短編「夕映えスケッチ」
たゆたう黄昏
光の和らいだ空。小さな雲が連なって流れていく。浅紫と薄紅の影をまとって流れていく。
「おいしそ……」
穏やかなひとときをぶち壊す呟きが聞こえ、わたしは寝転がったまま顔を横に向けた。頬にコンクリートがこすれてチクチクする。視線の先には同じく寝転がって空を見上げる千夏の姿がある。千夏は染まりゆく雲から目を離さずに続けた。
「ああいう色、サーモンピンクって言うんでしょ? 鮭っておいしいよね。あたし、焼いたのも、お寿司も好き」
たしかに千夏はよく鮭おにぎりを食べている。おばさんの手作りじゃなくてコンビニのやつ。千夏はお弁当を持ってきたことがない。わたしはコンビニでお昼ご飯を買ったことがない。
千夏は門限がない。わたしは授業が終わって一時間以内に帰宅していないといけない。
千夏は洋服や遊ぶお金が欲しくて駅前のカフェでバイトをしている。わたしはバイトをしたことがないけれど、欲しいものはお母さんが買ってくれる。
わたしたちはいろんなものが違う。なのになんでわたしたちは一緒にいるんだろう。それとも、違うからわたしたちは一緒にいるんだろうか。
東の空は宵の色に沈んでいるのに、西の空はまだ仄明るい。
こうして屋上で寝転んでいると空しか見えなくて、空中に浮かんでいるみたいだといつも思う。家もコンビニも駅前のカフェもなにもかもずっと下の方にあって、この学校だけがフワフワとのんびり空を漂っている気がする。
本当にそうであればいいのに、と思う。下界に降りることなくあの雲と並んでこのままどこかへと流れていってしまえばいいのに、と。
チャイムが鳴る。下界へと続く梯子が架けられる音。
「もう帰らなくちゃ」
わたしは起き上がってスカートの後ろをはたき、畳んでおいた校旗を抱える。
「亜衣んち、今日の夕飯、なんだろうね?」
千夏はまだ仰向けのまま明るい声を出した。だからわたしも明るく答えなくちゃって思う。
「うち? たぶんハッシュドビーフ。今朝お母さんがそんなこと言ってた気がする」
「はっしゅどびーふぅ? そんなのファミレスでしか食べたことないや。亜衣んちはおしゃれでいいね~」
「ハッシュドビーフくらいべつにおしゃれでもなんでもないじゃん。どこのうちでも作るでしょ」
言ってしまってから、しまったと思うが、そこはあえて謝らない。謝ってしまうと大切なことみたいになっちゃうから。千夏も変わらず明るい声でわざとらしい不満げな声を出す。
「うちはまたきっとスーパーの二割引き惣菜だよ」
千夏はいつもわたしを羨ましがる。
「せめて唐揚げだといいな~」と言いながら足を振り上げて勢いよく立ち上がった千夏の後ろに回り、本人の代わりにそのお尻をはたいてからスカートの裾を整えてあげた。
職員室のキャビネットに校旗をしまって校舎を出た頃にはすっかり暗くなっていた。
校門でバイバイと笑顔で手を振り合ったあと、千夏はバイトのため駅へと続く道を歩いていく。わたしは駐輪場へと向かいながらコの字型の校舎を振り返る。
西棟一階の職員室と東棟四階の三年一組の教室だけが白く浮かび上がっている。わたしたちの教室は、定時制の教室でもある。
チャイムが鳴った。
定時制始業の時間だ。わたしは慌てて自転車を取りに行った。
校旗掲揚が生徒会の仕事だなんて自分がやることになるまでは知らなかった。それどころか校旗なんてものが西棟の屋上に揚げられていたことさえ知らなかった。
校旗は始業前に揚げて、放課後に降ろす。初めのうちは生徒会役員七人の当番制だったけれど、都合が悪いという人の当番を代わっているうちに面倒になってわたしの仕事でいいですよって言ってしまった。ほかの人は朝も放課後も部活があるから、帰宅部のわたしが校旗掲揚係を引き受ければ都合がいいだろう。
