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短編「叶神社」

この小説は6,038文字です。

 なんか気取った街や。細い歩道を歩きながら未来みくは心の中で毒づいた。道の両側には教会やら洋館やらが立ち並び、その近辺に建つ一般住宅もちっとも一般的ではないお屋敷ばかりが目につく。
 真新しいセーラー服が春風に揺れる。今どきセーラー服ってどうなん? 乙女すぎて恥ずかしいわ。
 もう一か月以上着ている制服なのに一向に未来の体に馴染まない。この街もまた馴染む気配がない。ここは私の場所じゃない。未来の心には澱がたまっていく。
 未来はその澱を舞い上がらせないように、そっと新しい生活を過ごしていくことにしている。だから今日も教会の向こうに見えるとんがり屋根の校舎を目指して歩いている。

 両親が離婚したのは年明けすぐだった。大阪を出たことがない父と横浜出身の母がどのように知り合って結婚に至ったのかは知らない。けれど、未来の知る限り二人が仲の良い夫婦であったことはない。
 父は明るく社交的でいつも周りに人がいた。職場の同僚たちを家に連れてきたりもしたが、母はいい顔をしなかった。お客さんがいる間は料理やお酒を出したりして「垢抜けた嫁さんやなぁ」と褒められては静かに微笑んでいた。みんなが帰ったとたんに母は微笑みの仮面を脱ぎ捨て、「こっちの人は声は大きいし、がさつだし、騒がしくてたまらないわ」とキンキン叫びながら洗い物をするのが常だった。

 校門を入ると当番の先生が立っていて、みんなが挨拶をしながら入っていく。未来もお辞儀をしながら挨拶をする。
「ごきげんよう」
 先生も「ごきげんよう」と返してくる。ご機嫌なんかよろしくないわ。そう口に出したいのをグッとこらえる。母に連れられ横浜に来てからというもの、目にして耳にする全てのものが未来をイライラさせる。

 母がいつから大阪に住んでいたのか知らないが、あの人はいつまでも標準語だった。他県から来た人はそういうものなのかもしれない。だけど、未来の知っているおばちゃんたちはみんな関西弁を話していた。おばちゃんたちだって、みんながみんな大阪出身ではないと思うのだけれど。
 家の中で関西弁と標準語が使われていたせいか、未来にとって関西弁は父の言葉、標準語は母の言葉として認識されている。
 両親の喧嘩は標準語の一方的な攻撃を関西弁がのらりくらりと受け流すのが定番だった。その様子は見ていて気持ちのいいものではなかったけれど、父が気にしている風でもなかったので未来もそんなもんだと思っていた。だから両親の離婚は震天動地、驚天動地、青天の霹靂、寝耳に水だった。

 教室に入ると静かなざわめきが満ちている。大阪では公立小学校に通っていたが、そこでは毎日が大騒ぎだった。笑いや喧嘩が絶えなかった。それに比べ、この私立中学校のお上品さはなんだろう。女子高だからだろうか。

 本当は父に引き取られたかった。そこで共学の公立中学校へ通う自分を毎日想像してしまう。そんな想像の世界に逃げ込んでも、現実に戻って残っているのはドロリとした澱だけだった。
 母はいつもピンと張った糸のようで、少し触れただけで細い傷をつけて血を流させ、それでいていつかプツリと切れてしまいそうに弱々しい。それに比べ父は蜘蛛の糸のようにきらきらして、いろんなものをひっつけて、切れた糸さえのんきに風になびいている。未来は父が大好きだった。
 なのに二人は未来にどちらと暮らしたいかなんて聞いてもくれなかった。離婚も母に引き取られることも連絡事項のように聞かされただけだ。横浜の私立中学を受験しろと、そこまで決められていた。

