徳田雅己という人間とシャルソンに対する想い 〜人生を振り返って〜

こんにちは、中にははじめましての人もいるかも知れません。徳田雅己(とくだまさき)です。私の初noteを読んでいただき本当にありがとうございます。僕のことをよく知らない人もたくさんいるとは思いますが、自己紹介は後ほど詳しく書いていきますので、早速ですが書籍とかでいう”はじめに”の部分をまずは書こうかなと。

はじめに 〜noteを書こうと思ったきっかけ〜

今回noteを書こうと思ったきっかけ。もともと、自分から話をしたり、なにかを発信することは好きな方で、ブログとかnoteにも興味があったのですが、なかなか手を出せずにいました。

僕も今年で27歳になりました。色々な人に出会い、色々なことを経験してきた中で、やっと自分なりの価値観というか、やりたいこと、人生の目標、軸、みたいなものが見つかった気がするんですね。それはある日この瞬間に、みたいなものではなくて、幼少期、学生時代、社会人など長い年月をかけて、ブレブレになりながらも形成されたものだと思っています。

それをこのnoteで皆さんに伝えたい、共有したい、というのが一番の狙いです。ご存知の方もいると思いますが、僕は今シャルソンコンサルティング株式会社という副業人材紹介をする法人の代表をやっています。実を言うとこの会社は、僕が創業したのではなくて、大学時代の友人が創業しました。ただ、彼が一緒にやらないかと声をかけてくれて、僕を代表にしたいという思いを語ってくれました。その想いに心打たれ、代表を引き受けました。

まだまだ売上も少なく小さい組織ですが、僕は本業の会社を2020年いっぱいで退職し、シャルソン一本で勝負しようと思っています。そう決意するに至った経緯や、僕の覚悟を記します。伝記みたいに幼少期の出来事から振り返りつつ、何を思って行動していたのかということを中心に書いていきます。かなり長くなると思いますが、最後まで読んでいただけると本当に嬉しいです。

徳田雅己という人間の紹介

まずは改めて自己紹介をしたいと思います。


徳田雅己(とくだまさき)
出身:岡山県岡山市
 吉備団子と、桃太郎ランドだけ。何もない。桃太郎ランドも実在しない
 最寄りのコンビニまで徒歩10分の田舎、家の周りは田んぼだらけ
生年:1993年5月15日生まれ、27歳独身
 ちょうどJリーグが開幕した日、サッカーのために生まれた
 でも野球しかしてない
身体的特徴
 身長179センチ 高校3年間で20センチ以上伸びた
 体重80キロ 去年筋トレはじめて12キロ増えた
 頭、顔 まあでかい
兄弟:姉(10歳上)と兄(9歳上)
 甘やかされたTHE末っ子
 姉も兄も結婚し2児を抱えてる、3人でいると間違いなく兄弟だとわかる
趣味:ゴルフ、筋トレ
 歴3年、ベストスコアは88。ゴルフは課金ゲーだと本気で思ってる
 筋トレは痩せるためではなく、健康と飛距離のため
最終学歴:東京大学経済学部経済学科
 大学側から卒業させません、と通達され5年通った少数派
 学生証は学割と、合コンのため
好きな食べ物:ラーメン二郎
 松戸店が不動の4番。味覚ではなく、本能で食べるもの。週2で食べたい
仕事:サラリーマン(辞める予定だけど某SIer)と経営者
尊敬する人:姉(10歳上)
 人生2回目?ってくらい考えが深いし、色んなこと知ってる
 生産性バケモン。いまだ兄弟ってこと疑ってるけど、顔は似てる
似ている人:鈴木福くん
 彼は僕の後追いだけど、完全に負けてる。中学時の学生証の写真は激似
好きなタイプ
 顔は、長澤まさみ(綺麗もかわいいもいける感じ)
 性格は、好奇心や遊び心を持ちつつも、きちんと叱ってくれる大人

自己紹介としてはだいたいこんな感じでしょうか。冒頭でも記載しましたが、僕の価値観形成の経緯を書いていくのですが、大きく影響しているのは、間違いなく姉の存在と、東京大学という環境でした。そのあたりのストーリーを幼少期から書いていこうと思います。

