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「死ねない死者は夜に生きる」第11話(全14話)

 サキは走った。今しがた飛び出してきたあのマンションから、少しでも遠く離れたかった。

 匂いにつられ、本能のままに狩りを行った。獲物の味が口腔内に残る。
 あの、マンションの五階の部屋での出来事が、身体中を駆け巡る。

 どうしよう。どうしよう。飲み込んでしまった。あの人の、血を。肉を。命の一部を。

 これが獲物であれば満たされただろう。いや、獲物には違いない。食欲をそそる獲物だったはずなのだ。生ける者であった頃のことは忘れたはずではなかったのか。

 ――忘却って、私たちに残された貴重な能力だと思うのよね。

 いつぞやランコが呟いた言葉が脳裏に響く。消えたはずの記憶が甦るとは。

 匂いだ。あの、匂いのせいだ。
 嗅覚は脳に直接働きかけるという。しかしだ。死せる者の脳は生ける者のそれと同様に機能しているのだろうか。ヒガンではシガンのような研究が行われているとは到底思えないから、それを知ることは不可能だろう。死してなお思考できるということは、生前の機能が甦っていると仮定してもよいのかもしれない。

 死せる者について考えを巡らせると、いつも混沌に溺れてしまう。生と死の境界が曖昧になる。棲む世界が異なること以外にどんな差があるというのだろう。鋭敏な感覚と、高い身体能力を得た代わりに、失うのは記憶と感情のはず。それがどうだ。私は今、その記憶と感情が再び息づいてくるのを感じている。まさに死の淵から死せる者として甦った肉体のように。

 サキは、ランコとはぐれたコンビニ脇の路地で足を止めた。街灯は先ほどと変わらずチカチカと点滅を繰り返している。

 ヒガンに来てから一度も体験したことのない身体感覚が襲い来る。サキは道端に膝をつき、身をかがめた。咆哮のような声が出た。しかし出るのは声だけで、体内に取り込んだ血肉は排出される気配すらない。それでもなお、存在が判然としない内臓のすべてが蠕動運動を繰り返している気がしてならない。

 なかったことにできないのなら、この甦った記憶と感情を早急に奪ってほしかった。

 終わらせよう。死せる者としてあるのを終わらせ、還りし者となろう。

 海へ向かう。浜でローブを脱ぎ捨て、月の光を浴びる。力が蒸発するように失われていくのを感じる。

「なにをしてるんだ!」

 怒鳴り声と同時に頭から黒いものを被せられた。闇に包まれる。捨てたはずのローブだ。

 ランコの姿が視界に入った。サキはランコの小さな体に抱き着いた。湿度と温度のない肌が触れ合い、カサカサとこわばった音を立てた。

「お願い……もう死なせて……」

 サキの懇願に、ランコは首を横に振った。

「もう、死んでいるじゃないか」
「そうじゃなくて。このまま死せる者でいるなんて無理。終わりにしたいの」
「まだヒガンに来たばかりじゃないか。そのうち慣れる」
「慣れないわ。慣れるどころか、戻っていくわ。だって、だって! 失われたはずの記憶が甦ったのよ!」

 サキは、ヒガンでの恋人を襲ってしまったことを話すしかなかったが、口を開くと言葉を発するよりも先に嗚咽が漏れた。

 ランコは説明を求めるでもなく慰めるでもなく無表情を貫いている。思えば、ランコの表情が変化するところを見たことがない。死せる者の特徴のひとつなのかもしれない。だが、もはやそのようなことはサキには関係ない。

 再度ローブを脱ごうとしたところを、ランコに抑えられる。サキが逆らえないほどの強い力だった。

 ランコは言う。

「――無駄だ」

 ランコを振りほどこうなんて無駄だということだろうか。

「そんなことない!」

 叫んでもがくサキを、ランコはさらに強く拘束した。

「そういうことじゃない!」

「じゃあ、どういう……」

 ランコは初めて苦しそうな表情を見せた。絞り出すようなひび割れた呻き声を発したのち、意を決したらしく、人形みたいな大きな瞳がサキの視線を真っ直ぐに捉えた。

「なれないんだ……サキは、還りし者にはなれない! どれだけ時が経とうとも、永遠に死せる者のままなんだ!」

 その理由を聞く前に、サキは崩れ落ちた。


 要には、しばしば胸を去来する光景がある。幼い頃から見る光景だったが、ずっと夢の記憶だと思っていた。その割には何度も同じ夢を見るなんて、実は夢ではなく記憶なのではないかと思ったりもした。

 生まれ変わり。輪廻転生。

 だが、祖父から死せる者が生まれ変わるという話を聞いたことはなかった。その手のことに精通している祖父が触れないのなら、生まれ変わりなどというものはヒガンとシガンで構成されたこの世界には存在しない現象なのだと思っていた。

