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卯月コウにおける「別棟」とドストエフスキーの「地下室」は似ているのかもしれない

ドストエフスキーの『地下室の手記』という小説を読んだ。

この作品は本心では仲間と混じりたいのに冷たくしてしまったり喧嘩をしてしまったりするという面倒くささが凝縮されたメンヘラのおじさんが主人公の作品となっている。面倒くささや他人に対する他罰的かつ嫉妬的な目線がリアルで、おじさんに不快感を抱くレベルの作品だけど、若干なりとも「自分にもこういう要素あるかもなぁ」と共感ポイントもあるので少なからず刺さる作品でもある。

タイトルにある「地下室」というのは地下に住んでいるというわけではない。地下室の意味は作中で具体的には示されないが「心理的な意味で自分の思い込みという地下に引きこもっている状態を形容した言葉」という意味だと解釈した。そういったテーマは当時のロシアだけでなく今の日本の現代人にも通じると思う。

そしてこの小説を読んでいて思い出したのが最近やっていた以下の卯月コウの配信である。

「別棟」という言葉をどういう意味で使っているのかを理解するには、以下のツイートとGoogleフォームの説明文が参考になると思う。

別棟のオタクたち
無菌室で育てられたオタクたちのエピソードを募集します。
現役、卒業生による、現在または当時の価値観、このような行動をしていた、失敗エピソード、未だに○○が許せない。こういう血が流れている、など。男女問わず他薦(身の回りにいた人とのエピソードなど)でも構いません。

卯月コウのGoogleフォームから引用

要は「別棟(べっとう)」とは青春期に形成された個々人独自の面倒くさい自意識や偏見のことを指している。人とは違う自分独自の別棟を心理的に建築し、出られないでいるという比喩で使っているというわけである。なお本当は別棟(べつむね)と読むが「べっとう」の方が独自の概念感が強くなるので便宜上そう呼ぶことにしたとのこと。

卯月コウの考える「別棟オタク」とドストエフスキーの「地下室の人間」というのは少なからず通じる面があると思う。別棟オタクも地下室の手記の主人公も他者や概念に対して偏見を抱えてたりする。その質感が本当に近い。「地下室の手記」が出版されたのが1864年なので時代としては160年も離れている。そんな時間を超え今も近しい話がされているのは面白い話である。

ただ近いと言っても『地下室の手記』の主人公は別棟人間の中でも強烈な方だとは思う。同級生の友達がする行動に対してすら被害妄想的な偏見を抱いているし生活が破綻するレベルで面倒くさい自意識を抱えている。引いてしまうレベルでメンヘラだし、普通に嫌な人間である。ただやはり少なからずこの主人公と別棟人間には通じる面があり別棟の原液が味わえる作品と言えるだろう。

ちなみに別棟的な人間を見る面白さは決して動物園的な感覚ではないし、見下しているわけでもない。過去及び現在の自分にも少なからず別棟的な偏見はあるだろうし馬鹿にできるものではないだろう。

別棟人間を見るのが面白いと思う理由はおそらくその別棟の内観が自分とは違ったとしても、そういう独自の別棟自体が他人にもあるのだと発見できたという共感にあると思う。別棟の内観は個々の人間で違うが、別棟自体は間違いなく存在する。その存在を知れたということ自体が嬉しいのだろうと自分は思う。

……と書いてみたけど、考えてみると少なからず動物園的な感覚もある気がしてきた。独自すぎる別棟は倒錯したものと映り狂気的な面白さがあるのは事実かもしれない。ただ、それでもやはり別棟自体があるという共感的な良さはあるので動物園的な感覚だけでもないとは思う。

埋もれている別棟を照らせるからこそ卯月コウの配信には独自の良さがあるのではないだろうか。卯月コウが好きな人は地下室の手記が好きだし逆もまた成り立つような気がするので片方が好きな人はもう片方も見てみるといいんじゃないかと思う(ただ特殊な小説ではあるので読むのは大変)。

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