フィールドノート④/1995.4.4.
部屋入り(註1)。部屋まわり(註2)について。
説明していたのはSくん(新入寮生歓迎実行委員会)で、司会が、忘れた、2年目の男の子(※欄外に「Kくん」と追記)。書記が途中までNさん、途中からKくんに交替。
発言していたのは主に、SくんとKくんとSくんと司会の子あたりの2年目、Mさんもちょっとした。
うちの部屋の方向は、なごやかに楽しく、という感じで、お酒についても、普通のコンパと同様に、という感じだった。
面接(註3)があったので、20分くらいで退出した。
面接。
共用棟の階段を上がって、2Fの____(註4)で行った。ドアの前に和太鼓があって、ドアに「太鼓を1度鳴らして、入りますと言え」との貼り紙(※欄外記:「面接心得」「入室心得」?どっちかだった筈)が貼ってある(※欄外記:叩くものがなくてしょうがないから手で叩いた)。1回目は「声が小さい」と言われ、2回目に「入れ」と許可。入ると部屋は真っ暗で、部屋の一方に入銓委員(入寮銓衡委員)の座っている椅子が3つ、向かい合って面接者の座る椅子が1つ、その間にろうそくが3本灯されている。
まず、茶碗(※欄外記:学食の豚汁用の椀だった)を渡されて、焼酎を底の方に少し注がれて、自己紹介をさせられる。注がれる時は、大丈夫かどうか(アレルギー等)尋ねられた。その後、「何かひとつ芸をしてください」と言われ、すると、にこりともせずに拍手する。その後、椅子にかけるよう言われ、いくつか質問が始まる。
質問を受けた項目:10、17、18、21、23、24(※面接調書の質問項目はこちら https://note.mu/toko_kikuchi/n/n2967dfc0e80c?magazine_key=me3843a2ea863)
その他に、恵迪に入る前3年間北大生として恵迪を見て、どう思ったか。
最後に、何か質問や疑問などがないか聞かれた。
その後で、寮が自治会制であること、自治会は何かめんどい色々負担をかけてくるもののように思われたりするけどそうではなくて、寮生が快適に暮らしていくために活動するものであること、例えば、、、といくつか例を挙げて、それが面白かったんだけど忘れてしまった(※欄外記:例のひとつ:自治会が寮を運営しているおかげで、居室を柔軟に運用できる、とか……。ほう、そういう言い方をするのか、と思って面白かった)。とにかく、そういうことを説明された。気を使っているなあ、と感じた。決して威圧ではない、とても丁寧に、いいものなんだ、という面を何とかして伝えたい、という感じ?それは霜星のやり方なんかにも通じるのではないか。
その後、自治会に加入することで異議がないかどうか聞かれた。もしあったらどうなるんですか、と質問したら、ちょっと困ったみたいだった。結局形式上加入することにはなるんだけど、自治会の活動、寮の活動に関わらずに生活していくことになるのでは、というような答えだった。以前、そういう人が一人いたということだ。その人は、俺のわがままだからね、と言って、他の寮生たちと一緒に、自治会に関わらずに生活していたということだ。
最後に、自治会への入会届をもらって、これで面接を終わりますと言われて、部屋を出て、終わり。
終わって勉強部屋に来てから、Kくん(※2年目の男の子)と少し話をしたんだけど、にこりともしない、真面目に厳粛にやるのは、そういうものなんだって。入銓委員も苦しいらしい、笑わないでやるのは。特に、笑える芸の時は。Kくんは、項目のいろいろについて「何でそう考えるのよ?」とか、おどすような調子で聞かれたらしいけど、わたしの時はみんな、丁寧語を使っていた。
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(註1)執行委員会やその他の委員会の基本方針などを話し合う時、原案をまず「部屋会議」で部屋ごとに話し合う。その際、当該委員会のメンバーが各部屋に入って話し合いに立ち合い、説明や意見収集を行う。そのことを「部屋入り」と呼ぶ。
(註2)「部屋まわり」は、一晩かけて新入寮生が寮の各部屋をまわり、在寮生に自分をお披露目するための新歓行事。その年その年で入銓委員会が方針を立て、計画するが、寮方式のあいさつや芸の披露、盃を干すなど、継承された決まったスタイルがある。この年は、初めての女子寮生を交えての部屋まわりだったので、飲酒含め、より慎重に検討されたものだと思われる。