 チャイムが鳴りホームルームの時間になると担任の先生がやってくる。するとそこでまた「ごきげんよう」。
 だからご機嫌なんてよろしくないねん。友達おらんし。

 これが転校生だったら少しは違ったのだろうか。入学はみんな同時だから、と母なりに気を使ったらしいが、それがかえって仲間に入りづらくなっている。
 ほとんど全員が初対面同士の場合、女子はどうしても人との共通点を見つけたがる。家が近いとか、習い事が同じだとか、好きな芸能人が同じだとか。
 初めの一週間ほどはみんなも話しかけてくれたし、自分から話しかけもした。けれども私が関西弁でしゃべると、みんな最初は興味を持つくせに、そこに共通点を見つけられないとなるとさっさとお払い箱になった。家が近い人がいても今までは大阪に住んでいたのだから、共通の話題があるわけでもない。習い事なんかしていないし、好きな芸能人でお笑い芸人ばかりを挙げていたら笑って済まされた。
 そして気付けばいくつかのグループができていて、私の居場所はどこにもなかった。

 幕末の開港の頃からある街のせいか、このあたりは道幅が狭い。歩道など人とすれ違うにはどちらかがよけなければならないほどの狭さだ。丘の上の尾根に沿った道のため、脇へと逸れる道もあまり多くない。その割には私立の学校が多くあり、下校時間にはぞろぞろと列をなして駅へと向かう。

 帰りに駅へ向かおうと歩いていると、カフェのテラス席に知っている顔を見つけた。クラスでも目立っている五人グループだ。本当は寄り道をしてはいけないはずなんだけど、彼女たちは誰からも告げ口されないだけの自信があるのだろう。告げ口がばれたらクラス全員からのシカトが待っているに違いない。まだ実際にそんなことは起きていないけれど、そう予感させるだけのオーラを彼女たちはまとっている。交流のない未来が感じるくらいなのだから、ほかの子たちが無言の圧力に気付かないはずがない。

 ……どうしよ。

 見て見ぬふりで通り過ぎればいいのだろうが、そんなことをして逆にからまれたりはしないだろうか。もしも学校にばれた時に自分が告げ口をしたと思われやしないか。
 まだ遠いカフェを見つめながら、未来はゆっくりと歩を進め、考えを巡らせる。幸いあちらはおしゃべりに夢中で通行人のことなど気にしていないようだ。
 このまま一気に通り過ぎようか、と思った瞬間、彼女たちの話し声が耳に入った。

「あの関西女、ちっとも面白くないじゃんね」
「なんか大阪の人って、かならず話にオチがあるんだって」
「マジで? チョーうけるんですけどぉ」

 校内とはあまりに違う彼女たちの態度に、未来は思わず立ち止まりそうになる。立ち止まってしまったら後ろから来る人の邪魔になる、と言い聞かせながら、ゆっくりと進んでいく。
 大声で盛り上がっている彼女たちはまだ未来に気付かない。

「ていうか、マジむかつかね? あの女」
「暗い関西人とかありえねぇーつうの」

 偏見や。ものすごい偏見や。関西人だっていろんなタイプがおる。

「あいつ、ずっと関西弁でいくつもりかな?」
「そうなんじゃね?」
「面白くないのに?」
「ぎゃはは。ウケるぅ~」

 おもんないんやろ? だったらなんでウケんねん。 だいたいあんたらの標準語ちゃうやん。ただのヤンキー言葉やろ。

かのう神社であいついなくなるようにお願いしてぇ」
「ああ、絵馬に書くとなんでも叶えてくれるっつう?」
「あんなの都市伝説じゃん。あるわけないじゃん」
「突然現れるらしいよ。いや、マジで。だってお姉ちゃんの彼氏の友達の彼女がお願いごとしたって言ってたもん。それでカレシできたって」
「うっそ。ヤバイじゃん」

