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童話「砂ノ術師」

この小説は11,020文字です。

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さらさら……
さらさらさら……

小さなガラスの中を砂がこぼれ落ちていきます。
さらさらの細かい砂。細かい細かい砂。粉と見まがうほどに。

さらさら……
さらさらさら……

空から降り注ぐ光がガラスと砂に触れて、きらきらとまばゆい粒を散らします。
光の粒となった砂はさらさらこぼれ落ちる間だけ、幻を映し出します。
それはたしかに幻なのですけれども、かつては幻ではなかったものなのです。

さらさら……
さらさらさら……

小さなガラスの中を細かな砂がこぼれ落ちていきます。

さらさら……
さらさらさら……

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 マナはそっと窓辺に砂時計を置きました。
 そこは日の光がたっぷり差し込む大きな出窓。置いたばかりの砂時計と同じようなガラスの置物が、空から降り注ぐ光の粒を部屋の中に招いています。
 大きさはさまざまですが、どれも雫の形をしたガラスがふたつ、細い先っぽを向かい合わせにして、縦につながった形をしています。ガラスの中には粉と見まがうほどに細かな砂が入っていて、上の雫から下の雫へとさらさらこぼれ落ちていくようになっています。

「次の方、どうぞ」

 マナの呼びかけに、部屋の扉がゆっくり開きました。そして、のそりとひとりの男が入ってきました。背が高く、力が強そうな体をしているのに、その人はとても小さく見えました。うつむいて、腕をだらんと前に垂らしているせいでしょう。

「こちらにおかけください」

 マナは踏み台のような、背もたれのないイスに座るようすすめました。男はおとなしくちょこんと腰かけます。それを見届けると、マナも同じようなイスをその人の前に置き、自分も腰かけました。
 男と向かい合ったマナは静かに声をかけます。

「さあ、腕を前に伸ばしてください。そう……手のひらを上に広げて……ええ、いいですね。そのまま器のように……そうです、そうです、水をすくう形です」

 強そうな男が、まるで自分の娘みたいな若い女の人の言葉に素直にしたがっています。
 お椀の形に差し出された男の両手をマナは白く細い指の手でそっと包みました。

「見えてきました……これは……山津波ですか……? ああ、かまいませんよ。どうぞそのまま。なにもお答えになることはありません。あなたの悲しみはしっかり伝わってきますから。そう……畑も家も押し流されてしまったのですね。先祖代々の畑と家を失われてさぞお気を落としのことでしょう」

 重ねられた手を通して、男の悲しみがマナへと流れ込んでいきます。けれどもマナはその悲しみを飲み込まないようにする術を知っていました。それこそがマナの仕事なのです。
 勢いよくマナに流れこもうとする悲しみを、マナは男の手に押しとどめます。男は「ぐおっ」と獣のような唸り声を出しました。マナにはそれが泣くのを必死でこらえているためだとわかりました。ですから、やさしくささやきます。

「さあ、こらえないで。だいじょうぶですよ……安心して……あなたのその悲しみをすべてここに……うっ!」

 マナが顔をしかめました。けれどもいったんは閉じた目をすぐにあけ、力強く男の手を握ります。
 一気に悲しみが放流されるこの瞬間は、いつになっても慣れることはありません。
 とはいえ、ここがこの術の要。この手続きを踏まなければ砂ノ術はほどこせません。
 人々の苦しみのもとを吸い出して楽にする――それがマナたち砂ノ術師なのです。

「さあっ!」

 マナは先ほどまでとは一変して大きな声をかけました。その声に絞り出されるようにして、男の掌に砂が湧き出てきました。

 さらさらさらさらさら……

 砂はみるみるうちに男の大きな手のひらいっぱいに溢れ、こぼれ落ちる寸前でぴたりと止まりました。
 男は肩を揺らして大きく息を吸ったり吐いたりしています。まるで力の限り辺りを走り回ってきたような息づかいです。

「もうすこし……もうすこしだけそのままで……」

 マナは片手で男の手を支えたまま、反対の手で懐から白くやわらかな紙を取り出しました。それを男の手の下で広げました。

「はい、いいですよ。ゆっくり砂をこぼしてください」

 男は器の形に丸めていた両手の間をゆっくりと開いて、さらさらと紙の上に砂をうつしました。
 すべての砂を移し終えると、マナは紙の四隅を折りたたんで砂を包みました。
 それからふたりはそろって、ほうっと大きく息を吐き出しました。