徳田家の環境と保育園時代

僕の両親は共働きだった。お酒が大好きな父は、僕が生まれる数年前に脱サラし、焼酎を楽しめる焼き鳥屋「やきとり徳田」を岡山駅前で営んでいた。父の店は、岡山にしては割と単価は高めで、プロ野球選手とかもたまに来るくらいだったのでまあまあ人気だったと思う。実際めっちゃ美味しかった。
父はゴルフと酒が大大大好きだ。マスターズが開催されるオーガスタに一回でいいから行ってみたい、といつも言っている。また、サンドイッチマンがM-1優勝時のインタビューで、賞金の使い道を尋ねられ「引っ越しに使います。お金がなくて一緒に暮らしてるので」と答えたのを見て泣くほど涙もろい。僕の父親であるのでもちろん酒癖は良くない。

母は食品容器(スーパーでお惣菜とか入れるあれ)を卸す会社の事務職だ。ちょっと天然なところがあって、色々疎い。スマホにしてLINEを始めたのもつい去年のことだ。韓国ドラマをよく見ていた。酒はめちゃくちゃ弱く、ノンアルコールビールを飲んで酔っ払うくらいだ。

そんな家庭に生まれた僕は、じいちゃんばあちゃんとも同居をしていたが保育園に通っていた。白菊保育園。保育園時代の記憶は曖昧だが、K先生に初恋をしていたこと、給食を食べるスピードが毎回1番だったこと、でもカレーの日だけは毎回I君に負けて2番だったこと、ドッジボールが強かったこと、将来の夢はお寿司屋さんだったことは覚えている。なんとも懐かしい。

自己紹介にも書いたが、姉(10歳上)と兄(9歳上)がいるわけだが、僕が物心ついた頃、ふたりはもう中高生になっていた。姉も兄も地元の公立中学から岡山県随一の進学校である県立岡山朝日高校に通っていた。姉はバレー部、兄はサッカー部に所属していたため、そこまで僕と遊んでくれる時間もなく、僕はおじいちゃんおばあちゃんに遊んでもらっていた。
近所のトラックターミナルで色んな色の大きな貨物トラックを見るのが大好きだった。


姉は引きこもりか?小学校時代

姉と兄も通った地元の公立小学校に入学した僕、当時7歳。まだ記憶は薄いが、一つだけ強烈に印象に残っていたのことがある。姉が部屋から出てこない。。。。今考えると引きこもりかと思うくらいずっとだ。一日中。平日は学校に行っていたが、休日2階の部屋から降りてくるのはご飯、トイレ、お風呂だけだ。7〜8歳のワイ「お姉ちゃんずっと何してるんだろ?」。

当然引きこもりだったわけではなく、姉はひたすら勉強をしていた。東京大学合格に向けた受験勉強だ。後々知ったのだが、好きだったバレーボールも勉強のために辞めたそうだ。勉強のべの字もわからない当時の僕だったが、その印象はすごかった。

父は口数が少ないほうで、夜は焼き鳥屋の仕事があるので僕は母と話をすることのほうが多かったのだが、「お姉ちゃんはずっと勉強しとるけん、ほんまにすごいんよ」とよく言っていた記憶がある。
ずーーーーーっと勉強している姉。ガキの僕には本当に強烈だった。

小学2年生、3年生と、いくつかの習い事を始めたり、松井秀喜の影響で野球が好きだった僕はソフトボールも始めた。習い事(習字、そろばん)の先生も姉のことは知っており、姉はすごいと皆口を揃えて言うし、僕は姉と比較されることが多々あった。ライバル心というほどではないが、姉という偉大な手の届かないような存在をなんとなく意識し始めていたのかもしれない。

その頃姉はまさに現役で東大受験を迎えていた。当時受験のことはよくわからないので、落ちる、ということがそもそも存在しないものだと思っていたし、いっぱい勉強した姉ならもちろん合格して東京に行ってしまうものだと思っていた。親からもそう聞かされていた。

でも結果は残酷なことに不合格だった。信じられなかった。記憶はおぼろげだが、姉は泣いていたと思う。あれだけ毎日朝から晩まで何時間もずーっと勉強して、不合格になる。日本一の東京大学はそれほどまでに壁が高いのか。努力だけでは届かないのか。そう僕も家族も思っていた。
最も身近ですごいと思っていた姉が合格できないほど難関な東京大学。この経験は、わずか8歳の僕にも本当に衝撃的だった。

