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生と死、そして幸せ


先日祖父が亡くなりました。
満87歳、この年代の中国人にしてはかなりの長生きです。泣かないようにしよう、そう思って臨んだ葬式で、祖父の顔を見るや否や、私の目から涙がどっと溢れ出ました。
初めて味わう誰かともう2度と会えないという感覚、そして後悔の念、そんな風にいろんな感情に襲われました。

私は幼稚園から小学校三年生にかけて中国の北京に暮らしていましたが、その際に祖父母の家に預けられました。お兄さん同然の存在であるいとことともに、ほのぼのと温かい家庭で大切な時間を過ごせました。幼少期をともに過ごしたので、祖父母は私にとっていわば育ての親みたいな存在でした。その後、祖父母の体調が悪化し、日本の医療環境の方がいいということで、一家全員で日本に戻りました。いとこは自分の家に戻り、祖父母は私や私の両親とともに暮らすことになりました。日本にきてからも、ご飯を作ってくれたり、小学校や塾に迎えにきてくれたり、祖父母は忙しい両親の代わりに私の面倒を見てくれました。しかし、教育方針や家事の仕方などを巡って、段々と祖父母は私や両親とすれ違うようになりました。結果として、中学校の途中から別々に暮らすようになりました。別々に暮らすようになってからも会えば祖父母はとても優しくしてくださり、私を可愛がってくれました。しかし、日本の学校に通い、段々言語も価値観も日本化してゆく私は祖父母との間に共通言語を見出せなくなりました。加えて、変化してしまった関係に対し、どこか違和感を覚えるようになっていきました。今思えば、祖父母とどう向き合えばいいか分からなくなっていたと思います。その後、高校の部活、大学受験、大学でのサークル活動など、様々な活動に没頭していった私は段々と祖父母と会う頻度が減っていきました。会っても、共通言語を見出せなかった僕はそっけない態度であることが多かったです。

サークル活動や就活がひと段落し、2019年の年末を迎えようとしていた頃、両親から祖父が危ない状態であることを知らされました。病院に行くとそこには以前とは比べものにならないくらい痩せ細っていた祖父がいました。私をみると祖父はとても喜びました。ああ、自分に会ってこんなに喜んでくれる人がいるんだな、としみじみ思いました。当初の心配をよそに、祖父の体調は段々と安定していきました。正月のときに私たちが食べたおせち料理を食べたいといい、たくさん食べれるような状態じゃなかったので、少し分けました。お爺ちゃんはまだまだ生きたいんだね、生きる意欲が十分にあるからまだまだ大丈夫だよ、そんな会話が家族の間で飛び交うようになりました。とはいえ、そんなに長く生きていられるような状態じゃなかったので、一応何かがあったときの準備を進めていました。ある日、外を歩いていると祖母が泣きはじめました。街の風景をみて祖父との思い出が蘇ったようです。背中をさすりながら、祖母の話を聞きました。祖父と苦難の時をともに過ごしたこと、祖父がとても倹約家だったこと、体が悪くなってからみるみる痩せていったこと、たくさんの思い出を話してくれました。60年以上ともに過ごした人生の伴侶をなくすかもしれないということは私には想像もつかないようなことです。おばあちゃんの話を聞きながら、そういえば最近の祖父の様子について自分が全然知らないことに気が付きました。こんなに大切な人なのに私はなんでちゃんと向き合わなかったんだろう、大切にしたくてもこの世を去ったらもうできないんだ、そう思い自然と涙がこぼれました。「悲しまないで、これはいつか起こることなんだ。老いた人がこの世を去り、若い人がそれを継ぐ、自然なことなんだよ」そう語るおばあちゃんの目はとても寂しそうでした。

