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「死ねない死者は夜に生きる」第6話(全14話)

「明日は満月だな」

 庭先に立つランコが、夜空を見上げて言った。
 サキは窓枠に寄りかかったまま視線を上げた。小さな雲がいくつか散っているだけの夜空に小望月が浮かんでいる。もはや今夜が満月と言ってもいいのではないかと思うほどに丸い。

「私もランコと一緒に行くの?」
「そうだな。まあ別行動でも全然構わないけど」
「無理よ、一人でなんて」

 平気さ、とランコは笑ったけれど、サキは絶対に離れずについていこうと思っている。

 満月の夜は狩りをするのだそうだ。
 死せる者はつまり死体であり、死してなお躰を維持するためには生ける者の摂取は不可欠らしい。ただ摂取の頻度は低くても構わないらしく、狩りは満月の夜と決まっているらしい。
 ランコは「決まっている」という言葉で説明してくれたが、ヒガンにルールや規則、ましてや法律などがあるはずもなく、となると慣習のような生態のようなものなのだろう。満月には自然と力がみなぎるのだとランコは呵々と笑う。

「狩りって、どうすればいいの?」

 明日が、サキがヒガンに来てから何度目の満月なのかはわからない。満月であっても雲隠れの夜であれば狩りの日とはならないからだ。いずれにせよ、明晩がサキにとっては初めての狩りだ。まったく勝手がわからない。

「本能のままにすればいい。多くの死せる者は、ヒガンに来た時から単独で行動している。なんの知識がなくてもやっていけるということだ」

「そう……私は運がよかったのね。死せる者の先輩であるランコに出会えたなんて。いろいろ教えてもらえて助かっているわ」

 このベッドで目覚めた時、混乱はなかった。命が尽きたこと、ここが元の世界とは異なること、そういったことが瞼を開けば景色が見えるように当然のこととして受け入れられた。それが死せる者の本能なのかもしれない。

 なんの知識がなくてもやっていける――たしかにそうだろう。長く過ごすうちに自然とわかってくることもあるだろう。それでも、先駆者の知識を分け与えてもらえるのはヒガンでの暮らしの質を高めた。

 暮らし……か。
 この暮らしもいつまで続くのだろう。ランコは遥かな時を死せる者として過ごしているらしいが、人によっては間を置かずして還りし者になるという。
 死せる者がさらに死んだ場合、輪廻の流れに戻ることになるというのだ。輪廻に還る者のことを還りし者と呼ぶ。還りし者となれば、再び生ける者としての生を受けるわけだ。ただ、それがいつなのか知るすべはない。
 死せる者は死んでいるにも関わらず、第二の死が控えている。すべてには終わりがある。誰しも始まった瞬間から終わりへと向かう。

 そういったこともすべてランコが教えてくれた。ひとりきりでこの世界に降り立っていたら知るすべはなかっただろう。本当にありがたい。

 ランコは庭をそぞろ歩きしながら、気持ちよさそうに月光を浴びている。

 満月前夜の月は明るい。白銀の粒子は黒々とした海に降り注ぎ、波頭を白く染めている。流れ、揺れるたびに水面の月の粉が舞う。きらめきが翻るたびに、かすかに甘く、それでいて清涼な芳しい風を生む。夜が、これほど美しいとは知らなかった。

 シガンの生ける者が昼の住人なら、ヒガンの死せる者は夜の住人だ。生ける者が日の光に魅せられるように、死せる者は月の光に囚われるのかもしれない。

 引き寄せられるように庭に足を踏み出す。庭の中ほどまで進んだところで、突如、身の内が空になった感覚がして、咲の躰は崩れ落ちた。
 すぐさまランコが気付いて駆け寄ってくる。

「サキ……!」
「あ……ごめ……また、力が……」
「……もう部屋に入った方がいい」

 そう言って、ランコはひょいとサキを背負った。死せる者は生ける者とは比べものにならないほど身体能力が高いらしく、少女の体格のランコでもサキのことを容易く担げるのだった。それでも、身長差があるため、サキのつま先が芝を削った。

 ランコはサキをベッドに寝かせると、カーテンを閉めた。月光を遮ると、サキの躰にじわじわと力が行き渡っていく。生ける者だったころの、痺れが遠のいていく感覚に似ている。

 サキが伏すベッドの端にランコが腰かけた。

「やっぱりサキは月の光も合わないみたいだな」
「他の人たちはそんなことないの?」
「少なくとも私が知る中にはいないな。死せる者は誰だって日の光には弱いけど、月の光にまで弱いだなんて聞いたことがない」
「これって、困る……わよね?」
「まあな……狩りに支障が出るだろうな」
「つまり?」
「どこまでも弱っていく――まあ、この辺は想像でしかないけれど」
「ランコでもわからないことがあるなんて。それくらい珍しいのね」
「そういうこと」
「原因はなにかしら?」
「たぶん――あ、いや」

