シュヴェーグラー『西洋哲学史』の純粋理性批判部分の解説を読んだので理解したことをまとめてみる

たまたまブックオフで買ったシュヴェーグラーの『西洋哲学史』のカント解説がとても良かったので、復習のためにまとめてみようと思う。

ちなみにまだ『純粋理性批判』の部分しか読んでいない。カントの批判本は3つあって、『純粋理性批判』以外だと『実践理性批判』、『判断力批判』というのがある。

3つといっても冊数はもっとあって読むのが非常に大変である…自分も純粋理性批判の原著を手に取ったが1冊も読めていない…そんな胆力のない人間でも純粋理性批判を概観できるのがシュヴェーグラーの『西洋哲学史』である。

まぁ自分がカントの原著をすべて読んでいないので概観した気になっているだけかもしれないけど…ただ原著を読むための指針としては非常に有用なんじゃないかと思うので非常にオススメ。少なくとも自分の中でなんとなくカントの問題意識はつかめたような感じはする。


『純粋理性批判』でやっていることとは何か?

まず注意として自分は哲学素人なので非常に大味な理解となっていると思う。なので普通に間違いとかが含まれている可能性が高いので絶対に鵜呑みにしないほうがいい。

「哲学初心者風情がなんか変なこと言ってるぞ…」という感じで懐疑的に見ることをオススメする。

さっそく本題に入ると純粋理性批判という書物ではそのタイトルの通り純粋な理性を批判している。理性を批判するためにカントは理性っぽいものを感性・悟性・理性という3つの言葉に分割して使用する(表現フワッとしすぎて申し訳ないですが許してください…)。

感性というのが一番下のレイヤーとなっており感性で直観した対象を上位レイヤーである悟性がキャッチし色々思惟をめぐらすという構造で、理性はさらにその上のレイヤーとなっている。

そしてざっくりいうとカントとしては人間の認識の仕方に「感性」と「悟性」はあるけど「理性」はないよね~的なことが言いたいのだと自分は理解した。

「悟性」より上位のレイヤーに属する「理性」は幻想でありカントの言葉を使えば仮象にすぎないということである。

その「理性」というものがどういうものを想定しているのかは「感性」から説明しないとわからないので順を追って説明していく。


カントにおける「感性」とは何か?

ここからはシュヴェーグラーの『西洋哲学史』では先験的感性論と呼ばれている部分について自分が理解したことを書いていきたいと思う。

カントによれば人間の感性は2つの形式によって対象を認識するらしい。その2つとは「時間」と「空間」である。なぜこの2つなのかというと、どんな経験においても「時間」と「空間」を前提としているかららしい。

これは「考えてみると確かに!」と思わなくもないけどなんだか煙に巻かれた感じもする。確かにどんな出来事においても「時間」と「空間」は必要だということは理解できるけど他にないんだろうかと考えてしまう。

ただ具体的に「時間」と「空間」以外に何かを挙げろと言われても思い浮かばないのは確かである。なんとなく釈然としないけどここはカント大先生のお言葉にしたがって対象を直観する形式は「時間」と「空間」しかないと間に受けて次へ進むことにする(長いものには巻かれる方式)。

自分が理解したかぎりで言うとこの感性というレイヤーでは客観的空間にある「物自体」から「時間」と「空間」という主観的形式を経由して事物を直観するという処理がなされる。その直感したものは「現象」と呼ばれる。

カントによれば人は「物自体」を認識できず、「時間」や「空間」を通して物が人に現象する姿を認識しているに過ぎないらしい。

例に出すとすればテレビやyoutubeなどの映像を見ている感じに近いのかもしれない。例えばブラタモリに映っているタモリを思い浮かべて欲しい。

テレビを見ていると目の前にタモリがいると錯覚してしまうがテレビを見ている自分はテレビの画面から発せられる光の集合を見てタモリがいると錯覚しているだけで本当のタモリは別の場所にいる。ちなみに今週(2021年11月30日放送分)は立山町の北アルプスらしい(厳密にいえば生放送ではないので放送時には別の場所にいると思うけど、そこは重要じゃないのでラグのない生放送と言う形でイメージしてほしい)。