 なんや、それ。子供だましやん。アホちゃうか、こいつら。

「だからさ、叶神社見つけた時は絶対関西女ウザいんです、って書くよ」
「いいじゃん、いいじゃん」
「つーか、それ、願い事になってねーし。ただの愚痴じゃん」

 未来はとっさにカフェの脇にある細い路地に曲がった。古い石段がずっと下の方まで延びている。雑木林に挟まれたひと気のない階段を降りていくと土と緑の香りが強くなった。どこかでチーチーと未来の知らない鳥が鳴いている。既に上の道の音はなにも聞こえなくなっている。
 階段の途中で未来は立ち止まった。これから三年間もあんな人たちと過ごさねばならないのか。うんざりした。
 標準語、標準語ってどの口が言うねん。あんたらこそジャンジャンうるさいわ。

 ――カラン。

 木製の何かが小さな音を響かせた。

 雑木林の中の階段だからか、心持ち薄暗いような気がする。さっきまで鳴いていた鳥の声も聞こえなくなった。急に肌寒く感じて制服の上から腕をなでる。
 戻った方がいいんやろか。
 未来は来た道を振り返った。曲がりくねった階段が長く丘の上へと延びている。

 ――カラン。

 音は階段の下の方から聞こえる。

 このまま下って行けば下の道に出られるかもしれない。上の道に戻ってもまだ彼女たちはあのカフェにいるだろう。未来が悪いわけではないのに、会いたくないというよりは、見つかりたくないという気持ちの方が強かった。
 未来は誰も通らない階段を降りていくことにした。

 未来にとって関西弁は使い慣れた言葉というだけではなかった。横浜弁はともかくも、標準語ならしゃべれるはずだ。ニュースやドラマを見ているんだから問題ない。だからあえて関西弁を使っている。クラスに居場所がなくなる原因であっても。

 だって関西弁はお父さんの言葉やもん。大事にせな。

 長い階段を降り切ると行き止まりだった。正面に古そうな神社があるだけだ。このための道だったんだ、と納得する。多くの神社で上る参道はあっても、下る参道が珍しいことに未来は気付かない。
 古びた鳥居をくぐると小さな境内に崩れ落ちそうな社があるだけだった。

 神主さんとかおらんのかな?

 社に向かっていくと左右に二つの台座がある。よく石の狛犬や狐が乗っているアレだ。けれども左の台座は空で、右の台座には――猫が乗っていた。

 にゃあ。

 猫は生きていた。真っ白な毛並のしっぽの長い猫だ。そして左目が潰れている。

 にゃあ。

 猫がもう一度鳴くと、境内を渦巻くように強い風が吹いた。

 ――カラン。

 音のした方を見ると、絵馬掛所があり、ひとつだけ掛かっている絵馬が風に煽られて裏返しになった。そしてなんの前触れもなく二つに割れ、地面に落ちた。落ちた先には同じように二つに割れた絵馬が地表を覆っている。

 猫は大きな欠伸あくびをひとつすると、前足を伸ばして伸びをし、大儀そうに台座から飛び降りた。そして未来を見上げてにゃあと鳴く。未来は歩き出した猫についていく。絵馬掛の横に木箱があり、未使用の絵馬と筆ペンが入っている。

 絵馬をひとつ手に取る。片目の潰れた猫の絵が描かれている。そして「叶神社」の文字。

「まさか、これって……」

 あの五人組が話していた何でも叶う神社ではないか。いや、まさかそんなものが存在するわけがない。
 にゃあと急かすように猫が鳴く。

「これ、書いてもええの?」
 ――にゃあ。

 リーダー格の子の顔を思い浮かべる。人のことを散々ばかにして。よーし、それなら。

『――が、明日一日声が出なくなりますように』

 絵馬掛に掛ける。これで叶ったらいい気味だ。未来はフッと笑う。すると猫がまたにゃあと鳴く。もっと書けということらしい。ならば五人全員分、いやクラスみんなの分書いてやろうか。未来は絵馬に次々と地味な復讐を書いていく。