 答えかけたランコの口が引き結ばれる。
 サキは言葉の続きを待ったが、ランコの閉じた唇が開くことはなかった。


 翌日は、雲一つない美しい月夜だった。

「ああ、ゾクゾクする!」

 窓辺で大きな満月を見上げながら、ランコは両腕で我が身を抱いている。一方、サキは室内にまで煌々と差し込む月明かりを避け、光の届かない壁際に寄り掛かっていた。

「サキ、そろそろ行ってもいいか?」

 ランコは尋ねておきながら、サキの返事を聞く前に庭に飛び出した。
 ランコの弾む声を初めて耳にした。もう居ても立ってもいられないといった様子で、落ち着きなく室内を歩き回っている。ランコはよく死せる者のことを揶揄の意味合いで獣にたとえるが、今夜のランコも行儀の良い獣に見える。

 これが死せる者の本能だというのなら、サキにはまだ死せる者として未熟だということなのだろう。立派な満月を見上げたところで前夜までとの違いをなにも感じられない。

 狩りの最中にサキが倒れた場合のことを憂慮して、同行するように言われたから、従うつもりだ。ランコはすっかりサキの保護者だ。心からありがたかった。ランコのような昂りはみじんもないが、一人ここに残されるのは不安だ。失う命もないのだから不安になる要素などあろうはずもないのに。ヒガンに来てからずっとランコがそばにいてくれたからかもしれない。

 死せる者は群れをつくらないという。もしランコに出会わなかったら、ほかの死せる者と同じように一人きりの日々を過ごしていたのだろう。それはとても恐ろしく感じられた。危険にさらされる不安ではなく、孤独と向き合わざるをえない恐怖だった。自分の存在を自分しか意識しない状態は、存在の証明がなされていない状態に思えてならなかった。

 ランコは興奮を持て余しているらしく、庭を駆け回っている。

 サキは掛け声代わりに息を短く吐くと、クローゼットの扉を開いた。中には、闇のように深い黒のフード付きローブがかかっている。極力月光を浴びずに済むようにと、ランコが用意してくれたのだ。ローブを羽織り、フードを深くかぶる。

「ランコ、お待たせ。行きましょう」

 サキの声を聞くが早いか、ランコが窓から飛び出した。サキも慌てて後を追う。
 獣のように俊敏な二つの人影が、国道に向かって疾走した。

 コンビニの駐車場脇にある雑木林を背負った茂みに身を潜める。光の箱の中には幾人もの生ける者たちの姿が見える。だがランコが動き出す気配はない。

「ねえ、狩らないの?」
「出てくるのを待つんだ。見つからないように狩るためにな」
「どうして? どうせ見えないんでしょう?」

 二つの世界は重なってはいても、別空間のはずだ。そう教えてくれたのはランコだ。

「それはシガンが明るくて、ヒガンが暗い場合だ。満月の夜は闇でありながら光が降り注ぐ。互いがつながる。だから狩ることができるんだ」
「ふうん」

 わかるようなわからないような説明にサキは曖昧な返事をしたが、ランコはそんなサキの反応に不満を感じる余裕もないようだった。身を乗り出し、獲物に鋭い視線を飛ばし、口角から今にも垂れそうなほどに唾液を溢れさせている。

 その様子をサキは冷めた気持ちで見つめていた。

 シガンとヒガンの重なりについての説明と同様、死せる者の本能のようなものもまたサキにはよくわからない。本能だという狩りへの昂りを感じられない自分は、なりそこないの死せる者なのではないか。死せる者の力の源になるべき月明りがこの身を衰弱させることもしかり。

 だからといって、まだ生ける者なのだと主張する気もない。当時の記憶がないこともあるが、それこそ本能で、自分は生ける者にある艶やかで瑞々しい気配をまとっていないことくらい自覚している。

 ヒガンは、再びシガンに生を受けるまでの狭間。さらにその狭間にサキは一人で存在している気がした。

 どこかとぼけたような明るい電子音に意識を呼び戻される。店のガラスドアが開かれた音だった。
 若い女性が一人、小さなレジ袋を提げて店を出てくる。

 ランコはぴくりと身を震わせ、腹這いに近いほどに伏せた。そんな体制でも視線だけはまっすぐ前方に向け、ウゥと低いうなり声をあげている。

 女性はコンビニの角を曲がり、薄暗く細い路地に入っていく。同時に、サキの頬を疾風が掠めた。反射的に吹いた風に目を向けると、ランコの姿がなかった。あの風はランコが飛び出した際のものだったのだ。

「早い」

 思わず口をついて出た。
 あらゆる感覚や身体能力が増したはずの躰でも、サキにはその瞬間のランコの姿を認めることはできなかった。

 今夜はいわば実地研修のはずだが、ランコの意識からサキは追い出されてしまったらしい。見失っては、ここへ来た意味がない。サキは周りに人目がないのを素早く確認すると、ランコを追って路地へと走った。

 コンビニの明かりはすべて国道に面していて、角を曲がった途端に辺りは闇が濃くなった。昔ながらの古い蛍光灯タイプの街灯が、ジジッジジッと音を立てて点滅している。円錐形に落ちる明かりが途切れた辺りに、ぐったりと横たわる女性の体があった。こちらを向いた靴底だけがわずかに明るく浮いて見える。近づくと首の付け根に歯形がついていた。

