意地悪をしないこと、恨まないこと。

こんにちは。たまには抽象的なことを書いてみます。昔はもっと気軽にみんなが文章を書く世界だった気がするんですよね。mixi全盛期とか。

あらBさんのことば

Twitterのフォロワーに、あらBさんという不思議なおじさんがいます。あらBさんには独特な持論があり、そのうちのひとつに「ゆるしてこそ」というものがあります。


「ゆるしてこそ」何なのか、までは語らぬことが多いですが、たびたび思い出す印象的な言葉です。

怒りと憎しみについて

私の好きな哲学者に、三木清(みき きよし)という人がいます。私が高校3年生の頃、現代文の先生が三木清『人生論ノート』「希望について」の章のコピーをくれたのが知ったきっかけです。この「希望について」は、「皆が希望だと思っているものは、実際には期待である」ということに気が付かせてくれる、当時の私にとって衝撃的な文章でした。

さて、同じく三木清『人生論ノート』には、「怒について」という章があります。この章で三木清は「怒りは突発的なものであるが、憎しみは習慣的な永続性をもっている」と述べています。そして、怒りは人間に必要だとする一方で、憎しみについては否定しているのです。怒りは「目の前の人に対して」であるのに対し、憎しみは「目の前にいない人に対して」のものです。もう対象からして異なってしまっているわけですね。

三木清の話からは逸れますが、最近「人を呪わば穴二つというが、呪うというのはその人ではなく自分の記憶を呪っている、だから自分に悪影響がある」といったようなツイートを目にしました。(元ツイートが見つからず。)

このツイートと三木清の話が混じり合い、怒りと憎しみについて自分の中でなんとなく言語化できるような気がしました。
憎しみ、恨みというのは「自分自身の記憶に対して」の「習慣的」な感情であり、自分自身に対しての呪いなのです。

だからこそ、ゆるそう

ここで冒頭のあらBさんのことばに戻ります。「ゆるしてこそ」とは、人のためではなく、自分のための行為だと思うのです。憎しみや恨みは習慣的で永続的なものです。だからこそ、「ゆるしてこそ」、自分から手放すことが必要なのではないでしょうか。私も上手にできるようになるといいな、と思いながらこの記事を書いています。

意地悪について

電子書式にほとんど移行した中で、今でも大切に手元に残している本に大江健三郎『新しい人の方へ』という子供向けエッセイがあります。これは私が中学生の頃に母が買ってくれたものですが、今の自分にとっても金言がたくさん詰まっています。

この本の「意地悪のエネルギー」という章で、福沢諭吉のことばを引用している箇所があります。人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、いいところは何もないのが「怨望」だ、と。大江健三郎はこの「怨望」に近い素質が、「意地悪」ではないか、と述べています。意地悪のエネルギーは何も生み出さない。だから人に意地悪はしないでおこうよ、と章を締めくくっています。

怨望というのは、辞書によると「うらみに思うこと」です。人に意地悪をすることも、恨みの感情からくるものなのかもしれません。

意地悪をしないこと、恨まないこと

そして、ゆるすこと。だんだんと上手になっていくといいですね。執着せず、手放しながら生きていきたいものです。それでは。



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