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短編「闇溶け」

この小説は4,457文字です。

 真夜中の道路。薄汚れたガードレールが通り過ぎる車のライトに浮かび上がる。しかし、その歩道を走る一台の自転車の存在に目を留める者はない。ライトを消した自転車と黒づくめの女の姿は闇に紛れている。
 国道と並走しているこの道は抜け道として使われることも多く、深夜といえども交通量は少なくない。長距離トラックの風に煽られ、自転車のハンドルが取られそうになるのを千佳ちかは慌てて体勢を立て直した。

 ばかみたい。

 呟きは風に流され、闇に埋もれる。

 これから消えようとする者が怪我をしまいとこの身を守ろうとするなんて。消え去ることが目的ならば、このまま車道に飛び出せばよいだけのこと。しかしこの期に及んで他人に迷惑をかけることは躊躇われた。消えてしまえばそんなことはわかるはずもないのに。

 ばかみたい。

 トンネルに入ると車の騒音で自分の声さえ耳に届かない。緩やかな上り坂に息が上がる。

 照明が一つおきに消灯されているのは夜間だからだ。昼間の半分の明るさでいいということらしい。それを教えてくれたのは悠真ゆうまだった。
 口をニッと大きく横に開く悠真の笑顔が浮かぶ。そしてその笑みの向けられた先に気の強そうな凛々しい莉奈りなの笑顔まで浮かんでしまう。ずっと親友だと思っていたのに。悠真と引き合わせてくれたのだって莉奈だったのに。

 去年の夏、花火やりたいねー、と言い出したのは莉奈だった。

 でも最近は公園とかでやったらいけないんだよねー。
 砂浜だったら平気かなぁ。
 でも夜に海に行くってちょっと面倒だよね。
 じゃあさ、車で行こうよ。
 莉奈も私も免許持ってないじゃん。
 便利なのがいるんだよ、幼馴染なんだけどさ。

 そう言って悠真に車を出させたのだった。

 ――幼馴染を足に使うってどうなのよ。

 夜の海へと向かう車の後部座席で不安がる千佳に莉奈はいいのいいのと笑った。

 ――こいつは弟みたいなもんだから。
 ――年下なの?
 ――違うよ。

 という返事が運転席から返ってきた。

 ――同い年。

 千佳の勤め先の会社は小さくて、同期入社の男性社員はひとりもいない。そんな千佳にとって同世代の男性は新鮮だった。きっかけはそんな単純なもの。
 だけど別の場所で別の人と出会っていたらその男性のことが心に残ったかといえばそうではないだろう。たぶん千佳は他の男性とも出会っている。ただ見過ごしているだけだ。ほかの男性との出会いは見過ごせて、悠真との出会いは見過ごせなかった、ただそれだけの違い。

 信号が変わったのだろう。車が途絶えた。
 荒々しい息遣いが反響し、胸の奥がキンッと冷える。誰もいるはずもない。千佳自身のものだ。

 トンネルは風音と車の走行音が混ざり合い、巨大な生物の体内のようにウォンウォンと低く唸り声を上げている。
 正面で半円の闇が千佳を誘う。後方から地響きのように車列が押し寄せてくる。音の圧に背を押されるようにして千佳は夜の闇へと吐き出された。
 まとわりついていた音が闇に散る。森を切り裂いて走る道路は頼りなげな街灯だけが浮かび上がっている。車の走行音もトンネルの外では拡散して弱々しい。

 夜は草木の時間だ。緑は湿度を上げて青い匂いを振り撒き、木々の葉擦れの音は力強く響く。

 道が下りに差し掛かる。幅二メートルほどの脇道にハンドルを切った。タイヤからハンドルへと伝わる地面の感触が固く滑らかなものから柔らかく凹凸のあるものへと変わる。ペダルが重くなる。千佳は自転車を降り、森を見つめる。

 車道からわずか数メートル森に近づいただけなのに、ここにはヒトのたてる音はなにひとつなかった。街灯はもちろんのこと、月も星もない。文明よりも古くから息づく森の咆哮。

 千佳はしばし闇夜と森の音に包まれてその場に立ち尽くす。やがて目が慣れてくると月明かりのない森の入口でもぼんやりと認識することができるようになった。
 慎重に歩を進める。丸太をかたどった看板が立つ。ハイキングコースを紹介する地図だ。千佳はそれを眺めてみるが、闇に慣れ始めた目でも薄れかけた地図は見ることが叶わなかった。もし見られたとしても役に立つとは思えない。千佳が行こうとしているのは地図に載らない場所なのだから。

 ――『闇溶け』って知ってる? 

 そんな話をしたのはやはり莉奈だった。

 ――え? なに? やみどけ? 
 ――うん、そう、闇に溶けるって書くの。
 ――なにが溶けるの?
 ――なんでも。
 ――なんでも?
 ――そう、なんでも。
 ――なにそれ、怪談話? 
 ――そうね、その類。

 なんでも溶ける闇があるという。大学進学のために県外から来た千佳は知らなかったが、地元では有名な話らしかった。

 公共のハイキングコースのある森は地元小学校が遠足に来るような場所だ。その森が夜になると全く別の様相を現すという。えてして自然などそのようなものだろう。千佳は話半分に聞きながらも少々大袈裟に怖がって見せたりして、莉奈を満足させたものだった。

 しかし、その怪談話とは無関係な会話の中で、悠真や莉奈の同級生や先輩後輩がずいぶんと行方知れずになっていることを知った。中には明らかに森へ入ったところまでわかっている人物もいるのだが、いまだ消息不明だという。踏みならした枯葉に残る靴跡がふいに途絶えていたのだという。警察によると事件性は低いらしい。血痕も死体も見つかっていない。そのことは家族や知人に生存の可能性を夢見させるよりも『闇溶け』という現象を意識させるものだった。

