損得勘定を超えた仲間意識を持ちづらいし、ルールを当てはめることに厳格になったからこそ損得勘定で物事を考えるのだ。

このような時代において、どのように損得勘定を超えた仲間意識を持てるか、そして遠くにいる他者に想像力を馳せることができるのか。この問いへの答えはかなり難しい。

「他者への想像力」をもつということ

近しい者の立場や気持ちを想像することで、不要な衝突を避け、相互に承認や安心感を与えられる人間関係を築くことができる。そして、遠い他者にも想像力を馳せることで、我々の社会における様々な営みは成り立つし、相互理解の可能性も生まれる。多様な視点に触れる経験とともに、近しい者への仲間意識も、遠い他者への想像力を持つ上で重要になってくる。あらゆるレベルで「他者への想像力」は大切である。

ただ、「みんな」の範囲が見えづらいこの時代において、共同体の持つ力が弱まった現代において、どのようにすれば近しい者への仲間意識を持てるかに関しては、私自身答えを持てずにいる。しかし、身近にいる近しい人たち、自分に安定した承認や居心地の良さを与え自分もその人たちに同じことを与えたいと思える人たち、を常に大切にしながら生きていかなくてはいけないと思う。そして、あらゆる場面において、自分とは異なる遠くの他者の気持ち・立場にも思いを馳せながら、生きていかなくてはいかないと思う。
「他者への想像力」をもつ人、常にそうでありたいと思う。

どことなく忙しい北京の街を歩きながら、また一つ自分の生き方を見つけられた気がする。

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