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「死ねない死者は夜に生きる」第5話(全14話)

 浮上していく。全身が脱力したまま浮上していく。

 どういうわけだか、どれほど「動け」と念じても指一本どころか瞼さえ微動だにしない。力の入れ方を忘れたのか、拘束されて動きを封じられているのかもしれない。それとも、繭か卵膜に包まれているのかも。きっとそうだ。安心感がある。動きを制限されているのに、守られているかのようだ。

 頭上から吸い上げられるような感覚があり、浮上しているのだとわかる。空気の詰まったボールか風船のように浮力を得た頭部が、水面を目指している。
 耳元を過ぎていく水がぷるぷる鳴る。
 瞼は閉じたままだが、薄い肉と皮の向こうが透けて見える。
 波打ち揺らめく天井は、水中と水上の境界だ。海中は暗く、死の世界を思わせた。

 この世界を抜け出さなければ。あの境界を越えなければ。帰るんだ。
 どこへ? 待っているに違いないんだから。
 誰が? わからない。

 求めるイメージは浮かぶのに焦点が合わなくてもどかしい。それはまるで、風に舞う綿毛だった。すぐ目の前にある綿毛に手を伸ばしても、指先が巻き起こすささやかな風に煽られて、触れるどころか遠のいていく様に似ていた。

 近くにあるのに届かない記憶。とても大切なものだという感情だけははっきりしているにもかかわらず、それがなんなのかわからない。
 わからないけど、ともかくここにいてはいけない。このままでは終わってしまう。
 だから私は浮上する。

 あと少し。あと少し。

 強く願うと、卵膜に亀裂が入った。と思った瞬間には、ぱっと裂け目が広がり、卵膜は花開くように弾け、体が自由になった。
 急いで頭上に手を伸ばし、大きく水をかく。境界の膜を破る。頭部が境界を越える。顔が出る。大きく口を開けて息を吸い込み、目を開けた。
 助かった! そう思った。

 しかし、視界に飛び込んできたのは思い描いていた風景ではなかった。
 まず目に入ったのは、薄暗い部屋の見慣れない天井だった。ベッドに横たわっているらしい。水だと思っていたのは掛布団で、頭まで潜り込んで寝ていたのだろう。手で掻いたのも水ではなく掛布団だったというわけだ。そこから顔を出したのを水面に上がったと勘違いしたようだ。

 夢を見ていたのか? いや、どちらかといえば、この状況の方が夢と呼ぶのにふさわしい。だが、夢にしては輪郭が鮮やかだ。

 頭蓋の中で粉々に砕け散っている細胞をかき集め、パズルのピースをつなぎ合わせる要領で思考を組み立てていく。今はまだ、居眠りをしてはっと目覚めた時の寝ぼけた思考に似ている。実際に眠っていたのだから当然なのかもしれない。

 上体を起こす。つるりとしたベッドカバーに触れるとひんやりした。落ち着いた色合いの花の柄が散りばめられている上品なデザインだ。部屋そのものもアールヌーボー風の優雅で重厚なインテリアになっている。窓には艶のある織の厚手のカーテンがかけられていて、室内は薄暗い。ただカーテンの裾から光が漏れているから日中なのだろう。見慣れた部屋とは言い難いが、初めて見る部屋ではない。

 徐々に記憶が整ってくる。頭の中で、パズルのピースが磁石に引き付けられるように次々と飛んできて、ぱちりぱちりとはまっていく。絵が現れる。

 そうだ、私は海に落ちたのだ。

 享年三十五。
 そんな言葉がふいに頭をよぎった。誕生日が命日になったから、ぴったり三十五年だ。そんな補足までつく。
 そこからは早かった。瞬く間に記憶のピースが繋がっていき、状況を把握した。

 部屋のドアがノックされた。
 ベッドから立ち上がりながら「はい」と返事をすると、中学生ほどの年頃の少女が入ってきた。

 艶やかな長い黒髪を黒いリボンでポニーテールにしていて、まっすぐに切りそろえた前髪は、意志の強そうな大きな目を引き立てていた。身に着けているミニドレスのようなワンピースも真っ黒だ。フリルとレースをふんだんにあしらったもので、黒一色だというのに華やかな印象を受ける。