東大以外のいわゆる滑り止めも一切受けていなかった姉は浪人することになった。浪人生は現役生ほど授業があって拘束されることもないので、不合格によって気持ちが切れてしまう、モチベーションが下がる、結果として学力が伸びない、なんてことはよくある。ただ姉にそんな心配は不要だった。現役時と変わらず、いやむしろそれ以上に勉強していたと思う。ずっと部屋にこもり、ひたすら勉強をしていた。本当にすごいと思う。僕には絶対にそんなことはできない。僕が姉を心から尊敬する理由の一つである。

翌年姉は1年間の浪人生活を経て、東京大学に合格した。

家族、親戚、ご近所さんも大騒ぎだった。あんな岡山のド田舎から日本一の東京大学に合格したのだ。父親も母親も決してエリートではない。そんな環境から日本一に辿り着いたのだ。

やっぱり姉ちゃんはすごい、当時の僕は本当に心の底からそう思っていた。

ちなみに兄も同じ高校で、もともと優秀な方だったのだが、ひたすらサッカーして寝る、違うクラスの体育の授業に出る、みたいな感じだったらしく、勉強は微妙だった。兄はめっちゃ優しくて面白くて気がきくし、東大出身の姉と弟に挟まれているがコンプレックスも感じておらず、最高の兄だ。今でも帰省する度に一緒にゴルフをしている。奥さんも綺麗だし幸せな家庭を築いていて羨ましいくらいだ。

そんな今でも鮮明に覚えているほど強烈な経験をした小学生の僕だったが、我ながら優秀だったと思う。テストはほんとに全部100点だった。授業を聞いて宿題をやれば、理解できないこと、覚えられないことは何もなかった。そろばん教室でも、学習スピードは抜群に速く、周りの同級生よりも2〜3歩先の内容をやっていた。習字も上達が速く金賞の上、岡山県知事賞をとったこともある。色々飲み込みが速い方の人間だったのだろう。人より大きな頭に大容量の脳みそが詰まっているのだろう。

小学2年生で始めたソフトボールもチーム内では上手い方で、ピッチャーをやるようになった。身長はかなり低かったが、小6の時、キャプテンでエースで1番バッターだった。チームは強くなかったが、とても楽しい小学校生活を送っていた。

小学生時代の最後に母について書きたい。東大に合格した娘、学年で1番優秀な小6の息子を持つ僕の母。勉強のことなど何もわからないが、わからないなりに一生懸命色々考えてくれていた。
母は保護者面談で担任の先生からこう言われたそうだ、「徳田くんが間違いなく一番頭が良いです。私立の中学受験は考えていないのですか?」と。衝撃だったそうだ。
当時の母の頭の中はこうだ。そもそも雅己は普通くらいだ(お姉ちゃんと同じかそれ以下)、中学って受験するものなの?知らなかった、中学受験すればもっと頭良くなるんじゃないか?。

急に家庭内で中学受験の話題が出てくるようになった。僕の頭の中にも中学受験なんてものは存在していなかった。当然姉、兄と同じように、地元の公立中学に進学するものだ。周りのクラスメイトと同じ中学に行くんだ。そう思っていた。
母は色々調べて情報を集めてくれた。母のすごいところは「無知の知」があるところで、知らないからとことん調べ抜いてくれた。あまりに純粋な一面もあるので詐欺などに騙されないと良いが、、、、
多分姉を浪人させてしまったという思いが少なからずあり、もっと良い環境を与えることができたんじゃないかという後悔、みたいな思いがあったのかもしれない。色々調べた結果、岡山駅前(車で約30分)の塾まで行き、小6の夏から中学受験が間に合うのかテストを受けてみて判断することになった。みなさんもご存知の通り、中学受験は小学校で習う内容がそのまま、というわけではなく、受験専用の勉強をしなければ全然太刀打ちできない。学校のテスト全部100点だった僕でも、半分も解けなかったと思う。
結果として中学受験は諦める事になった。だが、母は僕が中学生になったら塾に通わせる気満々になってしまった。そして同じ塾で今度は入塾テストを受けた。その問題は受験ほど難しくはなく、けっこう解けた気がする。基準点を超えなければ入ることのできない、優秀な子が集まるクラスに入塾することになった。