「はい。これでおしまいです。どうですか? 楽になりましたか?」

 男は胸に手をあて、笑顔になりました。

「これはすごい! 話に聞いていたとおりだ。もうすっかり心が軽くなったよ」
「それはそれは。術をほどこした甲斐がありました」
「また明日から頑張るよ。頑張るしかないんだもんな」
「ええ。でも、もし、この悲しみを思い出したくなったら、いつでもいらしてください」

 マナは術のあとに必ずそう言うことにしているのです。
 男は一度不思議そうな顔をしたあと、ムッとして言いました。

「それはなにか? またその砂をおれの中に戻そうというのか?」
「いいえ、そうではありません。ひとたび砂になった悲しみは心に戻すことなどできません。ただ、見ることはできます。窓辺に砂時計が並んでいるでしょう? あれは、これまでわたしが術をほどこした方たちの悲しみの砂でできています。いつかまた思い出したくなった時のために」
「砂となんの関係があるんだ?」
「砂がこぼれ落ちる間だけその砂の記憶がよみがえるのです」
「そんなもの、誰が見たいものか。今までに見にきた者がいるのか?」
「いいえ。今のところはどなたも」
「そうだろうよ。――まあ、その話だけは覚えておくさ」

 顔を上げ、背筋をのばし、大股で出ていく男の後姿は、この部屋に入ってきた時よりひと回りもふた回りも大きく見えました。

      

「次の方、どうぞ」

 マナの呼びかけに、部屋の扉がゆっくり開きました。入ってきたのは、母親に両肩を抱き締められた少女でした。

「お嬢ちゃん、こちらにおかけください。お母さんは申し訳ありませんが、壁際のイスでお待ちください」

 マナがそう声をかけると、母親は心配そうに我が子を見つめたまま壁際へと下がっていきました。けれどもイスには座らず、両手を胸の前で握りしめたまま立ち尽くしています。
 マナはそんな母親の様子に気づいていましたが、なにも言いませんでした。術の邪魔にならなければそれでかまいません。
 マナは少女の向かいに腰を下ろし、静かに声をかけます。

「さあ、腕を前に伸ばしてください。そう……手のひらを上に広げて……ええ、いいですね。そのまま器のように……そうです、そうです、水をすくう形です」

 小さな子に対してもマナの口調は大人に対するものと変わりません。言葉を変えてはいけないという決まりはないのですが、マナはなぜか言葉を変えるとうまく術をかけられないのです。毎回同じ言葉で術をかけるのは、マナ自身にも軽い術をかけているのかもしれません。
 悲しみを吸い上げるという術はとても危険です。手のひらに留めれば砂となって取り出すことができますが、術師が未熟だったり弱っていたりすると、その悲しみは術師に流れ込んでしまうのです。
 他人の悲しみをいくつもいくつも抱えてしまったらどうなるでしょう。悲しみは体を蝕んでいくのです。病気にかかりやすくなります。そうならなくても、これといって悪いところがないままにやせ細り、死に至ることもあるのです。
 いくつも溜まればそれほどまでの毒となる悲しみ。たったひとつ抱えているだけでも日々を過ごすのはつらく苦しい時間に変わってしまいます。
 だからこそ人々の悲しみを取り除く砂ノ術師という者が必要とされるのでした。

「これは……なんて美しい鳥…… ああ、かまいませんよ。どうぞそのまま。なにもお答えになることはありません。あなたの悲しみはしっかり伝わってきますから。そう……大事なお友達だったのですね。それなのに鳥かごごと山犬に襲われて……ああ、なんてこと……あなたの目の前で……」

 少女はぽろぽろとガラス玉のような涙をこぼしました。そして小さな手のひらにはさらさらと砂が湧き出しました。

「はい。もういいですよ。この紙の上にゆっくり砂をこぼしてください」

 手のひらから砂がなくなると、少女はまわりに光が溢れるような笑顔になりました。それから母親に駆け寄り、抱き合いました。

「もし、この悲しみを思い出したくなったら、いつでもいらしてください」

 マナがそう言うと、母親は気味の悪いものを見るように眉を寄せました。

「その話、聞いたことがありますよ。捨てたはずの悲しみの幻を見せるそうですね。」
「ええ。今のところはどなたにもお見せしたことはありませんが」
「そりゃそうでしょう。また体験したくなるようなものなら捨てたりなんかしませんよ。――でもまあ、今回は助かりました。ありがとうございました」