なによりわたしはこの仕事が好きだ。通常屋上は立ち入り禁止だから、なんだか得をした気分になる。放課後に千夏とダラダラ過ごす屋上も好きだし、朝ひとりで上る屋上も好きだ。
朝は、東棟の教室に鞄を置きに行ってからだと遠回りになるから、いつも西棟一階の職員室で校旗と鍵を借りるとそのまま屋上へと上がっている。
屋上の重い扉に体重をかけながら外へと開くと、わたし専用の朝が広がっている。ひんやりと澄んだ風に金木犀の香りが乗っている。秋も深まり、朝の寒さが厳しくなってきた。
掲揚ポールのクリートに巻きつけてあるロープの先端をほどいていく。校旗の紐を結びつけ、カラカラと頼りない滑車の音とともに一番上まで揚げる。手元のロープを再びクリートに8の字に括り付けて固定すると、その場に腰を下ろし鞄から小さなクロッキー帳を取り出した。
人が出入りすることを想定していない屋上の塀は低い。ペタリと床に座ると鼻の高さに縁がある。姿が隠れるから下を通る人から見つかることもないけれど、屋上から見下ろそうとしても座ったままでは東棟の四階部分しか見えない。わたしはその四階部分をスケッチする。
特にモチーフにこだわりがあるわけではない。ふと目についたものをサラサラと写すだけだ。その時によって屋上の入口と給水塔を描いたり、塀から身を乗り出してサッカー部の朝練風景を描いたり、コンクリートの床に落ちている枯葉を描いたりする。
スケッチそのものにも意味はない。歌が好きだったら鼻歌だったかもしれない。だいたい絵だってそれほど得意なわけでもない。
二年生まで芸術選択科目は美術だったけれど、音楽や書道よりましだと思って選択しただけだった。三年生では芸術科目の授業がなくなったから、それまで使っていたクロッキー帳のページがあまってしまった。まだ半分以上残る白いページがなんだか淋しそうで、わたしはクロッキー帳を持ち歩いては一人の時間にこうして写生の真似事を繰り返している。
クロッキー帳に描いた東棟四階の教室とその周囲は、直線ばかりでできていてなんだかよそよそしい。
家にいるのが息苦しくて校旗掲揚の係を引き受けてまで早く登校しているのに、学校に来ても本当にここにいていいのか不安になってしまう。
放課後屋上で千夏と寝転んでいる間は、ちょっとだけ心をほどくことができる。そう、ちょっとだけ。
千夏はわたしがなんでも持っていると思っているから、わたしはそれに応えなくちゃって思う。
不満なんてなにもない。嫌なことなんてなにもない。
そんなふうにしていないと千夏は離れていっちゃう気がして。ほんとうのわたしはどこにもいない──。
ぶわりと大きな風が吹いて校旗が風をはらみバタバタと音を立てた。鼻先をかすめていく金木犀の香りに眉間の奥が広がる。ツンと冷えた一陣の風がわたしの胸を突き抜けていく。そして視界が水に沈む。
ポトポトとクロッキー帳の表紙に模様を描く。藁みたいな色をした厚紙の表紙に落ちたいくつかの丸模様。しずくの跡は水を含んで少し膨らんでいる。乾いてからも跡が残るかもしれない。美術の授業はもうないから構わないけど。
わたしは少し毛羽立ったいくつかの水玉模様を人差し指でそっと撫でた。
だいじょうぶ。わたしはだいじょうぶ。
予鈴が鳴る。
スケッチしていた窓の向こうにいくつもの人影が見えている。わたしもあそこに行かなくちゃ。東棟四階、三年一組の教室へ。
わたしは鞄とクロッキー帳を抱えて屋上を後にした。
放課後、屋上に出てから、クロッキー帳を教室に忘れたことに気が付いた。
