邪馬台国徳之島説
こんにちはトクです。本日もお読み頂きありがとうございます。
今日は、趣向を変えて邪馬台国の話を書いてみたいと思います。
どうか最後までお読み頂ければ幸いです。
邪馬台国は何処にあったくのか?現在では、九州説と近畿説が有力だと言われていますが、実は全国各地に「こここぞ邪馬台国」と言われている所があったことを最近になって知りました。
中でも、私がもっともだと思ったのが、沖縄説です。そもそも、邪馬台国は魏志倭人伝にその存在が記述されていたのですから、その記述通りに道を辿るのが自然だと思います。
ところが、九州説も近畿説も魏志倭人伝に記述されている行程通りに行けば、当てはまらないのです。近畿説に至っては、東西南北の方角の記載が間違っているという前提です。
素直に行程通りに行くと、たどり着くのは九州のはるか南の海上です。そこには、現在は、何もありません。
「現在は」と敢えて記したのは、過去には、そこに陸地があった可能性があるということです。それが与那国島海底遺跡です。
素直に行程通りに行けば、そこに遺跡があったとすれば、その遺跡こそ邪馬台国と考えるのが自然ではないでしょうか?
邪馬台国は大地震で海底に沈んだ。そして、そこに住んでいた人達は、北に避難し、佐賀の吉野ヶ里遺跡を作った。更に、九州の先住民であった日向族は、それに押し出されるように東に向かった。
これが神武東征で、出雲を征服した後に近畿にたどり着き大和朝廷を作った。これが一番自然な考え方だと私は思います。
何故、大和朝廷は近畿に都を置いたのか?
それは、奈良も京都も山に囲まれた盆地で、防御に適していたからではないでしょうか?魏志倭人伝に出てくる地名と風俗が沖縄各地の地名、風俗(刺青をしている等)が似ていることも沖縄説を後押ししていると思います。
これは、木村教授の唱えている説ですが、私には、これが一番スッキリします。また、ロマンがより掻き立てられます。私はへそ曲がりですから、有力な説よりも少数派を応援したくなります。
と、実は、ここまでは少し前の話なんです。以前の私は、邪馬台国沖縄説を支持していました。しかし、それ以降、邪馬台国について調べてみると、他にも納得できる説が出て来ました。
ひとつは邪馬台国四国説、もうひとつは邪馬台国徳之島説です。
まず、四国説から説明すると、九州北部(福岡)から船で関門海峡を通り、四国の瀬戸内海沿いを行くと魏志倭人伝に出てくる地名と似通った地名が残っているのです。
香川県から徳島県にかけては、山上に集落が点々としています。その集落の連合国家が邪馬台国であるというのです。
確かに、香川県から徳島県の瀬戸内海沿岸部には、魏志倭人伝に出てくる地名と似通った地名が残っています。訛った可能性を考えると、ほぼ同一の名前と言っても良いくらいなのです。
しかし、問題がない訳ではありません。四国説は近畿説ど同様に、方角に矛盾があるのです。魏志倭人伝では南行と書いてあるのに、四国の瀬戸内海沿岸沿いに進むということは、東に進むことになってしまうのです。
初めに四国説を聞いた時は、これはかなり有力だ。そう感じたのですが・・・。邪馬台国が四国にあったのなら、兵庫県を経由して奈良県に辿り着き、そこで大和朝廷が成立したと考えても矛盾はありませんから。
次にもうひとつの徳之島説にいきます。魏志倭人伝によると、邪馬台国の気候は現在の中国の海南島と同じだと書かれています。
気候の面だけを考えても九州北部と近畿、四国説は当てはまりません。
では、日本の中で海南島と同じもしくは酷似した気候の地域は何処なのか。それを考えると、沖縄説か徳之島説が有力になってきます。
沖縄よりも徳之島の方が、より海南島の気候に近いようです。さらに、距離に関してですが、魏志倭人伝によると、帯方郡から邪馬台国まで1万数千里と書かれています。
九州説と近畿説、四国説は実際の道のりで1万数千里離れた場所に邪馬台国があると主張しています。
