短編「パラレル」
「うへぇ。あっつー。夜なのにちっとも涼しくならないなんて、都会の夏はどうかしてるよ」
沙奈はドアを開けるなり文句を垂れながら、バスルームへと向かった。
「おい、風呂入るなら着替えを持っていけって」
「もお。うるさいなあ。少しでも早くシャワー浴びたいんだよ」
「湯上りにバスタオル一枚でうろうろされるこっちの身にもなれよ」
「なあに、お兄ちゃんたら、妹の湯上り姿にドキドキしちゃうわけ?」
「ちげーよ。いつまでも子供気分のおまえのことを心配してだな……」
「ああ、はいはい、わかりましたよ。あたしもいつまでも彼女ができないお兄ちゃんのことを心配して言ってあげるけど、細かい男はモテないよ」
「うるせえ! さっさと風呂に行け!」
笑い声を残してバスルームに消えた沙奈の荷物が廊下に点々と散らばっている。
この部屋は、玄関からリビングまでは短いながら廊下がある。
築年数がいっているとはいえ、大学生のおれがバス、トイレ別の2DKマンションに暮らせているのは沙奈と同居しているからだ。
予備校に通う浪人生の妹と同居することを条件に、仕送りの額を増やすと言われたら頷くしかなかった。
おれは沙奈と違って人と接するのが苦手だ。必然的にできるアルバイトも限られてくる。妹の監視役を務めるだけで実家からの仕送りが増えるのは下手なアルバイトをするより効率的だと思ったのだが。
「あー!」
烏の行水と言ったら烏に失礼なほどの早さで風呂から上がった沙奈が、バスタオルを巻いただけの姿でリビングに駆け込んできた。
「おまっ、着替えを持って行ったんじゃないのかよ」
「持って行ったよ。まだ着てないだけだよ。それよりあたしの荷物は?」
「知らん。廊下に落ちてたぞ」
「えー。なんで片付けてくれないのよ」
「なんでおれが片付けるんだよ」
「アイス溶けちゃったじゃん……」
ドロドロになったカップアイスを立ったまま食っている。もう一度凍らせてから食えばいいんじゃないかと思ったが、黙っておいた。
「そうそう、お兄ちゃんから頼まれたやつ、受け取ってきたよ」
アイスを食べながら器用につま先で紙袋を摘まみ上げた。受け取った紙袋には、通い慣れたカフェのロゴが印刷されている。
そこのテナントは入れ替わりが激しく、おれが知っているだけでも三店目だ。居抜き物件なのか、すべてカフェだった。
その中でも今回の店は特に気に入っていた。おれは毎日のように立ち寄っては一時間ほどコーヒーを飲みながら読書をするのが楽しみだった。
そんなふうにのんびり過ごせるのも、その店がいつもすいているからなのだが、客にとってはいいことでも店にとっていいはずはない。ついに今日で閉店なった。
来店頻度からすれば常連といってもいい客だったと思うが、おれは極度の排他的なにかを放出しているらしく、注文や会計に関する以外の会話をしたことはない。おれにしても空間が気に入っていただけで、けしてあの穏やかな夫婦と親しく言葉を交わす夢を見たことなどない。
そうとも。けして、ない。
ただ最後にひとこと店に対する誉め言葉でも残そうと意気込んでいたが、ごちそうさまの一言も告げられずに店を後にしたのだった。
そんないつもと異なる緊張を秘めていたせいか、コーヒーを飲みながら開いていた本を店に忘れてきてしまった。今日で閉店ということは、次回来店の際に受け取るということもできない。自分の本なら諦めもしただろう。しかし、それは図書館から借りた本だった。
帰宅し、本を忘れたことに気づいたのは、カフェの閉店時間三十分前だった。すぐに向かっても閉店時間には間に合わない。
どうしたものかと思っているところへ、沙奈から帰宅中とのメッセージが届いた。これ幸いと、沙奈にカフェに立ち寄って本を回収してくれるよう頼んだってわけだ。
文句を言いながらも引き受けてくれる沙奈に実のところかなり感謝している。おれが母親の腹の中に置いてきた社交性ってものを残り余さず持って生まれたとしか思えない。
「なんか、二冊渡されたけど?」
沙奈がアイスのカップをゴミ箱に捨てながら責めるように言った。
忘れた本は一冊だけだ。だから沙奈にもそう言ったのだが、紙袋の中には確かに二冊入っている。図書館のラベルが貼られた本と、見覚えのない本がある。
「こっちの、おれのじゃないよ」
「えー。だって、同じ席にあったって言ってたよ。窓際の角でしょ?」
「たしかにそこの席なんだけど」
同じ席に座った誰かもおれと同じように忘れ物をしたということなのだろうか。その席には忘れ物をするような仕掛けでもあるのだろうか。そんなばかげた考えが浮かぶ。
持ち主どころか店に返す手段さえない。どうしたものかと思いながら、ぱらりとページを繰る。すると、活字ではなく手書きの文字が目に飛び込んできて、慌てて閉じた。不思議そうに首を傾ける沙奈に小声で告げる。
「これ、本じゃないぞ。日記帳だ」