『――が、お弁当を忘れますように』
『――が、校門で転びますように』
『――が、パジャマのズボンを履いたまま登校しますように』

 いつも浮き上がらないようにそっとしておいた澱を取り出して文字にしていくと、心が浄化されていく気がした。復讐をしなくても文字に書くだけで気分が晴れることに未来は新鮮な喜びを感じた。

『――が、鞄からゴキブリが出てきますように』
『――が、礼拝中におならをしますように』

「書いても書いてもネタが尽きへんわぁ~」

 それからも未来はひたすら書いては掛け、書いては掛けた。ありえないことでも想像するだけですっきりした。
 やがて未来は爽やかな笑顔で顔を上げた。

「もういいわ。今日はこの辺で」

 弾む足取りで階段を上っていく未来を猫は右目だけで見つめていた。

      ***

 翌日、学校は大騒ぎだった。
 制服のスカートの下からパジャマのズボンを覗かせて登校する子がいれば、校門で派手に転ぶ子がいて、教室に着けばお弁当を忘れたと嘆く子を笑っていた子の鞄からゴキブリが勢いよく走り出た。
 いったい今日はなんなの! と叫ぶみんなの声を後にして、未来は始業のベルが鳴ったばかりの学校を飛び出した。

「すごいやん! すごいやん!」

 叶神社は本物だった。未来は細い歩道を全速力で走っていく。始業時間を過ぎているので、いつもは列をなしている生徒たちの姿はない。
 昨日のカフェが見えてくると、未来の顔は自然と笑顔になった。

 今度こそ、もっとすごいことを書いたる! あんなしょうむない、いたずらじゃなくて。

「ここや!」
 細い路地に入り、階段を走り下りていく。今日も人は誰も歩いていない。

 神社に猫はいなかった。けれども未来はそんなことに構わず、絵馬掛所に向かう。するとどうしたことか昨日掛けたはずの絵馬がすべて二つに割れて地面に落ちている。

「古い絵馬やな。願い叶えるまではちゃんと割れずにおってや」

 未来は一枚の絵馬を手に取ると、大きく深呼吸をした。本当に叶うのなら書くことは決まっている。

『みんなと仲良くなれますように』

 これで明日から楽しい毎日が待っているはずだ。未来は横浜に来て初めて晴れ晴れとした気分を味わっていた。

 学校へ戻ろうと階段を上ると、路地を抜けた先に猫がいた。あの片目の潰れた白猫だ。未来が来るのを待っているようだ。
 お礼を言おうとする未来に向かって、にゃあと鳴くとついて来いと言うようにしっぽを立てて歩き始める。学校とは逆方向だが、この猫には恩がある。来いというのならついていくまでだ。
 猫は交差点を渡り、噴水のある丘の上の公園に入っていく。時折振り返っては、未来がついてきているかどうかを確認している。未来が大丈夫、と頷くとまた前を向いて歩き始める。
 そうして見晴台まで来ると、猫はひらりと柵の上に飛び乗った。眼下には海が広がり、港には豪華客船が接岸している。

「うわぁ。きれいやなぁ」

 未来が柵に手をかけ、乗り出した時、柵が根元から倒れた。叫び声を上げる間もなく未来は崖下へと転がり落ちていく。ズザザザザッと低木の中を勢いよく通り過ぎる音がする。
 やがてその音もしなくなり、カモメが一羽横切って行った。

 猫はその様子を見届けると、ひとつ大きな欠伸をして、軽く毛づくろいを始める。それから、しばらくひげを前方に向けたかと思うと、すぐに弛緩した表情を見せ、一声にゃあと鳴いた。

      *

 その頃、叶神社では一陣の風が吹き、絵馬掛の絵馬を揺らしていた。

 ――カラン。

 一枚の絵馬が二つに割れ、地面に落ちる。筆ペンで書かれた文字は風に消えようとしている。

『ウザい関西女が消えてくれますように』

      *

 猫は満足そうに叶神社への道を歩き始めた。