見出し画像

「死ねない死者は夜に生きる」第10話(全14話)

 サキは恐る恐るカーテンの端をめくった。闇の深い夜だった。
 今夜が朔であることは確認済みだ。だけど念のため、ローブを羽織った。それからフードを深くかぶると、慎重に外へ足を踏み出した。

 相変わらず力が入らなくてふらつくが、月光を浴びた際の痺れのようなものはない。単なる血気不足のせいだ。ならば、血気を補充すればいい。今の体調では死せる者特有の俊敏な動きはできないが、生ける者のように歩くことならばできる。サキはもどかしい思いで左右の足を交互に前に運んだ。目指すはコンビニだ。

 近頃ランコはよく出掛けて、探し物か調べ物をしている。何をしているのか尋ねても「ちょっとな。たいしたことではない」と言ってはぐらかすが、どうやらサキのために動いているらしいことには気づいていた。この厄介な体質をどうやってヒガンに適応させるか模索してくれているのだと思う。感謝と同じくらい申し訳ない気持ちもある。

 ただ、それはもちろんサキのためではあるが、それだけではないのかもしれないとも感じている。きっとそれはランコ自身のためでもあるのだ。
 ヒガンに棲む者はすべて死せる者ではあるけれど、その中で、ランコとサキだけが異なる。死せる者の亜種のようなものだろう。
 サキがヒガンに来るまでランコは独りぼっちだったはずで、サキの想像を絶する孤独な時間を過ごしてきたことは明らかだ。そのランコが、やっと巡り合えた同類に執着しないわけがない。

 ランコに執着されているのだとしても、感謝こそすれ、負担には思わない。サキだって、既にランコが存在しているヒガンでなければ、これほど冷静にいられなかったことは想像に難くないのだから。

 ランコはサキが、サキはランコが、かけがえのない存在であることだけは確かだ。
 だからこそ、サキはランコの負担になりたくなかった。ランコの期待に応えたかった。

 自分にできることといえば、まずは狩りだ。それだけはほかの死せる者同様、やらねばならないことだ。

 もしも血気不足で「死」のような、ヒガンから消え去る道があるのなら、それもまた一つの選択肢なのかもしれない。日光も月光も躰を蝕むのであれば、不自由で苦痛に満ちたままよりも、あるいはヒガンを去る方が楽なのかもしれない。還りし者となればヒガンを去り、新たに生ける者として生を受けるという。

 だがそれは、自然の、もしくは得体のしれないなにか大きな力によってもたらされるもので、自らその道を選ぶことはできない。もしあるのならば、気の遠くなるような年月を孤独に過ごしてきたランコがその道を試していないはずがない。ランコがいまだこの満足しているようには見えないヒガンに棲んでいるということは、ここから逃れる道は閉ざされているのだ。

 だから、サキは狩りができるようにならなければならない。この身が滅ぶことなく、どこまでも苦痛を増していくのに耐えるか、狩りの不快感に耐えるか。自分のためにもランコのためにも、後者がいいに決まっている。
 サキはそう自分に言い聞かせ、また、鼓舞し、今夜もまた、いまだ一度も成し遂げていない狩りに挑む。

 狩りには満月の夜が最適とされているが、ほかの夜に狩りができないわけではなく、ただ満月だと食欲が増すということらしい。いつであろうとも生ける者に食指が動かないサキにしてみれば、満月でも朔でも変わりはない。

 コンビニの近くに辿り着いたサキは、ランコに教えられた通り、茂みに身を隠した。
 選り好みをしている場合ではない。そもそも獲物の良し悪しなどサキにはわからないのだ。最初に現れた生ける者を狩ることにする。

 国道から道を折れ、こちらに向かってくる男がいる。あれにしようと狙いを定めた。
 コンビニに入る前にしようか、出てきたところにしようかと、飛び掛かるタイミングを迷っていたが、男はコンビニを素通りして、横の路地へと入っていった。サキは慌てて後を追う。

 とはいえ、衰弱しているサキの動きは生ける者と大差ない速さでしかない。それでもどうにか男との距離を少しずつ縮めていった。

 男はふらふらと足元がおぼつかない。弱っているように見えた。獲物はどれでも変わらないと思ったが、さすがにこれはまずそうだ。ただでさえ食指が動かないというのに、わざわざ更にまずいもので試すことはないだろう。今以上に狩りが苦手になってしまう可能性もある。

