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国産ビールを作った薩摩人

夏を迎えてビールの美味しい季節になりました。なんだかんだ言ってもやはりビールが一番好きなお酒かもしれません。

赤星、エビスなどサッポロのビールをよく飲むのですが、このサッポロビールの前身を作った薩摩人、村橋久成をご存知でしょうか?

今回は村橋久成の人生を要約して解説してみたいと思います。

英国留学

ご存知の方も多いと思いますが、日本初の英国留学生は鹿児島から出発しました。
1865年(元治2年)のことです。
この留学生15名の中に、村橋久成も入っています。

留学生が旅立った串木野市羽島

薩摩が英国留学生を送るに至った経緯は薩英戦争が大きく関わっています。

大名行列を遮ったとして、英国大使のリチャードソンを殺害したことに端を発する生麦事件でイギリスは薩摩に賠償金を請求しますが、薩摩側はこれを拒否。イギリスは軍艦を率いて錦江湾を通り、鹿児島城下へ進軍します。
しかし、錦江湾沿いで思わぬ奇襲を受けたイギリス軍は鹿児島城下に壊滅的なダメージを与えたにも関わらず、薩摩側より多くの被害者を出すことになります。
撤退したイギリス側は外交でこれを解決しようと談判しますが、結果的に薩摩側に優位な決着をつけることになりました。

薩英戦争砲台の図

これがきっかけとなり、イギリスは薩摩を認める姿勢に変わり、新しい技術を欲している薩摩と交流するに至ります。

英国留学生の中には、後に国家の重要な役職に就く森有礼寺島宗則等がいます。
日本が封建的な武士社会であった時代ですから、イギリスを訪れた留学生達にとっては、現代人が宇宙に行くのと同じくらいのインパクトがあったことでしょう。

留学生降り立った現在のサウサンプトンの港

村橋久成は他の留学生よりも早く、1年で留学をやめて帰国します。
具体的な理由はわかっておりませんが、ノイローゼによる体調不良が原因と言われています。

戊辰の役〜国産ビールの生産

帰国後、久成は戊辰の役に従軍。箱館戦争では加治木大砲隊長として部隊を指揮し活躍します。
明治維新後は、開拓使として出仕をし北海道の発展に貢献します。

村橋久成

イギリスで見た第一次産業革命の技術革新を、日本で展開する場として北海道は最適でした。
久成の活躍や助言により、七重開墾場(現在の七飯町)と琴似村(現在の札幌市)が農作物の大量生産の地として発展することになります。

日本初の本格的なビール工場である麦酒醸造所も北海道に作られました。麦酒醸造所は東京に試験場を作る予定だったのを、久成が北海道に作るよう提案しました。
七重開墾場も東京官園という試験場を都内(現在の渋谷区青山学園周辺)に設けた後に発展させたため、慣習を引きずって麦酒醸造所も都内に作ろうとしていたようです。
北海道には自生のホップがあり、麦を育てる土壌もある。東京で馴化してから生産拠点を北海道へ移すより、初めから北海道に建てた方がよいというのが久成の考えでした。
この麦酒醸造所が後に民営化され、現在のサッポロビールになりました。
サッポロビールのロゴに使われている五稜星★のマークは、開拓使のシンボルです。

サッポロビール赤星

このことから久成はビールの立役者として、その名が後世に残る人物となります。
なお、久成が関わった開拓使事業は養蚕製糸葡萄酒などその他多岐にわたっています。

認知されたきっかけ

ここまで、久成が北海道の発展と国産ビールの生産に関わった所以を記述しました。
しかし、久成は長らく歴史上の人物として知られる存在ではありませんでした。

久成の名が世に知れ渡るきっかけは、1983年に出版された田中和夫氏の小説「残響」によるところが大きいのです。

小説「残響」

人の数だけドラマがあります。
明治維新の歴史を紐解けば、古事記やギリシア神話のような一大叙事詩といっても過言ではありません。
幕府から新政府、海外の人物まで登場し政治的な流れも複雑です。多くの人々が登場しては消えていく。時代も比較的新しいので沢山の記録も残っています。
坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で有名になったように、久成も田中和夫氏の小説により世間に認知されるようになりました。

1881年(明治14年)開拓使が廃止された後、久成は退官し消息不明となります。

そして、退官してから11年後の1892年(明治25年)神戸の路上で木綿シャツ一枚だけを着て倒れているところを警察に発見されます。
発見された時には衰弱しており、発見から三日後に久成は死去しました。

麦酒醸造所の民営化に際して、開拓使長官の黒田清隆と事業家の五代友厚の間で癒着があったと世間からバッシングがありました。
民間払い下げ事件として、世に知られています。

イギリスの留学に際しても精神を病んだと言われているだけに久成は、とてもセンシティブな人物であったと思われます。
琵琶歌「石童丸」や「平家物語」の熊谷次郎直実と同じように、久成は民間払い下げ事件を機に世に無常を感じ放浪の道を歩んだようです。

鹿児島短期大学の名誉教授であった門田明先生は著書「若き薩摩の群像」で、久成の最後をこう評しています。

"乞食同然のこの貧しさが、革命後の成功者たちの堕落にたいする、村橋の精いっぱいの抗議ではなかったろうか。"

「若き薩摩の群像」かごしま文庫,1991年

現代人の悩みとの繋がり

最近、YouTubeで話題のReHacQというチャンネルがあります。
このチャンネルの番組に、セゾン投信の創業者で前CEOの中野晴啓さんが出演されていました。

YouTube:セゾン投信 前CEOが激白【人生賭けた投資哲学】

ゼロから築き上げた企業であるセゾン投信を親会社の意向で退任にするに至った経緯について、中野さんは「(子供を)誘拐されたような取り上げられたような気持ち」と話していました。

それを聞くと、久成も同じような感覚であったのではないかと思います。
自身が身を削って、手塩をかけて育て上げた事業を政府は鶴の一声で取り上げてしまったのです。

仕事とは、薩摩藩士とは、日本人とは、久成は夏目漱石と同じように近代化の波の中で自分とは何か?を考えすぎるあまり、精神を更に病んだのではないかと思います。

恐らく、黒田清隆や五代友厚のように合理的に考え、割り切って生きることができなかったのでしょう。日本人という新しい概念が生まれた反作用として、久成のような人物は大変苦しんだことと思います。

個人的に西郷隆盛も同じような考えを持っていたのではないかと推測しています。「南州翁遺訓」第4章に西郷の言葉が残っています。

"家屋を飾ったり、衣服を贅沢したり、きれいな妾をかこったり、自分の財産を蓄えること等を考えておったならば、維新の成果を上げることはできるはずがない。
今となって省みれば、戊辰戦争をはじめとする大きな苦難や犠牲を払われたことが、不真面目な為政者の私事のためとなってしまった。
こんなことで良いのであろうかと、戦死者をはじめとする先人たちに申し訳がないと言われ、しきりに涙を流された。"

荘内南州会発行「南州翁遺訓に学ぶ」意訳を抜粋

西郷は大久保利通のような人間の考えが理解できず、それがゆえに、政治的に退くことになってしまったのではないでしょうか。

札幌市内にある北海道知事公館の敷地内に村橋久成の胸像が建っています。田中和夫氏の小説にちなみ「残響」と名付けられた作品です。
作者は大久保利通の銅像などを作成し鹿児島県とゆかりの深い、中村晋也氏です。

村橋久成の胸像

村橋久成は教科書に載るような、日本全土に知れ渡る偉人ではありませんが、札幌市内の胸像や小説などをきっかけにこれからも多くの方に彼の存在を認知していただきたいと切に願います。

久成の人生を振り返ると現代人の悩みや社会問題の本質が見えてくる気もします。
今宵もビールを飲みながら、先人の人々へ感謝すると共に、歴史のロマンに思いを馳せて思索に耽る夜を過ごします。

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