ちなみに母は僕に対して、勉強しろ、なんてことは一切言わなかった。〇〇くんがやってるからあんたもやりなさい、なんてことも聞いたことがない。そもそも自分ができないし、わからないし、勉強が必ずしも人生で大切だと思っていないからだ。ただ、僕の可能性だけは誰よりも信じてくれた。色々な人から情報を集め、僕の能力を伸ばすために最適な環境を整えてくれた。駅前の塾までの送り迎えも、仕事帰りにも関わらず文句ひとつ言わずやってくれた。そして常に僕を気にかけ、学校での話、部活の話、塾での話、色んなことを聞いてくれた。親だから当たり前なのかもしれない、でも間違いなく言えることがある。

本当に感謝している。最高の母親だ。


成績1位、生徒会副会長中学生時代

結局中学受験をすることなく僕は地元の公立中学校に通った。姉と兄も通った、家から自転車で15分ほどの学校である。その中学校は、僕が通っていた小学校以外に2校の小学校からも生徒が入学してくる。ソフトボールでよく対戦した顔見知りもたくさんいた。
1学年7クラス、計240人くらいの規模だった。成績はというと、ほぼ毎回学年1位だった。中学1年生から塾に通い始めた僕は、塾の授業で予習、学校の授業、宿題で復習をすることで、しっかりと学力は定着していった。勉強って別に難しくないな〜。本気でそう思っていた。

ただ論理的に文章を書いただけで校内弁論大会で優勝していたし、友達も僕を頼ってくれるので、やりたいこともなかったが正気なところ内申点のために生徒会副会長にもなった。

色々と順風満帆だったし、僕も当然のように姉と兄が通った朝日高校(岡山で一番の公立進学校)に通うものだと思っていた。

ただ、塾での成績は大したことなかった。
僕が通っていた塾は、僕みたいな公立中学のNo.1が各地から集まっていたし、受験が必要な中学に通うエリートたちも集まっていた。同学年でも4つほどクラス分けがなされていて、僕は上から2番めのクラスだった気がする。さらに上のクラスがあることにびっくりしたのを覚えている。
塾では定期的に全クラス共通問題の実力テストが開催された。順位はもちろん掲示される。特に勉強内容が難しい、と感じることはなかったが、とはいえ満点はほとんど取れない。9割くらいはコンスタントに取れるのだが、どうしても満点とはいかなかった。そんな僕の順位は、毎回30番目くらいだった気がする。自分より頭のいいヤツが30人もいるだと!!ベジータが悟空に勝てなくなるみたいな感覚に近い。当然彼らはほぼ満点だったので、悔しかった。クラスが違う人もいたので最初は知り合いではなかったが、3年間も通ううちに顔見知りになったり、普通に話をするようになった。どうも、岡山大学教育学部附属中学、という受験が必要な学校があるらしく、秀才が集まっていたらしい。
挫折、ほどではないが、完全に僕は天狗だった。でも優秀な人が世の中にはたくさん存在するということを知ることができたし、母がしっかりリサーチして通わせてくれた塾が大正解だということは間違いない。今でも母と会話をすると、「あの塾選んで正解じゃったな〜。私見る目あるじゃろ!」とドヤられる。さすが僕のオカンである。

その後中学3年間で、特に勉強面ではゆる〜い右肩上がりで、当然のように朝日高校を受験することになった。しかし、受験前にある出来事が起きた。

ラ・サール高校受験

僕の塾では、成績上位者には県外の超難関高校を受験させる、というシステムがあった。旅費、宿泊費、受験料、全て塾が負担してくれる。徐々に成績を伸ばしていた僕も、対象の上位者として声がかかった。広島大学附属高校、広島大学附属福山高校、そして鹿児島のラ・サール高校を受験できるということだった。鹿児島に関しては約10人くらいの友達と一緒にホテルに泊まって受験をするので、旅行みたいなものだ。仮に合格しても行く必要もなく(単に実績づくりのためなので)、当然岡山朝日に行く気マンマンだった僕は、遊び感覚で受験をすることになった。

