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ひとりの大学生が北京から見た中国の現在と未来(後編)

前編はこちら↓
https://note.mu/tokuyuk/n/nfa7e7a5fda4f

◯社会に充満するパターナリズムとその限界(後半)

政治に目を向けると、近年の中国政府は言論の弾圧や治安維持の強化をどんどん推し進めている。大学などの高等教育機関・研究所における七不講や人権派弁護士・知識人の大量逮捕、ウイグルにおける収容所及びイスラム教の中国化、地下鉄や博物館などの場所での荷物検査、街中のいたるところにいるにみられる公安、習近平政権以降の中国の締め付けの強さを示す現象は数え切れないほどあげられる。実際に中国研究に従事する大学の教員からも中国で知り合いの研究者が捕まった、活動が中止された、圧力をかけられたなどの話を数多く聞く。中国社会は日本社会とは比にならないくらい巨大で、ダイナミズムにあふれている。ほんの小さな不満でも大きな社会のうねりにつながりうる。社会の安定維持のために、確かに締め付けは必要である。ただ、香港のデモにみられるように、抑えられた不満が爆発した時、とんでもない混乱が社会にもたらされうる。同様のことはかつての第二次天安門事件や反日デモにもいえる。香港のデモにおいて、中国政府は強硬な姿勢を崩そうとしない。これだけ多くの香港人の反対があったのにも関わらず、逃亡犯条例の完全撤廃までに何ヶ月もかかってしまった。民主主義に基づく普通選挙がない社会において、民衆の意見を政治に反映させることにはどれだけのコストがかかるのかということを思い知らされた。香港の情勢に対して、中国政府はどうするだろうか。第二次天安門事件という成功例がある彼らにとって、民衆の不満なんてとるに足ら無いものかもしれない。しかし、同じようなことが今後も起きうるかもしれないと考えた時、中国政府が守ろうとしている"社会の安定"は本当に維持されるのだろうか。

今の中国社会には至る所にパターナリズムが充満していると私は感じる。パタナーリズムとは、父権主義、温情主義、家父長制などにも言い換えられ、wikipediaによると「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志を問わずに介入・干渉・支援することをいう」そうだ。つまり、上の立場にあるものが下の立場に対し、下の立場のためにもしくはそのような名目のもとで、いろいろお節介をすることをさす。パターナリズムは日本や韓国といった東アジア諸国でも根強い。ただ、日本は高度経済成長が終わって社会が安定したこともあり、以前ほどこのような傾向は強くなくなった。他の国と比べても、中国はパターナルな傾向が強い。これまでみてきたように、教育にせよ、政治にせよ、上からの干渉が社会の至る所で起きている。しかし、その副作用がもうすでに社会のあらゆるところで見られている。競争に疲れ果て無気力化する若者、デモする香港の民衆、そして潜在的な不満を抱えている中国の民衆。この副作用にどのように向き合うか、さらなるパターナリズムで抑えるのか、それとも別の方法を模索するのか。各所で張り巡らされる教育の広告を見ながら、赤い旗がはためく天安門広場を歩きながら、この巨大な社会の行く末に思索をめぐらせた。

◯中国という国家のナラティブ

今回の中国行きで印象に残っているのが、中国国家博物館である。天安門広場の横にある巨大なこの博物館には様々なものが展示されている。まず行ったのは地下一階にある中国の古代展だ。原始時代から清朝にかけて、莫大な数の展示物が並べられている。おそらく一つ一つを丁寧にみようとすると、1日かかってしまうだろう。
中国ではあらゆるところで「5000年の歴史を誇る中華文明」という風に自国の歴史と文明が強調される。この博物館も例にもれずそのような表現がみられるが、実際中国の歴史のスケールに僕自身圧倒された。そして、この歴史が中国人にとって大きな意味を持つことは想像に難くないだろう。