3が日が終わり、地方で働いているいとこ一家は帰りました。残された私たち一家でしっかり祖父の面倒をみることになりました。両親が仕事で忙しい時は僕が看病しにいこう、そう思っていました。しかし、僕が両親の代わりに看病しに行く前に、祖父はこの世を去りました。祖父がこの世を去ったその日に、告別式を行いました。地方で働いているいとこ一家も急いで駆けつけました。私は講義が終わってから駆けつけ、部屋に入った瞬間目に飛び込んできた祖父の遺体はまだ生きているかのようでした。不慣れな儀式をなんとかこなしながら、突然のことで感情をうまく表現できずにいました。2日後に葬式を行うことを聞き、しっかり送り出さなきゃと思いました。
家に帰ったあと、祖父との思い出を振り返りました。北京にいたとき毎日電動自転車で幼稚園に迎えに来てくれたこと、日本に戻ってからもよく迎えにきてくれていたこと、髪を切ってくれていたこと、一緒によく買い物に行っていたこと、別れて住むようになってからも気にかけてくれたこと。これだけお世話になったのに、自分は何をしてあげられたかな、って思いました。せめてしっかりおじいちゃんを送り出そう、そう思い、お別れの手紙を書きました。一緒に過ごした思い出、感謝の気持ち、これからの人生でしっかり頑張って生きる決意などを不慣れな中国語で書きました。

迎えた葬式当日、棺で眠るおじいちゃんをみると、涙が止まらなくなりました。本当に亡くなったんだって初めて実感が湧きました。別れの手紙をおじいちゃんのそばに置き、別れの言葉をかけたあと、火葬場に遺体が運ばれました。火葬後、遺骨を骨壺に収め、家に届けてから、家族全員でご飯にいきました。そこで、時には笑いながら、おじいちゃんとの思い出を振り返りました。葬儀で涙があふれていた僕ですが、思い出話を聞き、安心感に包まれました。環境がコロコロ変わり、不安な気持ちになることが多かった僕の隣りには、いつもおじいちゃんがいました。言葉数は少なかったものの、その存在、笑顔に無意識のうちに助けられていたと思います。
その日、僕がおばあちゃんのうちに泊まって、おばあちゃんに付き添うことになりました。その夜、おばあちゃんは僕にいろんなことを語ってくれました。おじいちゃんがまだ僕の父が小さい頃に二度も大きな病気にかかったこと、お金が足りない中がんばって節約したこと、反右派闘争・文化大革命などに巻き込まれながらともに歩んできたこと、自分には想像もできないような苦難を一緒に乗り越えたことを語ってくれました。時には涙を流しながら話すおばあちゃんの姿をみて、寂しさと後悔の念が溢れました。

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この経験を通して学べたことは多くあったと思います。大切な人を大切にしなくてはならない、それは当たり前のことですが、時にそれができなくなってしまいます。喧嘩したり、気まずくなったり、距離を置きたくなったり、人間関係の中で当たり前のように起きることです。こういったことで大切な人を大切にできなくなってしまいますが、大切な人であることには変わりません。そして、残念ながら、大切な人を失ってからそれに気づくことも多々あるということです。
今のうちに親孝行しておけ、そう語る大人の言葉に今なら深く頷けます。親というのはうるさくて面倒臭い存在ですが、同時に自分の知らないところで最も自分を支えてきた存在でもあります。本来1番大切にしなくてはいけない存在ですが、その大切さをなかなか実感できない存在でもあります。せめて大切にできるうちに(生きているうちに)その大切さに気づけたらいいですが、必ずしもそうはいきません。
同じことは、友人にも当てはまります。距離ができてしまうこともあるけれど、大切にしなくてはならない。永遠なものなんてない、だからこそ大切にできるうちに大切にしなくてはいけないと切に思います。

そして、幸せになるということは、それをいつか失う可能性があるというリスクを抱えています。寂しそうにしているおばあちゃんをみて、この人はおじいちゃんと一緒にいれて幸せだったんだろうなって思いました。もちろん様々な苦難があったとは思うけれど、これだけ寂しくなるということはそれ以上に幸せな時間が今まであったということ。幸せになるということは、常にそれをいつか失うことと隣り合わせの状態にいるということ。でもそれを恐れているようでは、幸せにはなれない、そう心から思いました。

もうおじいちゃんに会うことはできませんが、のこされたおばあちゃんを気にかけ、大切な人を大切にし、正しく生き、学業や仕事などを一生懸命にやる、それがおじいちゃんにできるせめての孝行だと思います。

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