 ターゲットを変更しようとしてサキが踵を変えようとしたその時、木枯らしが吹いた。
 男が寒そうに背を丸めた。そして、風に乗って男の体臭がサキの鼻先をかすめた。
 たちまちサキの口内に唾液が溢れた。口角から糸を引いて垂れていく。サキは手の甲で口元を拭い、舌なめずりをした。

 どうやって飛び掛かったのかわからない。気づけば男の首元にかじりついていた。
 じゅわりと瑞々しく滑らかな粘性のものが前歯を越えてくる。舌先で掬うように絡めとり、口内と舌の全面に行きわたらせて味わった。自分の舌の形を見失うほどに男の血気はサキの唾液に溶け込んでいく。口内の快感は鼻腔の奥を伝い、脳天まで上り詰めると、弾けるように全身に行きわたる。力がみなぎってくる。
 更に味わうために口の位置をずらそうとしたその瞬間、獲物である男がどさりと倒れた。

 サキはハッと我に返った。

 一体から摂りすぎてはだめだ。満足するまで口にすると、獲物を死せる者に呼び込むことになってしまうから一口にすることとランコから教わったではないか。狩る側が増えると自分の狩り場が狭くなるからと。

 サキは自らの失態に恐怖に似た焦りを感じて、男の傍らから飛び退いた。とっさの動作だったが、ついさっきまでの躰の重さが嘘のように軽くなっていた。

 サキの心配をよそに、男はのそりと起き上がり、なにごともなかったかのように歩き始めた。

 問題なさそうだとわかると、サキは颯爽とねぐらへと向かって走り出した。
 早くランコに知らせたかった。私にも狩りができたと。
 初めてのとろける味覚と体力の回復に心が浮きたった。なにより、ようやく一人前の死せる者になれた気がして誇らしかった。

 サキの心は、躰以上に軽やかだった。

 サキが生ける者を狩れるようになって初めての満月の夜は、かつてランコに連れられて狩りを学んだ夜と同じ、雲一つない美しい月夜だった。違うのは、待ちきれなくて浮き立つ心を持て余しているのがランコではなく、サキの方だということだ。

「ああ、ゾクゾクする!」

 窓辺で大きな満月を見上げながら、サキは両腕で我が身を抱いていた。
 今なら満月の夜にそわそわしていたランコの気分がよくわかる。

「サキ、もっとフードを深くかぶれ」

 ランコは笑いを含んだ声でいましめながら背伸びをして、サキのローブの乱れを直した。

「サキはなかなか狩りができなかったから、一時はどうなることかと思ったけど、取り越し苦労だったみたいだな。こんなに食いしん坊になるとはな」

 ついに声を立てて笑い出したランコのことをサキはキッと睨みつけた。

「私は、あの初めて狩った獲物の味が忘れられないだけよ。そのあとに口にした獲物は、以前ほど拒絶反応が出ないというだけで、特においしいと感じるわけではないわ」

「それは、初めて知った味だからおいしく感じただけだろう。いずれにせよ、昔から異界のものを口にしたらその世界に馴染むというし、サキもそういうことなんだろうな。一度、生ける者を狩れたことでようやくヒガンの者になったってことだ」

 ランコの言葉に、サキは誇らしさに頬を緩ませた。
 死せる者でありながら月光に弱く、生ける者を獲物とすることを躰が受け付けず、血気不足でただ衰弱していくだけの苦しみと虚しさから逃れる術を求めていた頃が嘘のようだ。相変わらず陽であれ月であれ、天からの光には適応できないが、狩りができるようになったことで、そんな体質をも受け入れられつつある。

「行くぞ」

 声が聞こえた時には既にランコの姿はなかった。サキも慌てて後を追う。
 獣のように俊敏な二つの人影が、国道に向かって疾走した。

 コンビニの駐車場脇にある雑木林を抜けると、茂みに身を潜めるランコの小さな影が見えた。コンビニのガラスには無数の死せる者たちが張り付いて中を窺っている。
 サキはそっと隣に身を伏せた。