「えっ。日記帳? やだ、どうすんのよ」
「どうするって、おまえが持って帰ってきたんだろうが」
「あたしはお兄ちゃんの忘れ物を取りに行っただけだよ。ちゃんと窓際の席に本を忘れましたって言ったもん。そしたら二冊渡されたんだよ。これですね、って」
おれたちは顔を見合わせて同時に呟いた。
「……どうしよ」
センスのいいノートだった。使い込まれた魔法書のような皮製のノートカバーがかけられている。
「なあに、また眺めているの? そんな誰のだかわからない日記帳なんて捨てちゃいなよ」
沙奈はテーブルの向かい側の椅子を引き、カップアイスをスプーンでぐりぐりとかき混ぜ始めた。
「ひとの日記帳を勝手に捨てるわけにはいかないだろ」
「そんなこと言ったって、返すあてなんかないじゃん。あのカフェだってもう内装工事が始まってるよ」
「だよなあ。なんとか持ち主に返せればいいんだけど」
「中身を読んでみれば? なにか身元がわかるようなことが書かれているかもよ」
「読めるわけないだろ。身元がわかるようなことが書かれていたらなおさらだ」
「かたっ苦しいね」
「誠実と言え」
本の方は無事図書館に返却した。手元には誰の物とも知れない日記帳だけが残った。
あの日、もし本を回収しなくてもあのカフェの夫婦なら図書館に届けてくれたようにも思う。そうしたら、この日記帳はどうなっていたのだろう。中を読んで持ち主を特定したのか、それとも読まずに保管し続けるのか。読んだところで持ち主にたどり着けなかったとしたらどうするのだろう。
そんなことをつらつらと考えていたら、沙奈が食べかけのアイスを差し出してきた。
「食べる?」
「いらねえよ、そんなぐちゃぐちゃなアイス」
「ひっど。じっと見てるから欲しいのかな、って思っただけじゃない」
「見てねえよ」
「見てたよ。……あ、またひとの顔をスクリーン代わりにして考え事していたんでしょ。そんなに気になるなら、その日記帳を持ってカフェだったところに立っていれば? 持ち主も回収する手段を求めてその辺をフラフラしているかもよ?」
「それ、いいな!」
「え。まじで? ちょっときもいんだけど」
「いや、それ、いいアイデアだよ。うん、きっと持ち主は日記帳の行方が気になってカフェの様子を見に来ているはずだ」
「えー。来るかなあ? だって、もう工事してて、前のオーナーとかいないんだよ?」
沙奈は思いつきを口にしただけだったようだが、おれには可能性のあることに思えた。
沙奈のような人間なら人のつてで探し物にたどり着くかもしれない。けれどもおれだったら、どうすることもできず、でもそわそわして、なんの解決にもならないとわかっていても最後に目にした場所で探し物の気配を感じようとするだろう。
店の前に行ったからといって、持ち主に会えるという確証はない。だけど、なにもしないでいることもできなかった。おれは一日に一度は日記帳を持ってカフェの跡地付近に佇むようになった。
万年筆で丁寧に綴られた文字を眺めていると、少し寂し気な表情の女性の姿が脳裏に浮かび上がってくる。そう、おれは、日記帳を開いていた。
ここ一週間、カフェの跡地に行ってもそれらしい人物には会えず、そんなおれを見かねた沙奈が日記帳を開いたのが三十分ほど前のことだ。プライバシーの尊重を訴えるおれの声を無視して、沙奈は日記を読み始めた。
読み始めるなり「えっ」と声をあげたかと思うと、その後は何度かカレンダーで日付を確認しながら読み進めていた。明らかになにか気になることがある読み方だ。そんな沙奈の様子を見てもなお興味を抑えられるほどおれは理性的ではない。沙奈が読んでしまったのなら、もう一人くらい読んだって同じなんじゃないかとさえ思い始めていた。
数ページ読んだところで、沙奈は顔をあげた。そして、ゆっくりと視線をおれに向けた。
そうして無言で差し出された日記帳を、おれは躊躇うどころか、待っていましたとばかりに読み始めてしまったわけだ。
最初のページはカフェの閉店日だった。『今日でカフェが閉店した』とも書いてある。
これはあの日のことだ。そう思った。ならば、この持ち主は、カフェで書いた日記をそのまま置き忘れたということなのだろうか。
沙奈を見ると、珍しく深刻そうな顔をして深く頷いた。おれは頷き返し、続きを読む。
思っていた通り、日記の彼女は、閉店以降もカフェの跡地へ行っていて、内装工事が行われているのを眺めていた。
おれと彼女が会えなかったのは、その場に滞在した時間帯が違ったのか、おれが持っている日記帳が彼女の目に入らなかったのかのどちらかだろう。いずれにしても惜しい。
明日こそはと思うが、日記によればもうあそこへ行くのはやめることにしたらしい。おれがもっと早く日記を読んでいれば会えたかもしれないのに。
そこまで考えて、ふと思考が立ち止まる。
待てよ? なぜ、日記帳をなくした後の日記が書かれているんだ?