時系列は覚えていないが、広大附属は合格し、ラ・サールも難しいけど合格するものだと思っていた。
甘かった。
不合格。人生で初めて勉強で壁にぶつかった。一緒に受けた10人の中でも、合格したのはほんとに天才だと今でも思うたった2人だけだった。ラ・サール高校は、名前が特徴的なのもあるが、全国的に有名な超一流進学校である。ここに不合格だったということは、当時姉という存在のせいでぼんやりとだが意識していた東大も無理なんじゃね?という気持ちが多少あった。
でもまあそんなに引きずることもなく、岡山朝日の受験を難なくクリアし、姉、兄も通った140年以上の歴史がある、県内随一の進学校に入学したのだった。

エリートだらけの進学校 高校時代

朝日高校に入学した。40人×8クラス、計320人の規模だった。岡山市以外からも電車を使って通う人もいた。ただ、岡山随一の進学校と地元では本当に言われているのだが、受験時の倍率はめちゃくちゃ低い。今でも不思議に思うのだが、1.08倍とかだった気がする。ワンランク下の進学校のほうが倍率は圧倒的に高かった。

入学3日後くらいにマーク式の実力テストみたいなのがあった。当然僕は学年で20〜30位くらい(上位10%)には入れるものだと思っていた。結果は66位だった。ショックだったので覚えている。
ラ・サール不合格の時点からうすうす感づいていたが、自分は天才でもなんでもなく、ごく普通の学力しかないのだ、世の中にはすごい頭のいい人がいっぱいいる、そう思うようになった。正直この時点で東大を受けよう、という思いは1ミリもなかった。

朝日高校野球部分裂事件

僕はずっと野球をやっていたので当然のように硬式野球部に入った。進学校だし緩く野球を続け、3年になったらレギュラーになれるでしょ、くらいの感覚だった。同級生は15人くらいいたと思う。1個上の代は6人くらい、2個上は10人くらいだった。
2個上の代は、関わる期間も短く、絡みはほとんどなかった。でも緩くやりつつも楽しそうで、僕が朝日高校で実現したい野球部のイメージとぴったり合致していた。
しかし、1個上の代は違った。ガチだった。厳しかった。3年生が夏の大会で引退し、新チームになった。2個上の代では当たり前だったことが、色々変わっていった。(それも僕にとっては悪い方向に、、、)
・髪型自由→坊主強制
・塾理由で早退、欠席OK→NGに
・練習前に軽くグラウンド整備(体育の授業で多少荒れるから)→昼休み強制グラウンド整備からの練習前も整備(午後の授業あるやん!)
・朝練は自由→朝練強制
こんなところか。確かに監督も僕の入学タイミングでガチよりの人に変わったのだが、間違いなく上の代が提案したものだった。

僕らの代と一個上は本当に仲が悪かった。僕も正直嫌いだった。僕らの代は同じ塾に通う人も多く、塾に行けない、というのは本当に意味がわからなかった。
そしてある日、本当に嫌気が差し、15人中8人くらいが結託し、同じタイミングで退部を申し出た。僕もその一人だった。
もちろん親にも相談したが、自分のことなんだし自分で決めなさい、くらいしか言われなかった。まあ姉も、トラブルとかが原因ではないが、自らバレー部を辞めたわけだし。

だが、結局姉の存在が思い浮かび結局僕は野球部を続けることにした。理由はただひとつ。姉に負けたくなかったからだ。部活を最後まで続ける=正義、ではないが、姉ができなかったことをやれば自分のほうが上だ、そんな根っからのちっぽけな負けず嫌い精神が僕にはあった。
結局戻って来ることなく退部してしまった同期もいた。むしろそっちのほうが多数派だった。辞めていたらどうなったのだろう。誰にもわからないが、今振り返ると、野球を続けていて本当に良かったと思っている。