 急ぎ足で去っていく親子を見送ると、マナは空のガラスに砂を移しはじめました。
 するとクスクスと笑う声が聞こえました。

「まだあんなことを言っているのかい?」

 声に顔を上げると、窓から覗き込んでいる人がありました。昔なじみの青年です。

「イサ! イサじゃないの! 近頃見かけないから心配していたのよ。憎しみを吸い込んでしまったんじゃないかって……」
「ぼくがそんなヘマをすると思うかい?」

 マナはぶんぶん音がしそうなほどに首を横に振りました。イサとは同じ師匠について共に砂ノ術を学びましたが、マナよりはるかに優秀なのでした。ただ、優秀であるがゆえに扱う苦しみもマナより技術を必要とするものなのです。マナは「悲しみ」を砂に変えますが、イサは「憎しみ」を砂に変えるのです。
 悲しみはその人の心の中をぐるぐると回っていますが、憎しみはどこかへ向かおうとする思いです。ですから、術をほどこすときに手のひらに抑えきれず、そのまま術師の心へと流れ込んできやすいのです。そんな憎しみの砂を扱えるイサは、腕のいい術師なのでした。

「ぼくもね、マナみたいに砂をなにかに活用できないかって考えていたのさ」

 マナやイサが師匠から教えられたのは、砂を取り出し、清めるという術のほどこし方だけでした。本来、砂ノ術とはその取り出した砂を川や海に流して清めるところまでを指すのです。
 ですが、マナは悲しみの砂を捨て去ることをためらいました。いつかその悲しみに耐えられるだけの力を備えたときに、思い出したくなることもあるのではないかと思うのです。そのときにはかつての悲しみは悲しみとはちがうものになっているのではないかと。その人をその人らしく作り上げた大切なできごとのひとつだと思うのでした。
 先ほどの少女も大人になって、お友達だった美しい鳥との別れを心に留めておきたいと思うかもしれません。別れの悲しみが大きいほどにその存在の大きさを感じることができるかもしれません。
 マナはそう思うのでした。だからこそ砂時計を作り続けるのでした。まだ誰にも必要とされない砂時計を。もしかしたら、これから先も必要とされないかもしれない砂時計を。それでもマナは誰かの心の一部であったものを捨て去ることなどどうしてもできないのでした。

 けれどもイサが扱うのは憎しみです。憎しみなど思い出したいひとなどいるのでしょうか。思い出すことがなにかの救いになるのでしょうか。
 マナがそんなふうに心の中で考えていると、イサはにやりと笑いました。

「きみが考えていることを当ててあげようか。憎しみなんて役に立たない、そう思っているんだろう?」

 それはまったくそのままマナが考えていたことだったのでびっくりしましたが、なんでも見抜かれているのは悔しかったので、マナは澄ました顔で「ええ、まあ、だいたいそんな感じ」と答えました。
 イサにはマナのそんな強がりなんて見え見えでしたが、ただうなずいて、話をつづけました。

「たしかにマナが思うとおり、憎しみはなんの役にも立たない。役に立たないくせに、近頃は北方の戦もあって、憎しみを抱く人が増えていてね。しかもこれまで見てきた砂とは明らかに質がちがう」
「質? 砂は砂でしょう?」
「そう思うだろう? でもね、取り出した砂の量は変わらないのに、ずっしり重いんだ。清めるために水に流そうとしても流れていかないほどにね」
「川でも海でも?」
「ああ。川でも海でも。嵐の後でも残っていた。まったくそこから去っていかない。つまり清められないんだ。どんどん溜まっていくだけ。そうするとどうなると思う?」
「そんなの師匠に聞かないとわからないわ」
「きみだって知っているだろう? 師匠はもういないんだ。ぼくたちが調べて考えないといけない」