鞄に入れる直前に千夏に声をかけられて、そのまま机の上に置き去りにしたに違いない。もしや無意識のうちに鞄にいれていないかと期待してあさってみてもやはり入っていなかった。
「もう寒いね~」
屋上の塀に腰かけた千夏が自分の腕をさすっている。
わたしはもうすぐ冬だしね~とか言いながら千夏の腕を引っ張った。
「そんなところに座らないでよ。落ちたらどうするの」
千夏は素直に塀を離れたかと思うと、足元の鞄を拾い上げた。
「え? もう帰るの?」
まだ屋上に上ってきたばかりで校旗を降ろすどころかクリートからロープをはずしてもいない。
「うん。帰ろっかな」
「……もしかして、さっきので気分悪くした?」
「さっきの?」
「そこに座っているのを注意したから……」
塀を指差すと千夏はその先をちらりと見てから苦しそうな顔で笑った。
「いや、そうじゃないよ。そうじゃないんだけど……うん、まあ、とりあえず今日は帰るわ。寒いしね」
千夏は今度こそきちんと笑って手を振った。怒っているわけではなさそうだからわたしも笑顔で手を振る。
ひとり屋上に残されたわたしは校旗を降ろし、畳むために四隅を摘まんで両腕を広げながら校門へと続く通路を見下ろす。千夏が小走りをしている。きっとこっちを見上げて手を振るだろうと思ってその姿を追っていたのに、彼女はそのまま校門の外まで走っていき、やっと足を止めたところには他校の制服を着た男子が立っていた。
ああ、そういうことね……。
大袈裟なほどの身振り手振りで話しながら去っていくふたりの後姿を見送ると、わたしは地べたにぺたりと座り込んだ。
友達より彼氏を取るなんて、とか言うつもりはない。だけど、なんで言ってくれないのだろうと怒りと悲しみが絡まってしまう。
他校の生徒ということはきっとバイト仲間なのだろう。カフェの店長の話や仲のいい女の子の話は聞いたことがある。でもたぶんあの男子の話は聞いたことがない。
千夏に好きな人がいるなんてちっとも知らなかった。
なんで。どうして。
イライラと血が駆け巡り、そのくせキリキリと痛む胸の奥は鋭い冷たさに凍えそうになる。
寒い。ここは寒い。
校旗は降ろしたのだからもう帰ればいい。それはそうなのだけど。帰りたくない。
学校も家も友達も特に不満があるわけでもない。かといって満足しているわけでもない。寒いのに温度のない空間にいるような。
なにもない。わたしの周りにはなにもない。わたしにはなにもない。
ついこの前まで夕焼けを映していた空にも夜が侵食してきている。夏の頃ならば夜の七時でもまだ明るいのに、今はもう五時を回れば夜の入口。
かすかに笑い声が闇を割って耳に届く。声の糸を視線で辿った先には、東棟四階の窓が街頭ビジョンのように浮かんでいて、仰け反って笑う男の人の影が映し出されている。窓際の一番後ろの席。昼間はわたしの席。わたしの机に見知らぬ人が腰かけて笑っている。それはなんとも胸の奥がもぞもぞして落ち着かない光景だった。
教室には定時制の生徒が集まり始めていた。今日はもうクロッキー帳を教室に取りに戻るのは諦めよう。
わたしはもう一度夜に浮かぶ映像に目をやる。
いったいなにがそんなに面白いのか、相変わらずその人は笑っている。その楽しそうな姿を見ているとわけもわからずこちらまで笑顔になってしまうのがなんだかくすぐったかった。
「……変な人」
わたしはクロッキー帳の分だけ軽い鞄を抱えて屋上を後にした。
濡れそぼる宵闇
翌朝、校旗を挙げ終えて鞄を覗いたけれど、目当てのものは入っていなかった。しばし手を止め記憶をぐるりと巡ってから、ああクロッキー帳はないんだっけと思い出した。
手元にクロッキー帳がないのなら寒空の下で過ごすこともない。屋上で過ごす時間を考慮して早めに登校しているから、教室にはまだ誰もいないはずだ。