「ちっ、邪魔だな」

 舌打ちと共にランコが忌々しそうに吐き捨てるのが聞こえた。
 たしかにあれでは争奪戦が激しそうだ。実際に、生ける者が出入りするたびに死せる者たちが一斉に群がり奪い合っていた。

 ふと気づけば、ランコの姿がない。さすがの素早さだ。独り占めできる獲物を追ううちに住宅地へと入っていったのかもしれない。
 ランコが行くとするならばより暗い方だろう。サキは茂みを抜け出すと、路地を折れ、比較的夜の色が濃い道を進んだ。
 だが、他の死せる者どころか、ランコの姿も獲物となる生ける者の姿もない。何者の気配もない道は、硬質な空気に満たされている。

 いくつめかの角を曲がった時、一瞬、思考が明晰になった。

 私、この道を知っている……。

 道の先にはマンションがあった。胸に蠢くものの正体を見極めることのできないままに、サキは歩を進めた。引き寄せられると言ってもいいかもしれない。

 匂いがする。

 なんだろう、この匂いは?

 これといって、断定できるものが浮かばない。あらゆるものが絶妙の配合で入り混じった、極上の香り。身の内が熱くなる。

 これは、食欲?

 食欲がどのような感覚だったのか、既に思い出せなくなっている。
 だが、この匂いは初めての獲物と同じ匂いだ。他の生ける者とは決定的に異なる匂い。ランコのいうような初めて知った味だからおいしく感じたなんてものではないと今はっきりとわかった。この獲物は特別に極上なのだ。
 自らの内面に起きている変化がなにを意味するのかわからないが、強い欲求であることは間違いない。どうしようもなく引き寄せられる。もっと、もっと――。

 サキはフードを剥いだ。全身で獲物の気配を感じたかった。遮るものがなくなり、匂いが濃くなる。
 満月の光の粒子が降り注ぎ、サキの感覚を一層鋭敏にしていく。

 突然ひらめきのように心が叫んだ。ここにあったんだ! と。まるでずっと探していた匂いのように。やっと辿り着いた匂いのように。

 遥か以前から求めていたものに出会えたことに、サキは指先まで痺れた。
 サキは抗いがたい欲求に素直に従った。それは心地よい感情への従順だった。
 唾液が溢れる。身の内から計り知れない欲求がじゅわりと広がり、全身に行き渡る。とてもよく似た感情を知っているような気がしたが、すぐにそんな思考は本能に侵食されて埋もれた。

 サキは身をかがめ充分に力を溜めると、マンションの五階を目指して飛び上がった。


 このままクビになるのかもな。颯は痺れたように動きの鈍い頭でそんなことを考えた。

 不思議なもので、長年身に沁みた日常は感情を置き去りにしてもそれなりにこなせるものだ。朝起きて、電車に乗り、会社に行き、仕事をし、電車に乗り、帰宅する。食事もとるし、風呂にだって入る。職場で陽気に話しかけられれば笑みだって軽口だって返すことができる。

 だが、ふとした瞬間、全身の細胞の連なりが一斉に切断されてしまうかのような衝撃に襲われることがある。それは、咲だったらこう言うだろうと思ってしまった瞬間だったり、咲と同じシャンプーの匂いが鼻先をかすめた瞬間だったり。

 咲と何度も歩いた駅からマンションまでの道。咲が撫でたことのある野良猫。咲とつないだ左手。なにもかもが、何の前触れもなく咲を甦らせた。そしてそれは日を重ねるほどに増していくのだった。

 初めのうちはそつなくこなせていた日常も、次第に齟齬が出てきた。仕事では細かいながらもミスが続き、遅刻が増え、しまいには社外打ち合わせを失念した。その日のうちに、上司からしばらく休めと言われた。颯に反論する気力はなかった。

 咲の気配が満ちている部屋の中で、颯は終日微睡む。眠りの中なのか目覚めているのか判然としない曖昧な時の流れに身を任せる。そうして過ごすうちに、思考することを手放す術を会得した。その世界はとても穏やかで、静かだった。ただ、時おりふいに以前の颯がどこからともなく立ち現われて、心が強く咲を求めることがあった。そんな時は逆らわずに滂沱の涙にくれた。

 バリーン!