「……死んでるの?」

 恐る恐るランコに問う。

「まさか。そこまでしたら面倒だ。一口頂いただけ」

 その一口のおかげで少し落ち着いたらしいランコが口元を拭いながら答えた。

「一人から存分にいただければいんだけどね」
「足りないの?」
「足りないな。全然足りない。けど満足するまで口にすると、獲物を死せる者に呼び込むことになってしまうから」
「生ける者はなにも感じてないんでしょ? それなのに死んじゃうの?」
「死ぬな。そうだなあ、生ける者の血肉を得ているつもりだったけど、もしかしたら、魂とか寿命みたいなものを口にしているのかもしれない」

 ランコはその考えに初めて思い至ったらしく、きっとそうだ、そういうことなんだ、とブツブツ呟いている。

 突然、倒れていた女が起き上がり、驚いたサキはとっさに飛び退いたが、サキは微動だにしない。そんな二人の目の前を女はすたすたと歩き去っていった。

「あの人って」
「ああ、たぶんなにもわかってない」
「わからないなら、ついばむように獲物を襲わなくても、一度で済ませればいいじゃない」
「だめだ。自ら死せる者を作り出さない方がいい。狩る側が増えると自分の狩り場が狭くなる。今後のことを考えるならやめた方が賢明だ。でも、一口くらいなら本人の記憶にも痕跡ものこらないし、死せる者になることはない。それに、また次の満月で同じ者からいただくことだってできる。食糧は獲り尽くさないことが大事なんだ」
「なるほど」

 乱獲を避けて、持続可能な食糧を確保するのは理にかなっている。そのことをランコは自分で考えたのだろうか。それとも死せる者の本能なのだろうか。尋ねようとしたが既にランコの目は生ける者に向けられ、舌なめずりをしている。

「まだまだ足りない。ひとたび口にすると後を引くんだよな。ただ、一口ずつだと、何人も狩らなければならないのが手間だ」

 言うが早いか、ランコはまた別の者に飛びかかった。大抵の大人は十三歳の姿のランコより体格が大きい。ランコが飛び掛かった相手は、長身でガタイのいい男だ。その、いかにも重そうな男をランコは片手でズルズルと陰へ引き摺って行く。

 自分もあれをやらなければならない。ランコの狩りを身近で見ても抵抗はなかったが、食欲が湧くわけでもない。どちらかといえば乗り気ではない。それでも狩らねばならない。

 獲物を追ってどこかへ消えたランコを探すのを諦め、サキはひとりコンビニの前へと戻った。駐車場の隅に原付バイクを停めてヘルメットを外している学生服の男がいた。あれで試してみるか。ランコは獲物に飛び掛かっていたが、慌てることはない。あちらから見えないのなら勘づかれることも逃げられることもないのだから。

 サキは慎重に歩を進めた。
 慎重に? 勘づかれることがないとひとりごちたばかりではないか。それなのに慎重に?
 サキは気づいてしまう。飛び掛からずにゆっくり歩み寄るのは緊張からではなく、躊躇によるものだ。
 そんなはずはないと自らに言い聞かせる。狩りを目にしても抵抗はなかったはずだ。大丈夫、できるはず。

 キーを抜いた男が近づいてくる。サキは飛び掛かる。容易に捕らえることができた。手を伸ばし男に触れるその瞬間、強い異臭がした。
 反射的に身を捩り、その場に膝をついた。体内が絞られるような痛みに身動きが取れない。なんだこれは、と恐怖に近い動揺に襲われていると、躰の中心から上部へとせり上がってくるものがある。嘔気だった。えずく。当然ながらなにも出ない。

 コンビニドアの開閉音がして男が消える。夜風が辺りを掃き清めてようやく気分が落ち着いた。

 ひどい臭いだった。鼻腔にまだ臭いが残っている気がする。雑多に散らばる記憶をあさると、生ごみと汚物を合わせたような臭いに辿り着いた。思えば、ヒガンに来てから嗅覚を意識したことがなかった。なんのにおいも感じなかった。だからなのか? だから強烈に感じただけなのか? そうだとしても、獲物ならば食欲をそそる匂いになるのではないのか? ランコの様子はそうだった。

 今のサキには、生ける者を狩ることのできる日がくるとはとても思えなかった。

 車の流れが止まった。信号が赤になったらしい。
 車の走行音が途切れると、波の音が大きく響く。

 忘却。

 そんな言葉が波音に紛れて聞こえた。

 既になにか大切なことを忘れている気がする。死せる者は、肉体は変わらずあるものの、その帳尻を合わせるかのように、シガンでの記憶は急速に失われていく。海で命を落としたことは覚えている。特になにかを忘れたようには思えない。だが、忘れたことを忘れていたら自覚などないはずだ。

 感情。

 そういうものを持っていた記憶はある。記憶はあるが、実感として甦らせるのは難しい。忘れ去られていくものの中には感情も含まれるのではないか。だとすると、私が忘れているのは、なにかの感情――。

 車列が戻ってきた。目の前をヘッドライトの明かりが流れる。

 初めての狩りの日、サキは一度も狩ることなく終えた。


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