それに対して、徳之島説では地図上で、南東方向に直線を引き、その直線の距離が1万数千里であると主張しています。
どうやら、距離の面だけを見ると、徳之島説も有力になって来ます。さらに、邪馬台国の特徴とされている石の城壁ですが、九州説、近畿説、四国説では、この石の城壁が確認出来てないのです。
この点も、徳之島には、石の城壁が残っているのです。さらには、前方後円墳まであります。徳之島説を取っている方によると、前方後円墳には卑弥呼は埋葬されておらず別の場所に隠されたとのことです。
これは盗掘を防ぐためと考えられています。
徳之島には巳葬という習慣があるのですが、魏志倭人伝によると卑弥呼は巳葬をされたと書かれています。(巳葬とは、方角を十二支で分けて巳の方角に頭を向けた埋葬方です)
徳之島では卑弥呼と思われる人骨が発見されているのです。う~ん。だんだんと邪馬台国徳之島説に気持ちが傾いてきました。
さらに面白いことに、この徳之島説を唱えている方の一人に徳之島在住の方がいらっしゃるのですが、その方が正統の天皇家の子孫だと主張されているのです。
天皇は万世一系ということになっています。この方の言う万世一系とは、父から息子に皇位を継承させることだそうです。
第57代陽成天皇までは、父から息子に皇位継承されていたのですが、次の第58代光孝天皇は陽成天皇の子供ではなく大叔父(祖父の弟)にあたります。これでは万世一系にならないと言うのです。
この方の家の家系図を遡って行くと、この皇位を大叔父に譲った陽成天皇に辿り着くとの事。だから自分こそが本当の天皇陛下だと主張しているのです。
現在の皇室は、一時的に、大叔父に継承された皇位をそのまま継承している家系だとのこと。
この方が本当に天皇家の子孫だとしたら、現在の皇室とは親戚関係か?なんてことも考えて見たのですが、現在の皇室は明治天皇の代からすり変わっていると主張されています。
明治天皇が孝明天皇の子ではなく長州の大室寅之祐にすり変わったという説は、かなり昔からありました。
明治天皇の子供の頃の写真を見ると、物凄く貧弱で弱々しいしいのに、明治天皇は体格が良く顔つきも違うと言うのです。
まあ、ここでは天皇家の話は置いておいて、話を邪馬台国に戻します。
ここまで書いて来て、やっぱり邪馬台国は沖縄もしくは徳之島にあったのではないか。そう思えて来ました。
特に徳之島説に賛同したいと思います。
ちなみに、邪馬台国はなかった説です。「やまたいこく」ではなく「やまいちこく」と読む。台は古い漢字で「臺」と書きます。そしてこの字は「壱」に酷似しています。
つまり、「やまたいこく」ではなく「やまいちこく」が正解だと言う説です。
ちなみに、この自称本物の天皇と言われる方によると、「やまたい」の「や」は音読みで「ま」は訓読みなのでこれでは重箱読みになってしまうので、正しくは「やばだいこく」であると言っています。
そして、「やばだい」とは、地形の名前だそうです。どんな地形を「やばだい」と言うのか。それは、まさに徳之島の地形のように、山と谷が連なっている地形のことなんです。
あえて、重箱読みにしてでも「やまたいこく」としたのは、「やまと」を意識したのではないか。そう言うのです。
確かにこれでは重箱読みですね。
色々と暇に任せてベットの上で邪馬台国について考えてみたことをつらつと書いて来ました。
江戸時代の本居宣長から始まった邪馬台国論争ですが、いつか決着がつく日がやって来るのでしょうか?
古墳から魏の国から送られたと言う金印が出てくれば、邪馬台国の決定的な証拠になるのかもしれませんね。
以上、邪馬台国は徳之島にあった説でした。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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