一駅分のおどろき

14分後。

アパートの階段を駆け下りて、公園を横切り200mほど走ったところでハタと立ち止まった。

あれっ? 鍵、かけたっけ?

部屋を出るとき、右手に通勤鞄、左手には今日こそは絶対出さねばと決めていた巨大化したプラゴミの袋を掴んでいた。

いやいや、かけた。それでも、鍵はかけた。
かけ忘れるとかある? だってあんなに存在感のある鍵で。

鍵には3年前に姪がくれたウサギの人形型キーホルダーがついている。手のひらサイズの、言ってみればかさばるものだし、白ウサギが今やグレーに変色するほど年季の入ったもの。

ふたたび走り出し駅まで猛ダッシュするはずが、逞しい2本の脚はエンジンがかからないどころか、エンスト寸前の車のように頼りなく、一応前には進むものの、その速度は緩やかになり、トトト……とついには止まってしまった。コートの膨らんだポケットに左手を突っ込んで鍵を触って確かめてみても、指はウサギの人形のどこがみみの部分かが無駄にわかるだけで、それと鍵をかけたことはまったく結びつかない。毎朝毎晩繰り返す5秒の行為に意識が集中していなかったことを、駅まであと半分というところまで来て悔やんでいる。


まさか今から引き返すなんて。時計の針はいつもより2分遅れ。
だいたい生まれてこの方30年、鍵をかけ忘れるとかある? あった? ないし。
いやいやいや。
脳内で繰り返される言い訳とは裏腹に、胸の不安はおさまらない。

でもさ、万が一、泥棒に入られたところで盗られるものだってあるはずないし。だいたい、こんなにマンションが建ち並ぶところで、しかもわざわざあんな古いアパートの2階の一室のドアが今日に限って開いてるって、誰が分かるんって話。そこまでされたらよっぽどやし。
大丈夫、大丈夫。大丈夫やって!さぁ、出発!
踏み出す一歩はなぜか後方に出た。

「ええい!!もう!!」

半ばやけくそで、今来た道を走って戻る。行きしなに公園を歩いていた犬とおじいが不思議そうに見る。半泣き半笑いの複雑な表情でアパートへ戻り、2階まで駆け上がる。
ドアノブに手をかけた。


いつもより遅い電車の窓。14分遅れの空に昇っていく太陽が見えた。荒い呼吸を整えながら目をほそめてそれを見る。
次の駅に着くまで、この光を全身に浴びていたい。
「きれぃわぁ」
息で窓が曇った。14分違いの人々の中でこぼれ出た声は意外に大きかったけれど、運良く車内アナウンスにかき消され、わたし以外聞こえない。

#一駅ぶんのおどろき

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