次に、中国の建国70周年記念展をみにいった。建国前の長征や内戦期にまつわる展示物、毛沢東が建国宣言で使ったマイクや国旗など建国時にまつわる展示物、さらにソ連との国交建設の際の文書や中央政府の看板など建国後の国家建設を象徴する展示物が網羅的に並べられていた。中でも毛沢東の存在感は一際大きかった。
毛沢東が建国宣言をしたときの映像が大きなスクリーンで何回も繰り返し流され、展示物も毛沢東関係のものがかなり多い。ここで、私はかつて大学でとった中国政治に関する講義の内容を思い出した。毛沢東という人物はもちろん様々な評価があるが、建国後に目を向けると大躍進や文化大革命など中国社会に大きな混乱をもたらした側面も強い。当たり前だが、この展示ではそういった側面に一切触れられず、あくまで中国の英雄という扱いであった。毛沢東という人物に関して、中国国内でも実はマイナス評価がないわけではない。文化大革命等も含め、毛沢東に関して一定のマイナス評価は下されている。しかしその一方、「7割の功績と3割の過ち」という風に、なんだかんだ建国などの功績が大きいとして評価されている。ここで、先ほど触れた中国政府にとっての"社会の安定"についてもう一度考えよう。毛沢東の存在は、まさに中国共産党にとってはその正当性の根幹をなすものであり、そして共産党が中国を統治する限り、その統治の正当性を支える重要な存在でもある。毛沢東同志の領導のもとに中国は半植民地状態から偉大な国となり、毛沢東同志の思想は守らなければならない、これが中国共産党が示す現代中国のナラティブである。人民の愛国心を育て、共産党の支配を支持してもらう上で、このナラティブが果たす役割は大きい。
これに関して、どのように評価すべきであろうか。日本でも愛国心教育の必要性が叫ばれるようになって久しい。愛国心が果たして必要なものなのか、そうだとしたらなぜ必要なのかに。ここではこれらの論点について論じない。あまりにも複雑で様々な観点からの検討が必要だからだ。しかし、中国では自国のナラティブを維持するために、様々な人権弾圧がなされていることに留意すべきであろう。日本では左右関わらず中国の人権弾圧に対する批判がなされるが、自分たちが語るナラティブの正当性を他者に押し付け、反対意見に容赦なく攻撃を加えて他者の人権を非難することはどの国であってもあってはならないはずだ。これは中国批判をするときだけでなく、自国の愛国心教育について考えるときにも留意すべき点である。
ちなみに、展示の出口に置かれていたノートには、「中国はやはり偉大な国だ」「永遠にこの国を愛している」「共産党万歳!中国万歳!」などのようなコメントが数多く書かれていた。サクラの可能性も否め無いものの、どうやら一定の効果はあがっているようだ。(そして、最近日本のネット空間でも自国に関して似たような言説が増えているのは単なる気のせいだろうか。)

中国はまもなく建国70周年を迎える。天安門広場ではパレードのための準備がなされていた。現代中国のこのナラティブが今後どのように変わっていくのかに引き続き注視したい。

◯結び:大きな主語のもつ意味と恐ろしさ

ここまで、書いて「中国」「中国人」といった大きな主語を多用してしまっていると気づいた。中国について書く記事だから、当たり前といえば当たり前だが、ヘイトスピーチなどにみられるよう、大きな主語で何かを語ることは時としてとても偏った見解を導く。特に、中国社会に関して語るとき、それがもつ巨大さとダイナミックさゆえに、よりいっそう慎重に語る必要があるだろう。
実際、自分が書いた内容を振り返ると捨象してしまった側面がいくつもあることに気がつく。中国にも生真面目で礼儀正しい人はたくさんいるし、受験や就活といった競争を勝ち抜いて人生を謳歌している人はたくさんいるだろうし、中国の提示するナラティブに疑問を呈する人もたくさんいるだろう。よく友人に「中国の人は◯◯に関してどう思っているの?」と聞かれるが、答えに窮することが多い。あまりにも多様な意見が存在するからだ。僕がここで書いていることはあくまで僕が感じた中国社会の傾向であり、それが必ずしも正しいとは限らない。結局中国を理解するには、自分がみた現実をしっかり振り返りつつも、自分が見なかった部分にも想像をめぐらせ、様々な声や意見をもとに、より確実そうな理解を常にアップデートするしかない。

帰国するとき、眠い目をこすりながらも、ふと次いつ中国にくるだろうかと考えた。そして、次来るときどのような中国が見られるのだろうか。少しの不安と圧倒的な楽しみを胸に抱きながら、故郷・日本に帰る飛行機に身を乗せた。


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