(註3)「面接」は入銓委員会が行なう一種の新入寮生の「通過儀礼」。面接の詳細については、この日および翌日4月5日に記述が残っている。こちらも参照のこと。https://note.mu/toko_kikuchi/n/n2967dfc0e80c?magazine_key=me3843a2ea863
(註4)この時はどこの部屋なのか分からなかった。恵迪寮共用棟の平面図で確認すると「共同談話室」のようだ。ただし共用棟の部屋はそれぞれ、建築当初想定されて名付けられた部屋の用途とは、まったく違う使われ方をしている。
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【リアルタイムのこぼれ話】
先日、現役北大生の女の子から、とあるお問い合わせを頂きました。わたしがちょうど恵迪寮に在籍していた頃に北大で起こったある出来事について調べているということだったのですが、残念ながらわたしはそれに直接関わってはいなかったので、知っていそうな人を何人か思い出して、そちらをご案内しました。
その際にある先輩を思い出したのですけれど、彼は上記フィールドノート記載時にわたしが所属していた部屋の次の部屋、まさに研究の一番渦中にあった時の部屋(マガジンヘッダーの白黒写真がその部屋ですね。彼も写真の中にはいますが、見切れてしまっているな)でご一緒した方で、多分その出来事もご存知だと思うんですよね。北大のあと京大の大学院に進み、文化人類学の道に入った方で、社会人になってから葉書のやり取りを一、二度したのち、まったくご縁が遠のいてしまっていたのですが、研究者になられている筈だからひょっとして検索してみたら何かヒットするかも……と思ってネットで検索してみたら、恐ろしく簡単にヒットしまして、驚きました。近県の国立大学の准教授になられていて、えっ、ご近所じゃん!ゼミ持ってるじゃん!単著出してるじゃん!みたいな。うわーお!です。
サイトの写真を拝見したところ、あの当時の野性的というかワイルドな大雑把な面影はそのままながら、えっ、めっちゃ渋いおじさんになってるじゃん、ちょっと、格好いいんだけど、えっ、今女子学生だったら惚れてしまうがな……、みたいな感じになってました。すげー。
いくつかの研究テーマをお持ちのようなのですが、その中のひとつに、大学の学寮の場と共同性・公共性の調査を挙げられていて、ちょっと嬉しかったです。実は、わたしのこの卒論のうちの1冊は(複数部コピーして製本したので)、彼の手元にあります。
何ていうんでしょうか、わたしは自分の卒論と研究って、ぽっこりひとつだけ現れてそこで立ち消えたあだ花のような研究だと思っていたんですよね。当時のゼミの院生にも「こういう特殊な研究だと院に進むのも難しい」みたいなことを言われたし、わたしの興味の持ち方としては面白くてそれに人類学の手法を適用したのは間違っていなかったとは思っていたんですけど、文化人類学という学問分野の中では意味を持たない、次にも繋がらない単発の、一発屋的な研究だと思っていたんですよ。
彼は6年間恵迪寮にいらっしゃった方だし、文化人類学の訓練と実績を重ねた研究者だし、さらに大きな文脈の中で、さらに深いところまで、学寮を研究されてこの先も進めていかれるんだろうなと、そう思うと、わたしのこの研究でドヤるのはおこがましいことだしそのつもりではないんですけれど、これ、無駄じゃなかったんだな、「イロモノで申し訳ございません」的な、文化人類学の学生がサブカルっぽいところに手を出すと陥りがちなソレに終わらなかったんだな、と、何だか嬉しい気持ちがしました。
彼のご著書、後で読んでみたいなと思います。そして多分車でも行けちゃうご近所だから、何かチャンスがあったら、ちょっとお会いしてみたい気持ちもします。新年早々、高揚した出来事でした。
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カバーフォトをどうしようかなあ…と思いましたが、わたし、恵迪での写真をあまり持ってないんですよね。写真は、わたしが在学中に在籍していた合唱団の定期演奏会の打ち上げ時の写真です。顔を消していない左端がわたし、当時2年生。
この写真は恵迪寮に入寮した後部屋のメンバーに見つかって、「ひょー!女子大生!」みたいな扱いを受けて、しばらく部屋ノートに貼られていた奴です。皆さまから見ると「別にどこが括弧つきの『女子大生』だ」みたいな感じだと思いますが、まあ、そういう場所だったんだよね。
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