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枯渇から湧き出るもの


満たされているときには、言葉を紡げない

というのは私の持論である。


このnoteのアカウントを作った時、私は泥と石ころが埋まりぐずぐずと膿んだ傷を抱えながら生活をしていた。消毒の仕方も絆創膏の貼り方もわからず、「痛い」と言うことさえ叶わずどうしようもない気持ちで叫ぶように文章を書いていた。文字を打っている時はただただ一心不乱に。怖いくらい集中できて、「公開」のボタンを押すと、なんだかひとつ心の石がぽろりと外れたような気さえした。

突発的に起きたどうしようもない思いや、自分の生についてなど、上手く吐き出せないものを形にするのが芸術というのなら、それはとても尊いものだと思う。

ひとの悲しみが形を変えて「愛」という名前の一枚のあたたかな絵になったりだとか、満たされない想いが形を変えて「願い」という歌になったりする。


マイナスなものはプラスになるとき、とても大きく変化する。だから感動したり、受け取ることが多いのだと思う。

きっと、「満たされた」という思いは「満たされた」というものにしかならないと思うのだ。プラスが、ただそのまま「プラスです」と提示されるだけ。プラスなものを表現してさらに大きくなるのは、そこにその人以外の誰かの思いや温度が見えた時だと私は思う。


私は、表現をする仕事をしている。

それは、「満たされない」と言う思いを武器にできると救われたからだ。だから、プライベートが満たされていると罪悪感を感じてしまう。満たされないなにかを探そうとしてしまう時さえある。すこし、異常だ。それは、自傷行為と似ている。


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