 少女はワンピースが皺になるのを気にする様子もなく、窓辺に置かれた椅子にどかりと腰かける。無言のまま、観察するようにサキのことを凝視した。
 観察するようにではない。観察しているのだ。今日のサキはどんな様子なのかと。

 サキは自分の状態を簡潔に知らせるため、少女の名を呼ぶ。

「ランコ」

 ランコが満足したように口角を上げた。

「そう。私はランコ。あなたは?」

 幼い見た目に似合わない低く落ち着いた声色だ。

「私は、サキ」
「ここはどこだかわかる?」
「ランコの別荘」
「まあいいだろう。正確には私の父の別荘だけど。今は子孫の誰かが管理はしているけど、使う者はない」
「そうだったわね。大丈夫。今日は覚えてる」

 ランコは満足そうに頷いて、椅子の肘掛けに寄りかかって頬杖をついた。

「いい調子だ。思い出すのが早くなってる」
「うん。けどまだ目が覚めた瞬間は頭が混乱しているし、体もうまく動かないわ」
「日を追うごとに馴染んでいくだろう。今は再構築の期間だ。初日なんて言葉も話せなかったから期待していなかったのに」
「そのあたりのことは思い出せないの」
「あの状態では脳が機能していなかったのかもしれないな。あいつらと同じような状態だったから。あれは人じゃない。獣だ」
「あいつらって、死せる者?」
「ほかに誰がいる……まあ私たちも死せる者だがな。こういう例外もあるってことだ」

 サキは頷いた。脳裏には、ランコに連れられて遠目に見た動き回る屍の姿が浮かんでいた。ランコは獣にたとえたが、獣の方がずっと知的に見るほどだった。自分もほかの死せる者のようになっていたかもしれないと思うとおぞましい。助けてくれたランコには感謝しかなかった。

「また夢を見たわ」
「事故の時の?」
「うん。たぶん。でもよくわからない。海で溺れていたようでもあるし、記憶に溺れていたようでもあるの」

 事故の瞬間はスローモーションのように感じるだなんて、誰が言ったのだろう。交通事故で車に跳ねられ宙を舞ったのを呑気に自覚していたりだとか、階段で足を滑らせた時に落ちてしまうと冷静に考えられたりだとか、いったいどれだけ肝が据わった人物なのよ、とサキは掃出し窓を開きながら悪態をついた。

 窓の外には夜の海が広がっているはずだ。高台に建つこの洋館は、海を見下ろす崖の上に建っている。掃き出し窓の外はテラスになっていて、そのまま庭へ出られる。庭といっても住む者がいないという蘭子の言葉を裏付けるように、花壇には枯れた花さえなく、ただ芝生が広がるだけだった。

 サキの話を聞いていた少女が、あははと笑う。

「ということは、サキはスローモーションじゃなかったのか」

 自分より二十は若く見える少女に呼び捨てにされても、サキは少しも気分を害することなく、一緒になって笑った。

「うん。そうじゃない、そうじゃない。スローモーションどころか、一瞬にも満たないわよ。ショートカットよ。気付いたらここにいたって感じ。走馬灯なんて見る暇もなかった」
「でも、『その瞬間』はあったわけだろう? 苦しくなかったのか?」
「うーん。どうだろう? やっぱりよく覚えてないんだよね。というか、たぶん覚えていたんだろうけど、日に日に忘れていくの。それはもう、ものすごい速さで」
「へえ……」
「生きていた頃の記憶はどんどん薄らいでいって、入れ替わるように、死んでからの記憶はだんだん定着していく感じがする」
「へえ……」
「へえって、ランコはそうじゃなかったの?」
「私はどうだったか……忘れたな。なにしろ、はるか昔のことだ」

 そう言って、ランコは裸足のまま庭に出た。芝生の上を海に向かって歩いていく。サキも裸足で後を追う。
 低い柵の手前で立ち止まっているランコの隣に並ぶ。隣に目をやると、頭一つ分身長の低いランコの頭頂部が見えた。

 まるで歳の近い親子のようではないかと思う。けれども実際はランコの方がずっと年上だ。サキの親より前に生まれていたのかもしれない。いや、それとも生まれたのが早かろうとも、ここに来た時点で時間が止まるのなら、やはりランコは幼い時点で止まっているのだろうか。

「忘却ってやつは、私たちに残された貴重な能力だと思うんだよ」

 ランコは時おり老成した表情を見せる。肉体は時の流れから外れても、精神までもが留まるわけではないようだ。

 柵の向こうは崖になっていて、眼下には国道が走っている。国道の向こうには海が広がる。

 サキはその海で死んだ。

 海で溺れた時、たしかに意識を手放したのは覚えている。最期に脳裏に浮かんだのは、誰かの笑顔だった。サキの髪に触れ、ふうわりと微笑む誰かだった。その時ははっきりと誰だかわかっていたはずなのに、今ではもうその微笑みさえ思い出せない。

 それでもまだその人と一緒にいた頃の感情だけが残っている。共に過ごした日々の欠片さえ記憶にないのに、その頃の感情だけが妙に鮮やかに残っていて、ふとした瞬間に胸の奥が温かくなったり、氷の刃で刺されたように冷たく痛んだりする。感情が動くきっかけに遭遇した瞬間に、私の記憶や意思などお構いなしに心が勝手に反応しているのだった。それはまるでその人への想いだけが生き残っているみたいだ。

 波に揉まれ海面の方向もわからなくなり、思考も海中に彷徨って、細切れなイメージ映像のようなものとそれに対応する感情が、スライドみたいに忙しなく切り替わった。走馬灯みたいにゆったりと眺められるものではない。

 映像が途切れがちになると、感情だけが目まぐるしく襲ってきた。中には痛みもあった。けれどもそれは忌むべき苦痛ではなく、愛しさや切なさを内包する心地よい痛みだった。
 その痛みさえも曖昧になってくると、今度はやけに鮮明な理解が降ってきた。

 ――死ぬんだ。

 死そのものへの恐怖も悲しみもない、単なる理解。
 その誰かとの時間が永遠に失われることだけが死よりも恐ろしかった。しかし、すぐにそんな思考さえも遠のいていった。

 思い返してみると、いくつもの段階があったことになるが、その時感じたのは、すべては曖昧なイメージと感情が渦巻きながら一気に襲いかかってきた印象だ。走馬灯やスローモーションなどとは似ても似つかない。

 既に身体の指揮権は失われていた。手足どころか指先をわずかに動かすこともかなわず、瞼も上下が張り合わせたように固く閉じられたままだった。

 手放した意識が波間に消えゆく中で、別の誰かに抱き締められた。
 そして、目覚めたらここにいたのだった。

 死んでからの時の数え方は知らない。だから、あれから何日経ったのか、それとも何週間、何ヶ月、何年と経ったのか、計ることはできない。

 この世界のたいていのことはランコから教えられたけれど、時の流れについてはランコにもわからないようだった。進むこともなく、終わりもない時の中で、時間の概念というものは不要なのかもしれなかった。

 単位はわからないものの、サキがヒガンに来たのはそう遠くはない過去だったはずだ。時間と共に薄れていくというシガンの記憶がわずかながら残っているのがその証だ。

 ランコは、死せる者の世界をヒガン、生ける者の世界をシガンと呼ぶ。他の死せる者に出会ったことはないから、これが正しい名称なのかどうかは確かめようがない。それでもランコが教えてくれた世界の仕組みが正しいであろうことは次第にわかってきた。

 ヒガンとシガンは別の世界だ。だが、ピタリと重なり合っている。ヒガンでサキやランコが目にする風景は、シガンのそれとまったく同一のものだ。二つの世界を隔てるのは紗幕のようなものがあるだけだった。紗幕越しに光の側から闇は見えない。しかし、闇の側から光はよく見える。世界の仕組みも同様だった。

 生ける者に知られることのない、死せる者の世界。それがサキの新しい居場所だった。

 覚えたての世界はまだこの身に馴染まない。新品の服に袖を通した時のような落ち着かない気分になる。そんな「新品の服に袖を通した時」なんてものも忘却に沈んでいくのかもしれない。寄せては返す波のように反復を繰り返しつつもやがて沖に流されるように、記憶もまた思い出したり忘れたりを繰り返し、シガンの記憶は次第に消えていき、ヒガンの記憶は定着していくのだろう。

 ぼやりと眼下に広がる海を眺め、砂浜を視線でなぞり、磯のあたりをじっと見つめた。打ち付ける波音と飛沫がすぐ目の前にあるように感じられる。
 ヒガンではあらゆる感覚が研ぎ澄まされる。いずれはこれさえも当然のものとなり、特に鋭敏であるなどと思いもしなくなるのだろうか。


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