 案内図の看板を通り越し、夜の森へと足を踏み入れる。空が閉ざされ、もとより明かりなどなかったはずなのに一層闇が深まった。
 爪先で地面が続いていることを確かめながらじわりじわりと進んでいく。森の中は風も通らない。虫の音も葉擦れの音もない闇の中を進んでいく。どこまで行けば溶けるのだろうか。帰ってきた者がない以上、それを知るすべはない。

 先週の金曜日、仕事帰りに千佳と莉奈はワインバーで楽しい時間を過ごし、飲み過ぎて睡魔に襲われた莉奈は、一人暮らしをする千佳のマンションに泊まっていった。実家暮らしの莉奈は、千佳の住むところより乗り換えも多くて不便だったからだ。
 こういうことは何度もある。千佳も慣れた仕草で莉奈の寝床を用意し、自分も床に着いた。

 千佳が翌朝目覚めると既に莉奈の姿はなかった。買い物の約束をしているので始発で帰る旨がお礼の言葉と共にメモに残されていた。千佳を早朝に起こすのを躊躇ったのだろう。物音を潜ませて素早く出ていったに違いない。
 莉奈が使っていた枕の横に彼女のスマートフォンが残されていた。約束があるというのに連絡ツールがないのは困るだろう。忘れていることを知らせたいが、肝心の頼みの綱はここに残されている。
 千佳は急いで身支度を始めた。
 直接届けよう。実家暮らしの莉奈と同じく実家暮らしの悠真の家は近い。この週末は悠真とデートの約束はしていないが、行けば断られることもないだろう。
 どちらがついでの用事かわからないが、とにかく行ってしまうことにした。

 それが間違いだったのだ。いや、むしろ正解だったのか。

 莉奈の約束相手との待ち合わせにスマートフォンなど必要なかった。
 千佳が見かけた莉奈の隣には悠真がいた。二人は互いに笑い声を上げながら駅へと向かう。千佳は近くにあったコンビニに入って二人を一度やり過ごした後、その背を追った。
 こっそり追う必要などなかったのかもしれない。忘れ物を届けに来たと声をかければ、そのまま三人で出かけることになったのかもしれない。けれどもそれは真相を闇に葬るだけのこと。知ってよかったのだと千佳は自分に言い聞かせる。

 途中、我ながら陰湿な行動に嫌悪感を抱いたりもした。しかしやめられなかった。
 幼馴染同士で出掛けても不思議ではないのかもしれない。だが、と千佳は思う。それならば私に告げない理由があるだろうか、と。莉奈は約束があるとまで言いながら、相手の名を明かさなかった。そこに特別な理由があるとするのは考え過ぎだろうか。

 二人はジュエリーショップに入っていく。いくつかのネックレスをショーケースから出してもらっては莉奈の細い首にかけられる。鏡に向かう莉奈とそれを笑顔で覗き込む悠真。そこに特別な理由があるとするのは考え過ぎだろうか。

 千佳はお店の入口付近に立つ店員に、あの女性が落としたようなんです、とスマートフォンを預けると、二人に背を向けた。

 これは当て付けだ。

 莉奈から聞いた話で姿を消す。部屋には一言記したメモを置いてきた。『闇溶け』とただ一言。
 わかりやすく姿を消してなどやるものか。失われた命だと思えばいつかは前に進むのだろう。進ませてなどやるものか。消えた諦めと同等の帰る望み。残された人々の心には相反する思いが渦巻いているという。

 千佳は爪先で地面が続いていることを確かめながらじわりじわりと進んでいく。転落事故などで肉体を残すわけにはいかない。

 短い電子音が鳴り、千佳はびくりと立ち止まる。習慣でスマートフォンを持参していたらしい。『闇溶け』などという不可解な現象に身を委ねようとしているというのに、俗世はまだ千佳を手放す気はないようだ。
 ディスプレイに表示されたのはいつ登録したのかも忘れたショップの自動送信メール。バースデー特典のお知らせ。ふっと苦笑する。途端に気が削がれた。

 踵を返す。

 そうだ、誕生日だった。怒りと哀しみですっかり頭から抜け落ちていた。
 千佳の頬が緩む。悠真と莉奈は千佳のためにサプライズプレゼントを買いに行っていたのだ。そう考える方が、二人が自分を裏切ることよりもずっと現実味を帯びている。親友と恋人を疑うなんて。千佳は自分の心の闇に呆れ、怯え、嫌悪した。

 千佳は爪先で地面が続いていることを確かめながらじわりじわりと進んでいく。闇に溶けることをやめた瞬間から、森は千佳を異物と認識したように感じられる。
 急激に恐怖が千佳を襲う。闇が迫りくる。押し迫ってくる。木々がざわめき、空気が揺れる。

 千佳は爪先で地面が続いていることを確かめながらじわりじわりと進んでいく。爪先で――地面は感じられなかった。

 踏み外したかと思いきや、落下するわけでもない。手にしたままだったスマートフォンが草叢に落ちる音がする。手を開いただろうか。見下ろしても手も足も闇に沈んで瞳に映らない。瞼を開けているのか閉じているのかすら定かではない。手の指は動いているのかいないのか。足は地に着いているのかいないのか。

 ぶわりと生温い風が吹く。

 生温い? どこで感じたのだ。頬か腕か。その感覚は本物か。錯覚ではないのか。
 音はしたか。耳に手を当てる。感じない。
 手は動いたのか。
 耳はそこにあるのか。
 肉体はここにあるのか。

 朝日が森に木漏れ日を落とす。散策路にポツンとスマートフォンが落ちていた。

 闇に溶ける現象を『闇溶け』という。

 帰ってきた者はまだいない。