見出し画像

ツボ売り5

「インターセクション社の移転、山本君やってみる?」

アポイントから帰る際に岸部から発せられたのは意外な言葉だった。

「でも、先日俺がやると岸部さんおっしゃっていたじゃないですか、なぜ?」

「今回のインターセクション社の移転は約50坪、エリアが千駄ヶ谷よりも立地の良い場所という、かなり広域なオーダーだ。当然俺がやっても良いが、他の案件も進めなくてはいけない。だから今手が空いている山本君ならやれるんじゃないかなと思ってさ。どう」

「ただ俺の下でやる案件って結構厳しいけど大丈夫?」

「大丈夫です!」瞬時に山本は答えた。

岸部が提案した物件が50棟、そのうち内見の予約をとった物件の数は約13棟だった。山本にとっては内見の経験はあるものの実際の顧客を案内することは初めてであった。しかも1日で約13棟見て回るというハードなスケジュール

大丈夫です!と答えたが、何が大丈夫なのだろうか。しかし、商談・案内というのは自分が不動産営業として一つ進んだような気がしていた。よし、案内できるように頑張ろう。一歩一歩だが確実に成長している。

そう自分に言い聞かせた。

「じゃあ明日までに案内する物件の場所覚えといて、現地調査しておいてね」

「え?」

「え?じゃないよ、山本君物件知らないんでしょ。それじゃ案内できないじゃないどうやって案内するつもりなんだよ。内見の予定は明後日なんだから明日中までに見ておかなかったら内見できないでしょ」

冷静に言うが、現時刻はすでに17時を過ぎていた。「どうやって・・・」と言葉を詰まらせる山本に対して岸部は続けざまにこう言った。

「オフィスの営業は、空室確認が下ごしらえ。商談のアポイントがオーディション、内見がいわゆる本番よ。オフィスなんていう商品は誰でも扱えるの。」「それを売ろうとする営業が物件の立地や案内に手間取ったら意味がないだろ。場合によっては内見が明日という場合もある。どちらにせよ現地調査しない営業は舞台に立つ資格が無いってことよ」

その日の山本の帰宅は終電だった。オフィスの不動産営業は通常車での案内はしない。それは土地勘や物件情報を顧客と同じ目線で判断するためだ。

つまりは電車と徒歩で現地調査せよという指示だった。岸部が最後に直帰していいよと言い残したのは優しさなのか、それとも皮肉なのかはわからない。

しかし、山本はこの2日で嫌というほど社会人、いやオフィス仲介ではたらくという事の現実を知った。足の裏にできた血豆が潰れ、風呂の中で鶏が絞められたような声にならない声を上げた。

憧れた東京のオフィスで社長たちと対等に話す自分という姿とは大きくかけ離れている。仕事とはこういうものなのだろうか、デスクワークではなく今日の大半はフィールドワークによる疲労だ。

小田急線で30分の向ヶ丘遊園1kの風呂場の中で湯船に顔をつけ明日からの自分の姿を想像した。13棟のビルの立地、歩き方、駅からの距離、だんだんと薄れていく記憶。明後日の案内はどのエリアからだっただろうか、まずは岸部に報告しなくては・・・・






主にオフィスに関する不動産知識や趣味で短文小説を書いています。第1作目のツボ売り、それ以外も不動産界隈の話を書いていければ良いなと思っています。 サポート貰えると記事を書いてる励みになります。いいねをしてくれるだけでも読者がいる実感が持ててやる気が出ます