早々に教室へと向かうと、窓際の一番後ろの机に鞄を置いて窓を開けた。
ひんやりとした風が吹き込んできて、砂埃の匂いと金木犀のほの甘い香りがする。
サッカー部の男子の声とテニス部の女子の声が舞っている。
「さむっ」
わたしは慌てて窓を閉める。風の香りは途絶え、たちまち声は遠のく。
机の上にあると思ったクロッキー帳は見当たらなかったけれど、中に手を入れると慣れた厚紙の表紙に触れた。やっぱりここに忘れていたんだ。きっと定時制の生徒が机を使うのに邪魔だから中にしまったのだろう。
クロッキー帳を取り出すと、白いものがはらりと落ちた。
薄汚れたPタイルの床に張り付いたそれを爪の先でひっかけて摘まみ上げる。手のひらより小さないびつな三角形。ノートの切れ端だった。
いつ、どのノートが破けてしまったのだろうと答えを求めるでもなくぼんやりと考えながら、ゴミはゴミだと思いぐしゃりと握りつぶす。
ゴミ箱の上で手を開いた瞬間、文字が見えた。自分の筆跡ではない文字がゴミ箱に落ちていく。
とっさにゴミ箱に腕を差し入れて拾い上げる。そっと開くとそこには筆圧の強い大きな文字が並んでいた。たった一言。
〈大丈夫?〉
トクンッと心が跳ねた。
急いで席に戻り、クロッキー帳の表紙を撫でる。涙の跡が乾いてザラザラの水玉模様になっている。
いや、まさか──。だってそんなことあるわけない。この言葉はなにか違うものに向けられたのだろう。このノートはなにか意図しない理由で千切れたのだろう。 ──でも、だったら、どうして、わたしの机に入っていたの?
誰も知らないはずのわたしの涙に気付いてくれた人がいるなんて、そんな都合のいいことあるわけがない。あるわけがない。あるわけがないのに……。
──これはあの人だ。見ているこちらまで笑顔になってしまうくらい明るく笑うあの人だ。
あの日、屋上からわたしがその姿を見つけた日、あの人はこの教室でわたしの心を見つけた。わたしがあの人の笑顔を見つめた日、あの人はわたしの涙を見つめていた。──そういうことなんだ。
目頭が内から押し上げられるように熱くなる。瞬きをすればまた水玉模様を増やしてしまう。この気持ちをこぼさないように、わたしは窓の外の空を見上げるふりをして熱い想いをしまいこむ。
誰もいない教室で空を見上げるふりなんて、わたしってば誰に対してなにをごまかそうとしているのだろう。そう思ったらなんだか無性におかしくなって、今度はフッと笑ってしまう。
「亜衣~。おっはよ~」
千夏が教室に走りこんでくる。
「え? 千夏? どうしたの、今日、早くない?」
「だってだって~。亜衣には直接報告したいから朝になるの待っていたんだもん」
「え? え? なになに?」
「えっとぉ、実はぁ、昨日……告られました!」
わたしの瞼の裏に昨日の他校生の残像が甦る。
「あ……もしかして、昨日の?」
「え、やだ。見てたの? 昨日バイトに一緒に行こうって言われて、これはもしやと思ったんだけど、自意識過剰だったらイタイじゃん? だから亜衣には内緒にしておきたかったのに~。でもまあいいか。あれがあたしの彼氏です!」
照れなんかいっさいなくてただただ嬉しそうな千夏は今までで一番かわいい。
「おめでとう! いつから好きだったの? ぜんぜん知らなかったよ~」
「う~んとね、昨日から?」
「は?」
「今までなんとも思っていなかったんだよね~。告られて、なんかいいなって思ったの」
「そんなのでいいの?」
「まあ、悪い奴じゃないし、話していて楽しいしね。それに恋なんて突然落ちるものだから」
千夏が真顔で言うから、わたしはおなかを抱えて笑ってしまう。
「なにそれ? なんかのセリフ?」
「知らん。あたしの名言ってことで!」
千夏と一緒に笑いながら、わたしはノートの切れ端への恋に落ちていた。
放課後の屋上には一人で上ることが多くなった。千夏と一緒に上っても短い時間だけだったりする。そんな日は校門で待つ彼氏と連れ立って帰っていく千夏と大きく手を振り合う。
初めの頃は千夏も申し訳なさそうにしていたし、わたしもちょっと淋しかったりしたけれど、それももう慣れた。コートを着る頃には寒さもあって千夏とは教室でバイバイをすることも増えたし、ずっとこんな感じだったような気がするから不思議だ。
わたしの放課後は相変わらずで、校旗を降ろした後も屋上で過ごしている。
凍える手に息を吹きかけて温めようとするけれど、冷たい痛みが去るのは一瞬で、口元から離した途端に湿り気を帯びた指先は一層冷えてかじかんでしまう。
鉛筆を持つこともままならず、寒空の下で描くことは諦めた。
わたしは向かいに建つ東棟の明るい窓をただ見つめる。三年一組の窓ばかり眺めている。あの人の姿を瞼の裏に焼き付けていく。
次の日の朝は教室でクロッキー帳を開き、瞼の裏の記憶を呼び起こしながら昨日見た姿を描いていく。半日前までここにいたその姿を思い描く。
まだ誰も来ていない教室で記憶を頼りに描くことが日課になっていた。
あの人のことを思い出すその時間は、遠くの窓にその姿をみとめる時間と同じくらい愛おしい。友達と話す時によく動くその手があのノートの切れ端に文字を書いたのかと思うと鼓動が高まり、頬が緩んだ。
使いかけだったクロッキー帳はとっくにページがなくなり、今は購買部で買った二冊目を使っている。
放課後の屋上は闇に沈んで、明るい教室から見えないはずだ。そのことがわたしの気持ちを大胆にする。
目を逸らすことなくあの人の姿を見つめられる。見つからないという安心感。そしてほんの少しの、気付いてもらえない淋しさ。
あの人は同じ机を使う誰かのことなんてもう気にしていないのだろう。
制服のポケットに手を入れ、定期入れをつかむ。三角形のノートの切れ端を挟んである定期入れ。筆圧の強い大きな、あまり上手とは言えない文字。広げて目にしなくても、ただ思い浮かべるだけで寒さをしのげる気がする。
あの笑顔で誰かを「大丈夫?」と気遣うことは、あの人にしてみたら特別なことではないのだろう。わたしにとってあの人は特別でも、あの人にとってわたしは特別でもなんでもない。記憶にも心にも存在すらしていないに違いない。
そのことが屋上を吹き抜ける夜風よりも鋭くわたしを切りつける。
「それ、おまじないかなんかなの?」
帰りのホームルームが終わって席を立つと、千夏がじっとわたしを見つめていた。
「おまじない? なにが?」
「それよ、それ。なんなの、その儀式みたいなの」
わたしはウエットティッシュで拭いた机の表面をそっと撫でているところだった。
机を拭くのはあの人が気持ちよく使えるようにと思ってし始めたことだ。でもその後に撫でていたのは無意識だった。
「前から気になっていたんだよね。机を拭いてから丁寧に撫でてるでしょ」
「わたし、いつも机を撫でてた?」
「え。まさか自分では気付いてなかったの?」
わたしはうん、と小さく頷いた。
「撫でながら呪文でも唱えているのかと思ってちょっと怖かったよ」
千夏はそう言って笑う。だけどなにかしらの説明を求めているのが伝わってくる。
千夏になら話してもいいかもしれない。そう思ってクロッキー帳を机の上に出しながら話し始める。
「これの前に使っていたクロッキー帳なんだけどね、朝、校旗を揚げたあとに屋上でスケッチをしていて……」
西棟の屋上を見上げると、千夏もわたしの視線をたどる。──その瞬間、ヒュッと二人同時に息を飲み、叫んだ。
「雨だ!」
わたしたちは揃って教室を飛び出した。
「校旗が濡れる!」わたしは西棟の職員室へと走る。
「傘持ってない!」千夏は東棟の昇降口へと向かう。
慌ただしく手を振り合ってそれぞれの方角へと向かった。
校旗を職員室に返却した直後に雨は激しくなった。
東棟昇降口のひさしの下で折りたたみ傘を開く時になってようやく、千夏を駅まで一緒に入れてあげればよかったと気付く。千夏は本降りになる前に駅に辿り着けただろうか。
そして、あの人は雨に濡れずに登校できただろうか。
いつもは見下ろす窓をはるか下から見上げる。傘を傾け、冷たい雨を浴びることもいとわず見上げたところで、天井の一部が見えるだけだ。ここからでは窓の内はうかがえない。
雨のグラウンドで部活動をする者もなく、周波数の乱れたラジオのような雨音が、近づく夜を深くする。
濡れた前髪から滴がぽたりぽたりと落ちてきて、鼻筋や頬に沿って流れる。
寒い。そう思ってハッとする。
やだ、わたしったら。こんな冷たい雨に濡れていたら風邪をひいてしまう。
傾けていた傘を正そうとした拍子にかすかな風が起こり、鼻先をくすぐった。
──くしゅんっ。
ひと気のない空間にわたしのくしゃみは意外にも大きく響いた。
誰もいなくてよかったと思ったその時、視界の隅に動くものがあった。反射的に目を向ける。さっきまで見上げていた窓。そこからこちらを見下ろす顔があった。
あの窓の位置は──。
その人は少し驚いたような表情をしていた。けれどもしだいに上がっていた眉が下がり、細く開いていた口元は締められて口角がかすかに上がった。あるいはそう見えただけなのかもしれない。辺りは雨に煙っていたし、わたしは見たいものを瞳に映しただけだったのかもしれない。
それでもあの人がそこにいて、こちらを見ているのは現実だった。暗闇に浮かぶ屋外ビジョンの中にしかいなかったあの人。どこかで実は存在しないんじゃないかとさえ思っていた。それは昼と夜という重ならない時間のせいかもしれないし、東棟の四階と西棟の屋上という繋がらない空間のせいかもしれない。
それなのに……一方的に見つめるだけだったはずなのに、なぜか今は見つめられている。重なって繋がる視線。
それは仮想と現実が溶け合ってしまったかのような奇妙な感覚だった。
逃げたくて隠れたくて。でも顔をそむけることも目をそらすことさえできなくて。だってあの人がこっちを向いたまま動かないから。
わたしの顔にもあの人の髪にも冷たい雨が降る。
「タクミ~、さみーから窓閉めろよ」
教室の奥から呼ぶ声にあの人の頭が引っこんで、窓が閉められた。
「──タクミ、さん」
雨音よりも小さな声で呼んでみる。
たった今、「あの人」は「タクミさん」になった。
そしてわたしは今この瞬間から雨が好きになった。
ゆきあう朝影
翌朝、わたしは教室に入れずにいた。
いつも通りの時間に、いつも通りに校旗を揚げ、いつも通りに教室にやってきてスケッチを──と思ったところではたと気付いてしまったのだった。
──わたし、昨日、クロッキー帳どうしたっけ?
突然の雨に千夏と一緒に教室を飛び出した。クロッキー帳を机の上に置いたまま。
そう、こんなことは初めてではない。一冊目のクロッキー帳を教室に忘れたことがある。あの時タクミさんはきっと表紙を見ただけで机にしまってくれたんだと思う。そしてノートの切れ端で声をかけてくれた。
二冊目はどうだろう。
開かない、と思う。他人の描いたものを勝手に見るような人ではないと思う。会ったこともない人の涙に気付くほどの人だから。
でも。もし、わたしがわざと置いていったと思ったら?
昨日目が合ったのはそういうことなんじゃないかと思い始めていた。わたしからのメッセージだと思っているんじゃないかって。置き手紙……自分に宛てた手紙のようなものだと思っていたとしたら? ……当然開くだろう。
二冊目のクロッキー帳にあるのはすべて屋上からこの教室を描いたものだ。窓辺にタクミさんがいる風景。そんなものを見たら、それは、つまり、その……そういうことだとわかるに違いなくて。
だから、わたしは教室に入れずにいた。
「なにしてんの?」
突然耳元で聞こえた声に、わたしは文字通り飛び上がった。
「び、び、びっ……」
「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」
昨日の帰り際の話が気になって早く来ちゃった、と千夏が笑っていた。その笑みに誘われるように、わたしは一気にこれまでのことを語った。
とはいえ、わたしとタクミさんの間に多くのことがあったわけじゃない。一冊目のクロッキー帳を教室に置き忘れたこと、それにメモが残されていたこと、二冊目のクロッキー帳を教室に置き忘れたこと、その日に目が合ったこと。わたし達に起こったことはそれだけだった。ただそれだけ。たったそれだけ。
なのになんでこんなにもわたしの中はタクミさんで溢れているのだろう。
「泣かないで」
千夏が優しく抱き締めてくれる。
泣く? 誰が? そう訊こうとした声が震えて嗚咽になった。
「亜衣が羨ましいよ。あたしは彼のこと、そこまで想えていない気がする」
千夏はわたしを抱き締めたまま頭を撫でてくれている。
「そんなに好きなんだねぇ……」
「うん。好き。わたし、タクミさんのことが大好きなの」
初めて声に乗せたわたしの気持ち。
心から外の世界に出したら、それはとてもたしかなことに思えた。
千夏はうんうんとやわらかな声で頷いてくれる。そして抱き締めていた腕を緩めて教室の中へと誘う。
わたしはといえば、こんなに気持ちが昂った状態でも頭の片隅では早くしないとクラスメイトが登校してきちゃうと冷静に考えているのが我ながらおかしかった。
「ほら、席に座って」
千夏がひいてくれた椅子に腰かける。
机の上にはクロッキー帳がまっすぐ姿勢を正していた。授業中もこのままだったはずはないのだから、一度は手にしてまた机の上に戻したということだろう。
「もしその人が亜衣からのメッセージだと思ってこのクロッキー帳を見たのなら、きっとまたメモを残しているんじゃないかな?」
千夏はわたしの後ろに立ち、両肩に手を置いてくれている。その温かさに励まされて、わたしはひとつ頷くと、ページをめくり始めた。
一ページずつ。ゆっくりと。丁寧に。
同じようなスケッチばかりが続く。西棟の屋上から見下ろす東棟の四階。その窓辺にあるタクミさんの姿。
途中で何度か「ああ……」という千夏の感嘆ともため息ともつかない声が頭上から聞こえた。
メモはまだない。
タクミさんはわたしのクロッキー帳になんて興味はないのかもしれない。あの時のメモだって、本当はなんでもないのかもしれない。わたしの勘違いなのかもしれない。
きっとそうだ。そうに決まっている。だって、会ったこともないのにわたしの心の深いところに触れてくるなんてありえないもの。
あと一枚――。
スケッチしてある最後のページを開く。タクミさんがこの机に腰かけて、椅子に座る誰かと談笑している図。屋上から眺めるわたしの目に映るのはタクミさんだけで、そこにいるはずの相手の姿は描いていない──はずだった。
「……ねえ、これって」
千夏がわたしの背中に覆いかぶさってきた。
「ねえ、これ、亜衣が描いたの……?」
わたしはプルプルと首を横に振る。
「だったら、これって……」
千夏の指が絵の一部をさす。
その指先もそこに描かれた線もみるみる熱い水に沈んでいく。
夕闇に浮かぶビジョンの中にしかいなかったあの人。重ならない時間。繋がらない空間。それが、重なって繋がっている。一枚の紙の上で。
向かい合い、視線を合わせ、同じ時間、同じ空間にいる。
聞いたことのない声が聞こえる。感じたことのない安らぎを感じる。見つけたことのない居場所を──
千夏が背後から強く抱き締めたりするから、わたしの中の飽和状態だった水が絞られてしまう。ポタポタと滴が零れてしまう。
だからわたしはクロッキー帳をパタリと閉じた。
タクミさんと談笑するわたしの姿が濡れないように。ふたりの出会いが消えてしまわないように。
これからきっと次のページにもそのまた次のページにもふたりの姿は描かれていく。こんなモノトーンではなくて。もっとカラフルに。もっと近くに。互いの声も息遣いも聞こえるように。
今度あなたに「大丈夫?」って訊かれたらこう答えるの。
うん、大丈夫。あなたがいてくれるから──。