 イサは顎を上げてニヤリと笑います。マナはこの表情の意味を知っています。もう答えは用意されているとき、イサはこういう表情をするのでした。

「もしかして、イサ。もう調べて考えたの?」
「ああ、もちろんさ。ぼくは優秀な砂ノ術師だからね」

 マナはうなずきました。たしかにイサは優秀な砂ノ術師だからです。けれども師匠の言葉がよみがえるのです。

『自信とおごりをはきちがえてはいけないよ――』

 そのふたつのちがいがマナにはよくわかりません。いつも自分には足りないものばかりだと思っているので、自信を持つことさえ難しいのです。術師としての技だってイサよりはるかに劣るし、砂時計だって師匠の教え通りの清めをほどこしていません。しかも大切なものだと思って残している悲しみの砂ですが、求める人はまだ誰もいないのです。やはり自分はまちがえているのだろうか、いや、でも、これはよいことにちがいない、そんな思いが行ったり来たりするのでした。
 自分はけして立派ではないのだから、きっとこの不安は気のせいなのでしょう。マナより優秀なイサがまちがいを犯すことなどあるわけないのです。
 だからマナは大きく息を吸って、言いました。

「教えてちょうだい」

 イサの考えた砂の活用法はおそるべきものでした。

「いいかい? 砂を取り出す術をほどこす際に、涙を流す人がいるだろう? 悲しみの場合はもちろんだが、悔しさや憎さが強すぎて瞳からも溢れてしまうことがある。それが涙となって零れる。その涙をすくうんだ」
「涙を……」
「うん。その涙のことは憎しみの水とでも呼ぼうか。憎しみの砂に憎しみの水を少しずつ垂らしながら練り固め、投石機用の石として使ってみてはどうかと思いついたんだ」

 イサはその活用法を思いついただけでなく、すでに行動に移していました。
 北方の戦地に送られた憎しみの石はたいへんな威力を発揮したそうです。イサは戦地からの届いたという報告をマナにも話して聞かせました。
 敵地に飛んだ石はあちらで飛び散り、砂が目や口に入った者が憎しみを持つようになりました。そうなると仲間割れを起こしたりして、戦が手薄になることもあります。そこを一気にこちらの兵が攻め込むのです。あちらが慌てて応戦してきたら、何度でも憎しみの石を飛ばします。
 戦地では、憎しみは次々と湧いてくるので、憎しみの砂はいくらでも集めることができました。その砂を集めるためにイサは戦地へ赴いていて、それでしばらく留守にしていたのでした。

 その話を聞いてもマナはなにも声をかけることができませんでした。心の奥にざらざらしたものが溜まっていくのを感じることしかできませんでした。

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 日々は過ぎていきます。

 マナは悲しみを取り出す砂ノ術をほどこし、砂時計を作り続けました。
 イサは憎しみを取り出す砂ノ術をほどこし、投石機用の石を作り続けました。

 日々は過ぎていきます。

 戦は終わるどころかますます激しくなっていきます。
 マナが取り出す砂の中には戦で大切な人を亡くした悲しみが増えてきました。
 イサは憎しみの砂と水を得るために、北方の前線近くまで出向いて兵士たちに砂ノ術をほどこすことが増えました。そしてそのうち、イサは戦地に行きっぱなしになってしまいました。

 マナは日に何度もふと手を止めては北の空を眺めました。イサは今ごろどうしているのだろうと、朝も昼も夜も、昨日も今日も明日も、そんなことばかり思うのでした。
 そんなふうに気がそぞろだからなのでしょう、悲しみの砂は今までのようには取り出すことができなくなりました。マナのもとを訪れる人たちは少し気持ちが楽になるだけで、すべての悲しみが取り除かれることはなくなりました。それに、運よくすっかり悲しみを取り除くことができたとしても、またすぐに悲しみを抱えて術を受けにくるのでした。

 北方で戦が続く限り、悲しみの波はしだいに大きく押し寄せるようになった気がします。家族や友達、恋人や大切な人たちが戦のせいで怪我をしたり命を落としたりして、たくさんの人に悲しみが満ちているのです。
 その悲しみはとても大きく、多くて、術をほどこすと手のひらから溢れて床にこぼれるほどでした。それに流れ出す勢いも強いので、マナは何度もその悲しみを手のひらに押しとどめることに失敗していました。勢いに押されたマナが椅子から転げ落ちるほどでした。

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 イサがいない間も日々は過ぎていきます。

 悲しみの砂で作った砂時計が増えていき、窓辺に置ききれなくなったころのことでした。

「やあ、ひさしぶりだね。今日はもうおしまいかい?」

 窓ガラスに手をかけ、暮れゆく北の空を眺めていたマナは、懐かしい声に勢いよく振り向きました。今しがた思い浮かべていた人が戸口に立っていました。

「イサ! イサじゃないの! おかえりなさい。いつ帰ってきたの?」
「ただいま。たった今だよ」

 家にも寄らず、まっすぐマナのところへ来たのでしょう、マントのフードを被ったままの旅の姿です。ひさしぶりに会ったイサはひどく痩せて疲れていましたが、目だけが強い輝きを放っています。