 だから、初めて『ヒガン考』を読んだ時には驚いた。生ける者が命を失うと死せる者か還りし者になるとの記載があったのだ。

 生ける者はいずれ誰しも死ぬ。その死に方によって死せる者か還りし者かに振り分けられるのだという。一旦は死せる者になっても一定期間を経て還りし者になることもあるそうだ。そうやって魂魄のコンは巡る。

 なぜ祖父がそのことを話してくれなかったのかはわからない。要自身も夢のようなその光景のことを祖父に話したことがあったかどうか定かではない。そのくらい些細なものだったのだ。今までは。

 最近になってその光景を思い出すことが増えてきた。しかも、記憶ならば薄れていきそうなものだが、ここにきてその光景は徐々に鮮やかに甦ってくる。祖父の家に滞在していることが影響しているのだろうか。あるいは、その光景の記憶が意味するところを確かめたくて祖父の家に来ることを選んだ気もする。なにしろその光景は、祖父の家からほど近い浜辺なのだ。

 風に舞う花びらが指先の小さな風に煽られて掴めないようなもどかしさを解消したくて、要は今夜も海に向かう。

 国道を渡るまでは風を感じなかったのに、階段を下りて砂浜に足を踏み入れると海から冷たい風が吹いていた。手袋をしてこなかったことを後悔しながら、両手をコートのポケットに突っ込んだ。
 砂に足を取られて歩みは重い。歩きやすさを求めて波打ち際の濡れた砂の上を歩く。
 気温が低いせいか、磯の香りは強くない。けして芳しい香りとはいえないのに、どこか懐かしさを覚える。海に親しんで育ったわけでもないのに。

 要の住んでいた街は海から遠く、幼い頃に海水浴に行った思い出しかない。ましてや夜の海なんてここで暮らすまで見たこともなかった。闇の中で聞く波音は光のもとでのそれよりも大きく響き、荒々しい。慣れるまでは巨大な怪物が海の底から現れるかのような恐怖を感じた。けれども、もちろんそんなことがあるはずもなく、普段はいかに視覚のみに意識が偏っているのかを自覚するのだった。

 波打ち際で足を止め、黒い海を眺める。時折、大きな波が打ち寄せてきて、そのたびに要は後退る。
 凍てつく潮風に身を縮こませながらも、冬の浜辺に重なるのは夏の光景だった。

 波打ち際に少女と並んで立っている。要の視界は今の背丈よりも十センチ以上高いところにある。冬の硬質な潮の香りとは異なる、柔らかく様々な匂いが混ざり合った潮の香りがする。

 毎年夏になると家族そろってこの海辺の別荘で過ごした。別荘は部屋数が多く、夜に妹と共に抜け出しても両親に気付かれることはなかった。
 妹とは歳が離れていたこともあり、ただただ愛くるしいだけの存在で、兄妹喧嘩どころか小さな諍いさえしたことがなかった。

「兄さま、星は見えませんね」

 空一面に雲がかかっていた。月明りもおぼろで、それが恐ろしいのか、妹にシャツの裾を強く握られた。こんな夜に連れ出してしまったことを申し訳なく思いながら、少しでも楽しい夜の散歩にしようと海の向こうを指さした。

「星なら、ほら、あそこに」

 夜の海と空はどちらも黒くて境界が曖昧だったが、一本の横線を這うように対岸の町の明かりが並んでいる。

「あれは町の明かりでしょう?」
「おっと。騙されなかったな」
「それくらいわかります。子供だと思って馬鹿にしないでくださいな」
「それはすまなかった。では、どこの町かわかるかい?」

 妹は大きな目を更に見開いている。よく見たところで妹の知っている町ではないのに。そんなふうに何にでも懸命になる妹を見るのが好きだった。

「さあ。どこかしら」
「ここは大きな湾なんだよ。あちらは半島になっていてね、その町の明かりが見えているんだよ」
「近いの?」
「いや。鉄道で行ってもだいぶかかるだろうね」
「でもすぐに辿り着けそうに見えるわ」

 届きそうなほど近くに見えたのか、妹は手を伸ばす。当然夜風を掴んだだけだった。

「届くわけないだろう」

 思わず笑うと、妹は上目遣いに睨みつけてきた。

「笑うなんてひどいわ、兄さま」

 機嫌を損ねる様も愛らしいが、頭を優しく撫でて謝った。

「いやいや、悪かったよ。機嫌を直しておくれ」

 そして、名を呼ぶ。

 なあ――、

「なにをしてるんだ!」

 波音にも勝る大声に、要は瞬時に意識を引き戻された。たった今「兄さま」と呼んだ声が語気も荒く叫んでいた。

 意識の尾がはるか彼方に取り残されたままで混乱しつつも、要は反射的に振り向いた。声の主は思ったよりも離れていて、要に向かって言ったわけではなさそうだ。海辺に似合わないミニドレスのスカートが風をはらんではためいている。先日部屋に忍び込んでいた死せる者だと遠目にもわかった。

