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やさしさは扱いがむずかしい。

とうとう彼氏と別れちゃった。詳細は後で書こうと思っていますが、なんかやたらと気が楽で開放感に溢れているので、もしかすると昨年のGW以降、嫌になって揉めて許してまた盛り上がって落ちて、という繰り返しに、気づかなかったけど疲れていたのかもしれません。

最近割とタイムリーに、このことを考えていた。やさしさや手助け、無償の愛情のこと。無償であるべき、という説のこと。本当に無償なのかな、と。

見返りが裏に隠れてるやさしさにはわたしだってうんざりしちゃうし、自分がやりたくてやった、だからお返しを期待するのは自分のエゴだ、それはする方にとっては全く正しい姿勢なんだけど、受ける方はそう思ってちゃいけないような気がする。もしくは、そう思うなら、そのやさしさはいつストップしてもおかしくないものだという自覚を持っていて欲しい。相手がやりたくてやってるんだから、やりたくなくなったらやめる、その時に、何でもうしてくれないの、酷い!にならないで欲しい。無償のやさしさをお返しなしで享受してたんだから。

わたしは、無償のやさしさを受けてそれが嬉しくて役に立ったのなら、同じく無償のやさしさで返すのが、少なくとも人間らしい振るまいなのじゃないかと、思う。やさしさにやさしさで返せない人からは、わたしは離れる。それを、何で?あんなにやさしかったじゃない!と思って欲しくはない。実利と対価のやり取りではなくて、心と心の与えあいということ。

そして、無償のやさしさを返せない人は無償のやさしさを受けてはいけないんじゃないかな。無償のやさしさを無料のサービス、と勘違いする人は、それを失った時に持ちこたえられない。無料サービス込みで自分のフローを組んでしまうので、フローが成り立たなくなるんです。その意味では、後で一気に有償になる。そちら側から見るとあったものを失う訳だから、相手が突然自分に酷いことをしてきた、と憤ってしまう。

わたしは、こういう人は小さな損を嫌って大きな益を逃すタイプの人なのだなあ、と思う。大抵、得をしようと思って人の心を失う。

わたしは無償のやさしさを注ぐのが多分好きだった。すごく好き。好きな人が多分これをして欲しいだろうな、ということをするのがすごく好き、だからそれは見返りや承認を求めてのことではない、ただ好きでやってること。でも、何もお返しがなくていい訳じゃなかった。やさしさの原資はこちらの心なので。

わたしが酷かったのは、多分無償のやさしさが害となってしまう人に、それと知らずじゃぶじゃぶと与えてしまったことなのだろう。やさしさという扱いがむずかしい存在は、多分どちらにも転びうる劇薬なのだ。愛情という不確かな裏づけしかないものを、いつまでも利用できる無料サービスだと思ってしまう人に不用意にたくさん上げてしまって、本当に酷かったと思う。

使う人も、貰う人も、もっとよく考えて取り扱わなければならない、怖いものだったんだなと思う。

あ、でも一番辛く葛藤した時期はとうに過ぎていて、今はむしろ、ああ、やっぱりどうしようもなかったんだな、という確認をした、という感じなので、心配しないで!(ほぼ1年、わたしサイドてはごたごたしていたので)やっぱりむしろ、すっきりしている。この頃が底値の時期かしらね。

これもあったしね。元夫も、妻を無限の無料の資源だと思ってたタイプなんだよね。滅ぼすんだよなあ、取り扱いを誤ると、と思った。

取り急ぎ、思ったことをちょっとだけ。

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付記。

彼はもしかすると、「最初からサービスは無料期間だけ使う予定」というタイプだったのかなあ、という気もする。無料サービス込みで組んだフローは崩壊する、というのは、わたしの願望なのかもしれない。

でもまあ、彼の過去を振り返ると明らかに喪失と下降を繰り返しているので、人間関係において短期無料サービス利用の繰り返しは、本人が気づかなくても、マイナス収支なんだなあ、と思う。

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