「これからはまた近くにいられるのね」
「いや、またすぐに北方にもどるよ。マナを迎えにきたんだ」
「え? どういうこと?」
「前線の兵士たちに術をほどこしてほしいんだ。仲間を失ったり、故郷を懐かしんだりして彼らの悲しみが大きくなっている。それはそのまま戦力の低下につながる。そうなるとまた新たに仲間が失われるし、故郷へ帰る日が遠くなる。だから――」
「むりよ!」

 言葉を遮ったマナをイサは不思議そうに見つめます。まさか断られるとは思ってもみなかったのです。

「どうしてだい? こんな戦、早く終わらせたくないのかい?」
「終わらせたいわ。終わってほしいわ。戦地からこんなに離れた土地でも悲しみが溢れているのよ。これ以上悲しみが増えたら私の手には負えないわ。このままではみんな弱っていく……」
「そうさ、だからぼくが投石機用の石を作っているだろう。憎しみの砂で作ったあの石なら敵地に飛んで飛び散って、砂が目や口に入った者が憎しみを持つようになって……」
「ええ、その話は聞いたわ。きっとそれがよくないんだわ」
「ぼくのやっていることがまちがっているというのか?」

 それは問いかけというより、怒ったような口調でした。マナははじめてイサのことをこわいと感じました。けれどもすぐに思い直します。イサのことがこわいだなんて、そんなことあるわけないのです。お互いが砂ノ術師になる前から――修業時代からずっといっしょにやってきたのですから。
 イサのギラギラと光る目がマナを見つめます。マナはまたぞくりとしてこわいと感じましたが、気のせいだと自分に言い聞かせ、口を開きました。イサが遠くに行ってしまわないようになにか言わなければと思ったのです。

「なにがまちがっていて、なにが正しいのか、わたしにはわからない。でもきっと、憎しみは憎しみを生むわ。そんなことではいつまでたっても戦は終わらない」
「それじゃあ、なにかい? なにもせずにやられて、さっさと負けてしまえというのかい?」
「そうじゃない。そうじゃないけど……」

 なにか言いたいのに、マナの心は砂のようにさらさらと崩れていき、言葉が形をなくしました。両手で胸を押さえ、言いたいことや考えていることを思い浮かべれば浮かべるほど、砂を掴むように指の間から零れ落ちていってしまいます。

 ――ああ、これは「悲しみ」だ。

 マナは自分の心を覆い尽くしているものを知りました。
 そんなふうにして黙り込んでしまったマナの肩に、イサの手がポンと置かれました。大きくあたたかな手でした。

「悪かったよ。急な話で驚かせてしまったようだね。今日はもう家に帰るよ。また明日話そう」

 そう言ってマナの顔を覗き込むイサは、話し方も穏やかでまなざしもやわらかく、マナが昔から知っているイサでした。
 マナは戸口から見送ります。遠のいていくイサは、みるみるうちに夜の中に溶けていきました。

   
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 翌朝、イサは話の続きをするためにマナを訪れました。すると、昨夜見送ってくれたのと変わらぬ姿で戸口に立っているではありませんか。

「おはよう、マナ。出迎えとはずいぶんと……」

 イサがヒュッと鋭く息を吸い込みました。そこに立っているのはマナにちがいないのですが、同時にマナではありませんでした。

「マナ、きみは……」

 肩に手をかけると、サッと砂が一筋流れました。

「ああっ……マナ!」

 なにが起きたのかに気付いたイサは、とっさにマナを抱き締めました。砂の像となったマナを。
 するとたちまちマナは形を失い、さらさらの砂となって崩れました。
 イサは抱き締めることのできなかった両手を強く握りしめました。
 足もとには一山の砂があるばかりです。

 たくさんの悲しみを取り出し、時には自分に流れ込んでしまうほどの強い悲しみを扱っているうちに、マナの中には他人の悲しみの砂が少しずつ少しずつ長い時間をかけて積もっていたのです。そのせいで術も体も徐々に弱っていったのでした。弱っている状態で術を行えば、影響を受けやすくなります。悲しみを取り込みやすくしてしまいます。そうやってますます悲しみの砂を溜め込むことになったのでした。
 術に負ける危険性については師匠からきつく言い聞かされていたのに、マナもイサもいつしか思い出すこともなくなっていました。