この現実の立山町にいるタモリが「物自体」でテレビに映っているタモリの映像が「現象」であると対応付けることができると思う。

人は立山にいる「物自体」であるタモリを認識しているわけではなく、テレビに映っている光の集合である「現象」を認識しているだけである。

つまり人は常にテレビを見ているような形で対象を認識しているということである。カントとしてはそういう認識の仕方をする感性の形式がアプリオリに人に備わっているということを言いたいらしいと自分は理解した。

最初のレイヤーである「感性」の部分においてはこのくらいの説明でいいと思うので次のレイヤーへ進む。


カントにおける「悟性」とは何か?

「悟性」のレイヤーでは「感性」のレイヤーにおいて拾い上げた現象(対象)を「カテゴリー」と呼ばれる4つの概念で思考して把握しようとする処理がなされる。

ざっくり言うと「カテゴリー」というのは何か物をイメージするときに「こういう感じのイメージに分類できるよね~」というのをまとめたようなものだろうか?正直カテゴリーに対しての理解は結構浅いので全然見当はずれのことを言ってるかもしれない(その可能性の方が高い…)。

自分としてはカテゴリーの定義を見てもいまだによく理解できないところがある。個々のカテゴリーをみてみるとなんとなくわかったような気はするけどけっきょく全体として何なのかいまいち理解できていない。

この部分は今後の課題だと思う。シュヴェーグラーを読み直しても理解できない場合は原著かほかの解説書を見るしかないかなぁといったところ。

結局原著に比べるとページ数がないのでそこまで厳密に説明されてない印象がある。概要をつかむにはいいかもしれないけど細かい部分は理解できなかった(自分の理解力が浅いだけの可能性もあるけど)。

ただ重要なのは感性のレイヤーで拾った対象を悟性のレイヤーで無制約的にカテゴリーを適用してしまうと、そのカテゴリーの誤った使用により幻想を持って人を欺く「先験的仮象」が生まれてしまうということ。仮象とは客観的実在性のないものをいう。

カントはこの悟性の乱用を「理性」と呼び、その理性を『純粋理性批判』では批判しているのだと自分は理解した(悟性の乱用という表現で正しいのかわからないけど大体そんなイメージ)。


理性批判の部分

ぶっちゃけこの理性批判の部分もよくわからなかったりする。

なんとなく「神とかデカルトとか批判してるっぽい~」というのはわかるけどその論証過程はよくわからない。特にアンチノミーの部分は本書だと簡略化しすぎていまいち理解しきれないというのがある(本のせいにしていくスタイル)。

このあたりも他の解説書か原著で補完するしかないのかも。やっぱり原著読むしかないのかなぁと言った感じ。

ただ神の実在が客観的に証明できないということが結構重要っぽいということがわかった。この本だけでもカントの本の概要だけは理解できると思うのでカント以後の哲学を理解する土台はできたような気がする(実際にフィヒテのとことか読むとなんとなくわかった感じするしそれなりに肥やしとなった感じはする)。


締め

まとめてみると予想以上に理解してないことがわかる。それがわかるだけでもまとめてみた価値はあると思うけど改めてみると悟性のあたりから酷い感じはする…

ただこの浅い理解に到達するまでにも結構時間はかかった。たぶん記事にして書いておかないとすぐ忘れるので記憶定着のためにも書いておいてよかったのかもしれない。

とりあえず次は『実践理性批判』と『判断力批判』の解説の部分を読んでみようと思うけど記事にするかは未定。できればしたいとは思うけど自分のやる気次第といったところ。後忘れないうちに他の解説書とか原著に挑戦したい。

上の方にも書いたけどこの本で『純粋理性批判』の概要だけでも理解できたことは結構大きなことな気がする(正確に理解できたかはわからないけど)。そういう意味でこの本は良いと思うので結構オススメ。

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