「――蘭子」

 ローブを羽織った女と言い争いをしているみたいだが、風向きが変わったのか、その後の声はまるで聞こえなくなった。
 女が崩れるように倒れ、要は思わず駆け寄る態勢になった。だが、当然ながら離れている要よりも目の前にいる蘭子の動きの方がはるかに早かった。
 蘭子は要に気付いていないらしい。こちらに顔を向けることなく、ぐったりとしている女を抱えて去っていった。

 蘭子が人を抱えているのを見かけるのは二度目だ。見覚えのある光景に、はたと気付く。
 今のは、あの時の女だ。秋に海で溺れていた女だ。助かったのか。

 いや、違う。蘭子と共にいるということは、あの女も死せる者となったのだ。

 見ず知らずの人とはいえ、軽くないショックを受ける。生ける者である要としては、やはり人が亡くなるというのは心が沈む。

 そういえば、祖父は死せる者になる間もなくいなくなった。命が尽きて、必ずしもみな死せる者になるわけではない。死せる者を経ずに還りし者となる人の方が多いくらいだ。死せる者も四十九日で還りし者となる。

「あれ?」

 思わず声が出た。

 あの女、とっくに四十九日を過ぎてやしないか?  正確な日付を覚えているわけではないが、季節は秋から冬へと移り変わっている。

 寒さのせいとは別の冷えたものが腹の奥に広がる。
 あの女もまた、蘭子と同じ終わりなき死せる者なのだろうか。

 蘭子という前例があるのだから、今後も同じような者が現れないとは限らないし、既に他にも存在しているのかもしれない。『ヒガン考』には蘭子の例しか記されていなかったけれど、祖父が知らなかっただけという可能性も充分にある。

 ただ、要も蘭子の他に死ねない死者を見たことがない。飢えた獣然とした死せる者とは一見しただけで違うから、視ればすぐにわかるはずだ。

 還りし者になれない死せる者が生まれる要因とはなんなのだろう。祖父と蘭子に交流があったのなら、そのことについて考察していないはずがない。

 要は砂に取られて思うように進まない足を懸命に運んだ。

「あった」

 帰宅するなりコートも脱がぬまま『ヒガン考』のページをめくり、該当箇所を見つけた。

 表紙をめくるとまず、凡例とも用語説明ともつかないページがある。
 祖父から直接聞いた話も多いはずの『ヒガン考』を改めて読み直すことはないと思い、流し読みをしただけだった。ましてや、こんな基本的な項目をわざわざ目を通そうなどとは思いもしなかった。
 知っていると思っていることこそ見落としがある。知らないことは情報を得ようとするが、知っているつもりになっていると更に得るべき情報があるとは気付きにくい。そんなことを痛感した。

コン:魂魄の魂。精神を支える気。
ハク:魂魄の魄。肉体を支える気。
シガン:此岸。生ける者の世。
ヒガン:彼岸。死せる者の世。
生ける者:生者。
還りし者:死者のうち、寿命、病などにてハクを失い、コンのみの存在。四十九日の後、輪廻転生の環に還る。
断滅:コンもハクも失い、輪廻転生から解脱した者。
死せる者:死者のうち、事故死または自死した者。本来定められていたハクの存在期間の余剰があるため、コンと共にハクも残っている状態。ハクがあるため、可視者にはその姿を認めることができる。四十九日の後に、還りし者同様、輪廻転生の環に還る。

「死せる者って……僕が見ていた者って……」

 死せる者と還りし者の違いに明確な分類はないのだと思っていた。死後も姿が残るのも残らないのも偶発的なものなのだと思っていた。いや、深く考えたことさえなかった。
 残された肉体寿命を使い切るための姿だったのだ。もっと生きられるはずだった人たちの姿だったのだ。

 ならば、狩りをするのはなぜだ。生への執着なのか。ああ、そうか。肉体が、ハクが欲しているのだ。生きた肉体への未練なのだろう。

 待てよ。それでも死因にかかわらず四十九日で輪廻転生に組み込まれるのは同じはずだ。それなのに途方もなく長い歳月を死せる者として存在する条件はなんなのだ?

 要は『ヒガン考』のページを繰り、その条件を知る。

 生ける者を狩る際に血気を摂取しすぎると、その生ける者は死せる者となる。血気とはすなわち寿命。命をいただくわけだ。余命をすべて摂取されてしまえば、その獲物はシガンでの生存期間を使い切ったことになり、ヒガンの住人となる。

 そしてここからは非常に確率の低いケースになる。

 死せる者は生ける者しか狩らない。しかし、命が尽きたばかりの者は生の残り香をまとっているため、まれに死せる者に襲われることがあるという。死せる者となったはずなのに血気を奪われたら、次の生に繋ぐべきコンが不足する。それは永遠に死せる者として居続けるしかなくなるということ。
 祖父によれば、それが蘭子だという。

 ――兄さま。

 要の記憶が蘇る。前の世の。

 ――兄さま。

 西洋人形のように愛らしい、僕の妹……蘭子。


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