――なんか妙だ。
「なんか、変でしょ?」
おれの代わりに沙奈が声を出した。
「ああ、変だな。これでは未来のことを予言して書いていたことになる」
「それもそうなんだけど、微妙に違くない?」
「違う? なにが?」
「なにって、この人、カフェの店員だったって言っているのよ? あのお店は夫婦二人だけでやっているって、お兄ちゃん言っていたよね?」
たしかにその通りだ。あのカフェの店員は五十代の夫婦だけだった。こじんまりとしたカフェで、キッチンまで見えるような間取りだったが、あの夫婦以外の姿を見たことがない。なのにこの日記によれば、あの女性の姪が店員として働いていたことになる。
――これはいったい、どういうことだ?
いないはずの人間。書けるはずのない未来の出来事。これらの意味するものはなんだ?
おれは再び日記帳に目を落とすと、明日の日付のページを読み始めた。
「もしもこれが予言書だったとして」
沙奈がおかしなことを言いだした。
「は? 予言書? なにわけのわかんないこと言ってるの?」
「だから、もしも、って言ってるじゃん。それにさ、予言じゃなかったらなんなのよ。おかしいでしょ、すでに書かれていることが現実と重なるなんて」
ああ、そうだった。こいつは占いとかスピリチュアルなんたらとか神秘のほにゃららとか、その手の類にすぐ飛びつくんだった。小学生、いや、幼稚園のころからなんにも変わっていない。
「まだまだ子供だなあ」
「む。そうやって鼻で笑うのって感じ悪いよ」
「おまえにしかしないから平気だよ」
「鼻で笑うどころかこんなふうに話せる相手もいないくせに……あ。ごめん」
沙奈は重大な失言を犯したかのように深い反省の色を見せている。
「うるせえよ、ばーか」
ばーか、ばーかと繰り返しているうちに、沙奈はようやく表情をやわらげ「お兄ちゃん、ひっど」といつもの口調になった。
友達の多い沙奈からしてみれば、好んでひとりでいることなど理解できないのだろう。ひとりぼっちは本意ではないと思っているに違いない。
妹でさえこれだ。他人になんて理解されるはずがない。
だからあのカフェは居心地がよかった。関わりのない人たちに紛れてひとりでいるのが落ち着く。
同じだ、と思った。おれは、日記の彼女と同じだ。祭りの雑踏にひとりきりでまぎれて安堵する気持ちに寄り添っている気がした。
なんの気なしに日記に目を落とし、はたと気づいた。
「おい、沙奈。神社の祭りって、いつだ?」
「えっと、たしか九月十一日って貼り紙があったような……って、明日じゃん! この日記、やっぱり」
沙奈は自分で言っておきながら怯えた顔をした。おれも今度は笑えなかった。細い痺れが背筋を這い上がり、首筋を越えると頭皮に鳥肌が広がった。
「……行ってみるか」
「行くって、お兄ちゃんが? お祭りに?」
「ああ。おまえの言うようにこれが予言で書かれた日記だったなら、明日、彼女は現れるはずだ」
「それはそうだけど……」
「なんだよ。おまえが予言書だなんて言い出したんだろ」
「……わかった。あたしも、行く」
「行くって、おまえ、予備校は」
「大丈夫。夜の縁日までには帰ってくるよ」
祭り当日は、昼間のうちからお囃子が響き、神輿や山車が町内を練り歩いていた。日記に書かれている通りツクツクホウシの声も聞こえるが、すぐに祭囃子にかき消された。街の音は、日暮れになると縁日に向かう子供たちのはしゃぎ声に代わっていく。
予備校帰りの沙奈と落ち合い、神社へ向かう。まだ薄明かりの残る空を蝙蝠の小さな影が舞っている。
それほど大きくない神社だ。この地域の氏神様だが、かつては境内や参道であったと思われる場所にも民家が建っている。その民家の前の路地もかつてのように参道として扱われ、出店が並んでいる。
「すごい人出だな」
思わず弱音のような感想が漏れる。人数はたいしたことがないのかもしれないが、いかんせん、人口密度が高い。
「ラムネを売っているお店を探そう」
沙奈はおれの感想など耳に入っていないかのように、ぐいぐい人波に分け入る。
日記によれば、彼女はラムネを買って飲みながら歩くはずだ。出店をひと通り眺めたが、ラムネを置いている店は、駐車場脇に店を構える一店だけだった。
おれたちは、駐車場の車止めブロックに腰かけた。おれの金で沙奈が次々と買ってくるたこ焼きやらイカ焼きやらじゃがバターやらを頬張りながら、張り込み中の刑事みたいに視線だけはラムネ屋に向けていた。
「家族連れだけでなく、友達や恋人と来ている人も多いな」
見たままを口にしたおれを沙奈が笑った。
「それ、日記の文章そのままじゃん」
「そうだったかな」
「そうだったよ」
おれは汗ばんだ手のひらをTシャツにこすりつけ、日記帳を持ち直した。縁日で皮の表紙の日記帳なんて抱えているのは明らかに不自然なはずなのに、誰一人としておれに目を留める人などいない。ひとりでいる時よりずっとひとりきりだ。
「ひとりで来ている人なんていないね……」沙奈が伸びをしながら言う。「だからこそ、日記の人が来たらすぐにわかると思うんだけどなあ」
夜になっても蒸し暑いせいか、ラムネの売れ行きががいい。
「ラムネ、売れちゃうね……あれ? お兄ちゃん、どこ行くの?」
沙奈の問いかけには答えずに、おれは最後に残った二本のラムネを買った。これでもう誰もラムネを買いに現れることはなくなった。
一本を沙奈に渡して、自分の瓶をクイッとあおった。記憶の中の味より甘かった。瓶の中のビー玉がカツンと小さな音を立てる。
「ラムネってこんなに甘かったっけ?」
「……それも、日記に書いてあったね」
おれたちが空き瓶を返却すると、店主は店じまいを進めていた。ほかの出店も片付け始めている。いつしか人が減っていた。彼女には会えないまま、祭りは終わった。
やはり予言書だなんて、未来を描いた日記だなんて、そんなことがあるわけないんだ。
もう日記帳のことなんか忘れよう。そう思いつつもすっきりしない気分を抱えていたある日、またしても我が妹がおかしなことを言いだした。
「パラレルワールドなんじゃないかな?」
「は? おまえ、それ、本気で言ってるの?」
「うん。あたしたちは大事なことを忘れていたんだよ。微妙に違うっていうのは最初からわかっていたじゃん。あのカフェは夫婦二人だけでやっていたはずなのに、日記の人はそこで働いていたって。だから、お祭りもさ、同じ場所だけど同じ場所じゃないんだよ」
「そこなんだよなあ。仮にさ、まあ、あり得ないと思うけど、仮にな、パラレルワールドだったとするだろ? その場合、もう一つの世界から日記帳だけこっちに来るってどういう状況なんだろうな?」
「うーん。一瞬だけ繋がったとか、そんな感じ?」
「なんだよ、その雑な設定」
ふたり揃って日記帳を見つめた。日記帳は常にテーブルに置いてある。まるで人格を持ってそこにいるようで、我が家にやってきてからは三人目の住人扱いだ。
日記の彼女が持っている感覚はおれのそれと重なる部分が多く、面識がないとは思えないほど近しい関係に思えた。日記帳を持ち主の手に返さなければという義務感は、いつしかただ会ってみたいという興味へと変わっていた。
沙奈が無言で日記帳を滑らせてきた。読め、ということだろう。こんなプライバシーの塊のようなものを勝手に読んでいいはずがないという理性は、彼女への興味を前にして容易く崩れた。
日記帳を開く。細い万年筆で丁寧に綴られた文字を追う。まだ見ぬ彼女の姿を追う。
「これって……」
背後からの声に振り向くと、肩越しに沙奈が覗き込んでいた。
「おまえ、いつからそこに」
「そんなことより、これって、お兄ちゃんのことだよね?」
「そう……だろうな」
市立図書館での席もカフェでの席も、窓際の角はおれの定位置だった。
「でもって、この日付って」
「ああ。すべて一年前の日付だ」
オープンした新しいカフェは『昭和の喫茶店のようなレトロな雰囲気』とある。これは先日閉店したカフェのことで間違いないだろう。つまり、日記の冒頭にあった『今日でカフェが閉店した』というのは、その前の店のことだ。日記の彼女がカフェの店員だったのは前のカフェなのだ。なぜ気づかなかったのだろう。あそこのテナントは入れ替わりが激しいと知っていたはずなのに。
「そっか」沙奈が上体を起こし、情報を整理するようにゆっくり口を開いた。「一年前の日記なら、九月以降の書き込みがあるのはちっともおかしくないもんね。あたしたちが勝手に未来だと思っていただけで、実際は一年前のその日に起こったことが書かれていたってことか」
「本来、日記なんてものは他人に見せるものではないし、たぶん自分でも読み返す前提ではいないだろう。年を書かずに月日だけでも不思議はないな」
「じゃあ、予言でもパラレルワールドでもなかったってこと?」
「だな」
「うわあ。がっかりだあ」
「そう簡単にドラマチックなことなんて起こらないさ。それが現実だ」
「でも」沙奈は素早くおれの正面に回って、にやりと笑った。「別のドラマは起こっているみたいじゃん?」
沙奈は開かれたままのページを指先でトントンと叩いた。指の先には『ますます彼に興味が湧いてきた』の一文。見てはいけないものを見た気がして視線を外したおれのことを沙奈が笑う。
「お兄ちゃんも彼女に興味が湧いてきたんじゃないのお? ……ではでは。日記の続きはおひとりでどうぞ」
改めて日記帳をおれの近くに押しやってから、沙奈はにやにや笑いを残して自室へと引っ込んだ。
おれは、見ず知らずの女性のプライバシーを覗き見ている罪悪感に気づかぬふりをして、日記の続きを読み始めた。ほかにも自分のことが書いていないかと期待して。彼女に繋がる情報が書いていないかと期待して。
歩道に広がるプラタナスの枯葉をサクサクと踏んでいると冬が近いことを実感する。早いものでもう11月だ。こんな日は窓際の席でうまいコーヒーでも飲むに限る。目当てのカフェへと急いでいると、電話がかかってきた。
『なあ、今日みんなで飲みに行かね? おまえ、今どこ?』
「ああ、ごめん。今日はパス。ちょっと用事あって、もう家の近くなんだ」
『なんだ、そりゃ残念』
「また誘ってよ」
『おっけー。またな』
通話終了のボタンを押し、数か月前からは考えられないな、と自嘲する。自分の中でどこかのスイッチが切り替わったらしく、人と接する度にスイッチを入れなくても自動で切り替わるようになっていた。しかも負担が感じられない。相変わらずひとりでいるのが一番楽なことには変わりないが、誰かと過ごすことを億劫に感じなくなってきた。
なにがどういう影響を及ぼしたのかはわからない。ただ、あの日記を読んでから変わったことは確かだ。他人の存在で自分の中のなにかが変化するのは、なんとも新鮮な感覚だった。そして、それは案外悪くない。
オープン初日だというのに、カフェはすいていた。おいおい、大丈夫かよ、と少し不安になる。ここのテナントの入れ替わりが早いのは立地に問題があるのかもしれない。今度の店はできるだけ長く続いてほしいものだ。
おれはドアを開ける。来客の気配に店の奥から声がする。
「いらっしゃいませ! お好きな席へどうぞー」
おれは窓際の角の席に腰を下ろし、テーブルに一冊のノートを置いた。使い込まれた魔法書のような皮製のノートカバーがかけられている。
背後から店員が水を持ってくる。グラスを持った手が、テーブルに辿り着く前に止まった。
「これ、わたしの……」
おれは顔を見上げる。彼女の驚いた顔があった。当然おれの中に湧き上がるだろうと予想していた緊張も恐怖もなかった。口が自然に動く。
「あなたの日記帳をお預かりしていました」
しばしの静止の後、すべてに気づいたらしい彼女の頬が真っ赤に染まった。