 派手な音で目を覚ました時、颯は床の上で横向きに丸まっていた。
 緩みきった頭をどうにか巡らせて、今の音はガラスの割れた音ではないかと思い至る。
 冷たい夜風が吹き込んでいる。

 部屋の中央に設置されたローテーブルに手をつき、上体を起こす。ベランダのガラスが大きく割れていて、月明かりを背に人が立っていた。

 ……え?

 寝起きの緩慢さとは異なる、処理能力の破綻を感じた。

 侵入者への警戒心と、五階のベランダに到達した身体能力への畏怖がない交ぜになって、颯は理解することを手放した。

 人影がひと飛びにローテーブルを越えてきた。獣のように四つ這いに圧し掛かられて、颯は仰向けに倒れた。「それ」は、颯の腹上に片膝を乗せ、胸には両腕をついた。

 目をやるまでもなく、細い指先を感じる。その指の感触に甦った思いをすぐさま否定する。今はそれどころではない。完全に抑え込まれた。

 颯がもがいても、細い腕はびくともせず、華奢な体はさらに低く覆い被さってきた。

 バサリと髪の束が落ち、颯の顔にかかった。一度は否定した思いが再度甦る。

 颯の肩に「それ」が齧りついてきた。

「うおっ!」

 容赦ない咬合力に呻き声が漏れた。「それ」は頭部を振って、颯の肩の肉を噛み切ろうとしているようだった。

「うああああーっ! やめろーっ!」

 必死に体を捩じっていると、「それ」は肩から口を離した。颯が安堵の息をつくよりも早く、「それ」の口は颯の首筋へと移動した。

「ぐわああああっ!」

 痛みという感覚すら認知できない強い衝撃が全身を貫く。
 肉がえぐられたのがわかった。引きちぎられた。噛み切られた。齧り取られた。
 なにが起きたのかを理解した瞬間、もっとも強く自覚した感情は恐怖だった。

 ボタリと眉間に液体が落ちてきた。鼻の脇を流れ、口角を掠めて耳の中へと流れていく。唇から口腔内に入り込んだ液体はチリリと舌先を刺激し、血の味であることを脳へ伝えた。

 グッチャ。グッチャ……。

 唇を閉じないままの咀嚼音が暗闇に響く。
 肉を、食ってやがる……俺の肉を……。

 ゴ、クッ。

 再び「それ」の頭部が迫ってきた。颯は唇を引き結び、息を詰めた。
 いざ噛みつこうというその時、颯は満身の力で首を上げた。傷口の痛みよりも頭突きの衝突部の方が痛かった。

 不意打ちを食らった「それ」は、颯の上から転げ落ちた。獣のような四つ這いの姿勢で呼吸を整えているかに見える。

 颯は素早くいざって距離を取り、壁に背を付けた。「それ」が緩慢な動作で顔を上げ、ジリジリと颯に迫りくる。「それ」の輪郭が月明かりに縁どられている。

 またしても颯の脳裏に甦る。まだ新しい記憶を呼び覚ます。「それ」は髪を掻き上げる。見慣れたしぐさだった。「それ」の顔が顕わになる。

 颯の顔が苦しげに歪んだ。

「咲……」

 「それ」は静止する。目に光が宿る。血塗られた唇がぎこちなく蠢く。

「ソ……ウ……?」

「咲。咲なんだろう?」

 首からダラダラと血を垂れ流しながら、颯は咲に手を伸ばす。

 咲は颯の傷口をじっと見つめ、それから自らの口元を両手で拭った。手のひらを椀の形に構え、あっ、あっ、と声の粒を吐き出していく。

「咲――」

 颯の手が咲によく似た「それ」の髪に触れようとした瞬間、彼女は絶叫と共に大きく飛び退いた。

 そしてそのままベランダへ飛び出し、手すりに飛び乗ると夜の闇にダイブした。

「待てよ……咲……」

 颯はその場にくずおれた。
 最期に目に映ったのは、ガラスの失われた窓の外に煌々と浮かぶ大きな満月だった。


次話↓

マガジン


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: