見出し画像

「いばしょ」の話の話。

4月13日に『いばみんLAB』を開催。
4月17日に『夜カフェ ~で、いばしょってなに?~』で話題提供をさせてもらいました。

改めて、「いばしょ」や「居心地のいい空間」について考える機会がたくさんあったので、頭の整理のためにまとめておきたいと思います。


「居場所」にしっくり来ないので、「いばしょ」と書く

「居場所」への違和感

居場所が求められているなと思うことがたくさんあります。

こどもたちも、若者も、大人も、シニアの方々も。
言語化してる人もしてない人もいますが、どこかで、「居場所」を求めているように思います。

ただ、なんだかどうしても「居場所」という言葉がしっくり来なくて、ひらがなで「いばしょ」と書くことが多いです。

居場所にはどうしても物理的な場所っぽいニュアンスを感じてしまうので。
家がないわけじゃない。
学校や職場もあるので、行く場所がないわけでもない。
趣味や活動もあるので、やることがないわけでもない。
なので、「居場所」が無いわけではないのです。

でも、どこかで「さみしい」と感じているなら、それはまだ「いばしょ」のようなものを探しているのかな?と思います。

じゃぁそれでもまだ満たされない何か「いばしょ」っていう感覚はなんなんだろうなと思って、ちょっと書き起こしてみたいなと思います。

「居場所」をつくることと、「いばしょ」を作ることの自分なりの違い

プレイヤーなのか、プラットフォーマーなのか

先日17日、「で、いばしょってなに?」っていうテーマでたくさんの方とお話しさせていただきました。その中の個別具体の話を表に出すのはルール違反なので、ざっくりとですが、
・今の居場所はいつかなくなるからそのために備えてる
・好きなことをやっていたら人が集まってきた
・人と一緒の時もあるし、1人の時もある
とかとかとかとか、いろんなお話がありました。

どれも、実体験と合わせて、腑に落ちる話ばかりで共感すごかったです。
その中で感じたのが、視点の違いを感じました。

もちろん話の流れとして、「あなたにとって、いばしょ感を感じる時ってなんでしょう?」という流れだったので当たり前ではあるんですが、会の途中で「いばしょを作るとして、どんな風に作りますか?」という問いにも、自分の得意を活かした回答が多かったのです。

いばしょの作り方としてその通りだなと思うと同時に、自分がみてる「いばしょ」という言葉とのイメージのずれを感じたところでもありました。

何かテーマに沿った居心地のいい空間を提供すること。
それは確かに、同じ目的や好き、得意を共有する仲間たちにとってとってもいい空間になりそうだなと思うので、いいいばしょになるだろうなと。

ただ自分がいつも思っていたのは、「いばしょ」的な空間だけ作って、そこであなたがあなたらしく自由に過ごせる場所であるように作る。を考えていたので、目的や目標、テーマや得意とか、何にも無い中でもなんだかその日その場所での時間は楽しく過ごせたなぁ。と思えるような時間と場所を作りたいと感じてました。

この辺りの考え方の違いが、プレイヤー的か、プラットフォーマー的かの違いなのかなぁと。

自分はどちらかと言えばプラットフォーマーとして「いばしょ」に関わりたいなぁと改めて思うきっかけにもなりました。

好きをテーマに作る「プレイヤー的な居場所」

自分の好きと得意をテーマに何かするなら自分なら音楽を通じたコミュニケーションになると思われます。
ただ、好きゆえのこだわりもあります。得意ゆえのできない理由がわからないというのも出てきたりします。

そうやって自分のペースや考えに合う人だけが集まるような空間であれば、それは自分にとってとても心地よい空間なんだろうなと思います。
そこに酔ってる人もたくさん見たように思います。

ただ、それは結局、無理解になってしまったり、こだわりの押し付けになってしまうことも何度もありました。
今は随分と気付けたと思うのでそこまでは無いと思うのですが、そんなこともあったので、自分の心地よいをツールに広くいろんな人と関わろうと思うのは難しいなと感じております。

もちろん、全員がそうなっているというわけではなくって。
自分の好きや得意を活かしながら、仲間や次世代に知識や経験を繋いでいくために丁寧にコツコツやり続けておられる方もたくさん見ました。

自分はどうやらそういう場作りはこだわりゆえに難しさを感じるのです。

それぞれがそのままにをテーマに「プラットフォーマー的ないばしょ」

逆に、みんながそれぞれ心地よい空間を作るのであれば、その難しさは無いなと思っております。
それぞれが自分にとって心地よい過ごし方をしていて、別の目的を持って別のことをしていて良くって。
気になることがあれば聞けばいいし、教えてもらってもいい。
話したければ話せばいいし、嫌なら放っておけばいい。
そんな適度な距離感で過ごせれば、それは居心地のいい場だなぁと感じるんじゃ無いかな?と思っております。

それこそYoutubeでもSNSでも、それぞれそのプラットフォームを好きに使って、自由にやりたいようにやってOK。
ただ、最適限のルールは守って使おうねという感じ。

そんな、みんなにとって居心地のいい場が、むしろ自分にとってもストレスのすごく少ない空間なので、そんな場づくりをしたいなと感じています。

みんなにとって心地いい場ってなにさ。

心地の良さは人それぞれ。なのに「みんな」って矛盾

人それぞれに違うはずなのだけど、プラットフォームを作るならみんなにとっての心地よいを作る必要があるって矛盾がありますよね。

個別具体の最適にはならないかもしれないけど、6〜8割くらい自分のやりたいことができる場を作るくらいができることなのかなとも思っています。

そんなこと思っていたらちょうどいい言葉に出会えまして、それがこちら。

「わがままであることと、それを許容していけること」

最近の個人的ベストヒットワードがこちら。
東京に行った時に、サンカクシャの荒井さんが行っておられて、短く大事なことがまとまったいい言葉だなぁと思っています。

そもそも人はそれぞれに個性があってこだわりもあってわがままでいいと思っています。
自分の欲しいものは欲しい!と言って構わないと思うんです。
ただ、それを周りの人たちが許容してくれるのと同じだけ、ちゃんと許容して欲しいとも思う。逆も然り。
自分が良ければなんでもいいわけじゃ無いし、自分と自分の周りの人さえ良ければ何してもいいわけでも無い。ちゃんと因果応報だなぁと思う。

どこかで私は私のわがままをしっかりと許容してもらってるのです。出会ったことのある人にも、無い人にも。
だから、ちゃんとそれを許容できる人でありたいと思います。
ただ、個人の都合で他者の自由を圧迫してるようなところを見ると許せないって思ってしまうので、矛盾がここにもあるなぁと思っています。

「いばしょ」のジレンマ

心理的安全性の確保のためのクローズな空間。でも。。。

そんな矛盾のところとも関係のあるところで、「居場所」「いばしょ」にはジレンマがあるなぁと思います。

今いる人の安心安全のために、新しい人がすごく入りにくくなっていってしまいがちです。

もちろん、閉じられたコミュニティ、閉じられた空間だからこそ自分にとっての大事な居心地のいい空間になっていたりもします。
物理的にも情報的にも隠れているので、主には知り合いの紹介でしか人が来にくい。様子もわからないので一見さんが来るにはとっても勇気がいる。
そしたらとっても安心安全な場所になっていくのですが、その代わりに新しい出会いも生まれにくくなりがち。

それぞれのコミュニティの目的や目標、在り方と合わせて運営されていけばいいなと思うのですが、安心安全な場所ほど繋がりたい人も多くいるだろうと思うので、この「閉じているほど安全」と「繋がりたいのに繋がれない」のギャップをなんとかしたいなと。

また、それを思って実施したのが4月13日の「いばみんLAB」だったりもします。一見さんの多さもさることながら、団体同士のつながりも生まれて、想いを持って動いている人同士つながれたのもまた良い日になりました。

心地よい居場所は閉じていく。

あと、つい忘れがちなのは、コミュニティは絶対的に閉じていってしまうということ。

グループができて、日常的なコミュニケーションが生まれると、どんどんと心地よいグループになっていくことかと思いますが、その時にはそのコミュニティでしか通じない言語、ノリ、流れみたいなものもできてきます。
それはコミュニティの仲間であることの証明のようにもなって、内と外とを分けるものにもなっていきます。

それはここでいう「居場所」的であります。
あくまで特定の人にとっての居場所になっていく。
それ自体は何も悪いことではないのだけれど、器を作ったってことはそこから溢れる人がたくさんいるってことでもあります。

もし、誰にでも開かれたフラットに繋がれるコミュニティを作っていくなら。コミュニティのプラットフォームを作っていくなら。
興味を持ってきた人も、興味なくたまたますれ違った人にも、オープンにしていかねばならないと感じるところです。

初めましてのその人にしっかり興味を持って、その人のことを少しでも知ろうとすること。自分やその場のことを少しでも伝えること。がとても大事だなと思うところで。
特に「この場はあなたがあなたらしくのびのびと過ごしていい場所。でもそれは、あなた以外の人にとっても同じ。なので、お互いにお互いの自由を守りつつ、楽にしていってくださいね」というところをしっかり伝えたいなと思います。

そもそも、なぜ人は繋がれたのか?

そんなことを色々考えてると思うのが、そもそもそんなこと考えながら人付き合いしてたのだろうか?ってことです。

昔の村のお話なんかを聞くと、鍵は開けっぱなしでご近所さんが家にいたりとかって話も聞きます。
少なくとも自分が子どもの頃にはもうなかったけど、自分は公園で出会った知らない子の家に遊びにいったりしてたらしいです。

よく言われるところで、核家族化が一つ大きなきっかけになってるのかなと思っています。
夢のマイホームで、家族と過ごすとか。
基本的には家族単位で閉じた生活が普通になっていったのは一因なのかなと。
家族内で完結できてるうちはいいのですが、今の若者たちと関わっていると、人と関わりたいのに関わり方がわからなかったりすごく苦手だったり。
自分ルールが強すぎて人を許せなかったりして自分もしんどくなっちゃうような子もいたりします。
なんだか人との関わり方がとても苦手な人がたくさんなように思います。
若者も、大人たちも。

あとは、個の力で生きていく!っていうのが一定できるようになったからなのかな?と。
個人でできることがたくさん増えたし、お金で解決できることもたくさん。
人と関わらないでもできることはかなり増えたと思うので、生きていく分には必要最低限の関わりでもいいのでしょう。
でもその分、個人では得られないものは失われたのかも知れない。

この辺りのこともあって、イベントや企画をする時は不便を組み込むことがあります。
便利 = 問題が起こらない。と、1人でなんとかなっちゃうので助け合いが生まれないのでコミュニケーションがないんです。
ちょっと不便なことを残して、1人だとちょっと難しいことを残しておくとそこでコミュニケーションが生まれてくれる。そうするとちょっとだけ人と関わりやすくなるように思います。
ちょっとだけ親切したりしてもらう経験って、自分の気持ちをちょっと幸せにしてくれたりします。

孤独孤立の課題。

これからやばかろう。と思っています。
他人を頼る、他人に頼られる文化がなくて苦しむ若者たちや子育て世帯もたくさんだし、シニア世代の方々と話す中でよく出てくる言葉が「さみしい」という言葉。

会社勤めを終えた瞬間に今まで長い時間を過ごした場所はなくなり、つながりも肩書きもなくなります。その時に誰とどう繋がっていいのかわからなくなるというのは良く聞く話。一気に心身ともに病んでいくことも。

なんだか、どの世代と関わっていても孤独感を感じていて、寂しいと感じている人が多いように思います。

まだ住む場所としての孤独孤立さえなんともなってないと思いますが、
コミュニティ的な孤独孤立の解消は生きる上での課題を未然に防いでくれる良い予防策になると思っております。

なるだけ早く、安心安全に人が繋がれる場所。テーマも年齢も業種も問わず出会える場所を整備していきたいなぁと思います。

大事な場所だからみんなで守るって意識ができたらいいし、
新しく来た人たちには大切なことだけ共有できればあとはなんでもいいという場をちゃんと作っていきたいかなと。

ほんの少しの優しさと、それを人に押し付けないことが大事。
「わがままであることと、それを許容すること。」は短くかつ具体的でいい言葉だなぁと思います。


ざっくりとこんな感じで一旦閉じようと思います。

お読みいただきありがとうございます!! "心に届く音楽"を少しでも多くの人に, 身近に楽しんでもら得るようにするために, 日々様々な活動をしています!! サポートでいただいた音楽を届ける活動に使ってまいります。 "面白そう!!"と思ってもらえたら, ぜひサポートを。