 イサは地面に膝をつき、マナだった砂の山にそっと触れました。
 いえ、触れようとしましたが、指先が触れた瞬間にイサの指もサラッと砂に変わってしまいました。イサもまた憎しみの砂を取り込んでしまっていたのでした。

 北方では兵士たちの苦しみを和らげるために憎しみの砂を取り出し、石を作っていました。けれどもいつしか石を作るために憎しみの砂を集めるようになっていました。とうぜんのことですが、それは砂ノ術師の行いとして正しいものではありません。砂ノ術は癒しの術なのですから。
 まちがった集め方をした憎しみの砂はすこしずつ、すこしずつ、イサの中へと溜まっていったのでしょう。

「ああ……僕はなんてことをしてしまったのだろう」

 自分が投石機用の石など作らなければ、これほどまでに人々に悲しみが広がることはなかったはずです。悲しみが広がらなければ、マナは今まで通りに術をこなせていたにちがいありません。そう考えると、マナが砂となってしまったのはイサの傲りのせいなのかもしれません。
 イサは悔やまれてなりません。マナを失ったことが悲しくてなりません。
 イサの目から涙が零れます。砂時計のガラスの形によく似た雫。ポタリポタリと落ちて、今は砂山となったマナへと吸い込まれていきます。

 イサは自分も砂になってしまう前にと、マナの砂山をそっとなでました。幼い子の頭をなでるように優しく、心をこめて。
 するとどうでしょう。さらさらのはずの砂が形を変え始めていました。イサが自分の指を見ると、砂になって崩れかかっていた指はもとどおりになっていました。それから、目の前の砂山が自らの力で細長く立ち上がっていきました。それはたちまち人の形になり、やわらかな肌となり、かつてのマナへと戻っていきました。

「マナ!」
「……イサ? どうしたの? 帰ったんじゃなかったの? 忘れ物でもした?」

 マナは昨夜からの記憶がないようです。

「ああ、マナ! 忘れ物……うん、忘れ物は……もうちゃんと持ったよ」

 なくしかけていた自信を。砂ノ術師のあるべき形を。
 もう忘れない。忘れてはいけない。

 知らぬ間に朝になっていることに戸惑うマナに、イサはささやくようにやわらかな声で話しかけました。

「マナ、いい知らせがある。憎しみの砂を清める方法がわかったよ」

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 もうイサは北方の戦地に行くことはありませんでした。かつてのようにこの地で砂ノ術をほどこしています。
 取り出した憎しみの砂はやはり重くて川や海で清めることはできません。けれども穏やかな心で触れれば清められると気付いたのです。

 イサは地面に白く大きな布を広げ、その上に憎しみの砂を撒きました。そしてマナとふたりでやさしく心をこめてさらさらと砂をかき回します。そうしているうちに砂が軽くなっていくのがわかります。心なしか、日の光を浴びて砂がきらめきはじめたように見えます。

 そうやって清められた砂を天日に干していると、あたたかい南風が吹きました。ほのかに花のあまい香りが感じられます。
 風に吹かれて、砂が舞い上がります。キラキラときらめいて風に乗ります。

 ふたりの砂ノ術師は風の行方を見つめます。やさしさに変化した砂がまだ戦い続ける土地まで飛べばいいと願いながら。そうすればきっと争いはなくなるから。

 そうやって、イサとマナはいつまでも北の空を見上げていたのでした。

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これはあるひとりの砂ノ術師の悲しみを取り出した砂が見せた幻です。
砂ノ術師は、この悲しみを繰り返さないように――忘れてしまわないように――なんども幻を眺めては「今」があることに感謝したそうです。

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さらさら……
さらさらさら……

小さなガラスの中を砂がこぼれ落ちていきます。
さらさらの細かい砂。細かい細かい砂。粉と見まがうほどに。

さらさら……
さらさらさら……

空から降り注ぐ光がガラスと砂に触れて、きらきらとまばゆい粒を散らします。
光の粒となった砂はさらさらこぼれ落ちる間だけ、幻を映し出します。
それはたしかに幻なのですけれども、かつては幻ではなかったものなのです。

さらさら……
さらさらさら……

小さなガラスの中を細かな砂がこぼれ落ちていきます。

さらさら……
さらさらさら……

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これは、遠い国の物語。遠い昔の物語。さらさらな砂が見せた物語――。

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