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自分の人生、主人公は自分なのだ

何人かで雑談をしていたとき、ある人の発言にちょっと引っ掛かりを覚えた。その人は人望も厚く、たくさんの人に慕われていて、スケールも大きい人。そのときも自分の夢を楽しそうに語っていた。「舞台や映画には主人公がいるでしょ? 自分はいつも裏方でいいと思っていたけど、表に出る人だって最近よく言われるようになって、そうだなって自覚し始めたのね。それでね、私が主人公であるこの夢を形にするため、みんなには脇役として支えてほしいの」。

思わず「あんだって?」と志村けんの真似をして突っ込みたくなった。そのあとも何の悪気もなく笑顔で話し続けるので、黙って聞いていたのだけれど、私はみんながそれぞれの人生の主人公だと思う。つまり、それぞれみんなが主人公だから、みんなが脇役ということにもなる。だから、脇役として支えてと言われてもそれは間違いではないかもしれない。でも、「あんただって、みんなの脇役なんだから、支えなさいよ」と突っ込みたくなったのだ。それぞれの人生や夢を尊重しないような言い方や考え方に違和感を感じてしまった。

これは数年前の話。取引先の方が、組織の動かし方の話をしていたとき、「私はストーリーを考えるのがとても得意だし、それぞれの個性もつかんでいる。私のキャスティングとシナリオ通りにやれば絶対に間違いはない。だから、みんなは私の筋書きに合わせて動けばいいの。なのに、勝手なことをやるからうまくいかない」とぼやいていた。それを聞いたときも、違和感を覚えた。さっきの脇役の話と同じような違和感。もちろん指示を出す人は組織には必要だが(風の時代に入ってからは、正直この司令塔的な存在さえ必要なのかと考えさせられる…)、筋書き通りに動けというのは違うのではないか?と思う。それぞれが意思や想いを持って行動するからこそ面白いのに、そんなロボットのような扱いをするのはどうなのだろうかと。それぞれに得意なことや苦手なことはある。その得意なことをいかに引き出してあげるか、得意なところを伸ばしてあげるかは、シナリオ通りに動けと命令するのとは異なると思う。

それぞれが自分で考えたシナリオを持って、この世に生まれてきていると私は信じている。だから、一人ひとりがその人生という名のドラマの主人公であって、そこにヒエラルキー的なものは存在しない。誰もが誰かの脇役だし、誰もが主人公なのだ。スポットライトはすべての人に当たるようになっていて、シナリオはそれぞれ違うのだ。みんなが人生の主人公であることを自覚し、それぞれが尊重できればどんなにいい社会になるだろう。そんなことを雑談しながら考えていた。

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