芽生え始めた東大への意識

多くの同期が退部するというトラブルがあったせいか、野球部のルールは多少緩くなった。一番のネックだった、塾理由の早退禁止がほどかれたのだった。僕は野球と勉強、どちらかを最優先するというわけではなく、野球を続けながら塾にもしっかり通った。やはり高校の勉強内容というのは、中学時代とは桁が違う。ちょっと気を抜くとすぐついていけなくなるレベルだ。だから、授業がなくてもとりあえず部活が終わったら塾に行き、学校の課題や予習、塾の添削課題などに取り組んだ。ほとんどなかったが、部活が休みの日もとりあえず机には向かい、少なからず4時間程度は、何かしらの勉強に取り組んでいた。
塾に行くのが楽しかった。塾の先生は高校の先生と違って、学生の心を掴むのが上手い。ぶっちゃけた話、テストに直結する話、大学生活の話など色んな話をしてくれた。そして塾には他校の生徒も通っていたため、彼らと会ったり、話したこともないが可愛い子を眺めたり、そんな高校生らしい本能が僕を支えてくれていたのだと思う。何より、周りのみんなが優秀で、会話をするのが楽しかった。置いていかれないようになんとかしがみついて勉強をしていた。まだ大学のことなんて何も考えていないし、東大への意識は当然ゼロである。

入学当時66位/320人だったが、徐々に成績は伸びて学年で20位くらいを取れるようになった。高1の終わりくらいの面談で担任のK先生にこう言われた。「徳田くん志望校はどこなの?君なら東大に行けると思うから、東大を目指すべきだよ」と。僕は「いや〜東大なんて無理ですよ。岡山大学とかに行ければ御の字じゃないですか」と答えた。本音半分、謙遜半分の回答だった。
岡山朝日高校は特殊で、補修科という浪人生が1年間だけ通うことができるシステムがある県内唯一の高校だった。毎年10〜20人ほど東大合格者を輩出するほどの進学校ではあるものの、合格者の6〜7割程度が補修科に通う浪人生だった。他の予備校や塾に通うよりも安く、浪人生に特化した授業を受けることができる。この補修科があるからこそ、教師たちは、やたらと東大受験をゴリ押ししてくるのだ。最悪現役不合格でも良いから、本当に行きたい大学を受験しろというのだ。補修科には僕の姉も通っていたが、当然誰も浪人なんかしたくない。補修科なんていきたくね〜〜というように、補修科生は現役生から悪い意味で一目置かれる存在であった。とはいえ、担任からの「東大を目指してみろ」という言葉は少なからず僕の心に残り続けることとなった。

高校2年生になり、文系と理系でクラスが完全に分けられた。僕は文系を選んだ。数学は得意だったのだが、物理、化学が苦手、歴史が好き、という理由はあったものの、なんとなくの直感に近いもので文系を選んだ。今考えると女の子が多いとか、当時の彼女と合わせたみたいなしょうもない理由もあったかもしれない。もしも理系に進んでいたら地元の医学部を目指してたかもしれない、と今でも考えたりする。
当然のことだが文系と理系では履修教科が異なり、テストももちろん内容が変わってくる。(英語とかは同じだが)。文理が分かれたことで、同じ文系というフィールドの中で明確に自分がどれくらいの順位なのか、本当に東大を目指せるのか、というのが順位でわかるようになった。高校2年生6月くらいの実力テスト、文系の中では学年5位以内の成績だった気がする。理系を合わせても15位以内くらいを取ることもあった。成績が徐々に上がってきたこと、担任含む色々な教師からそそのかされたこと、気分は完全に東大モードに突入してしまった。そしてこの頃明確な目標ができた。

目標
・東京大学文科2類に現役合格
 姉が一浪で文科3類だったからそれより上に設定、文一は無理やろw
 →消去法で文二
・野球部は3年夏の公式戦まで絶対にやりきる
 姉が高2でバレー部を辞めて勉強一本にしたから俺は部活を続ける
・東大行けばカッコいい、絶対モテる!!
 不純of不純。男なんてみんなそんなもんやろ。

負けず嫌い、かっこよさ、高校2年生の時すでに、この二つに僕の生きる源は集約されていたのかもしれない。

東大への志望度は0から100に一気に跳ね上がった。こうなった状態の僕は自分でも手を付けられない。とりあえず家族や塾の先生、学校の先生、周りの友人に東大合格を目指すと宣言。幾人もの東大生を見てきた塾の先生、学校の先生に相談。そしてあとは毎日勉強する。もうこれだけ。勉強以外はゴミ、カス、ムダ、それくらいの覚悟だった。
もちろん野球は例外である。高2の秋から自分の代として、レギュラーとして試合にも出る機会が増えた。下手くそだったし、体も大きくなかったので、練習には真面目に取り組んだ。外周(敷地の周りを3〜5周する長距離走)はサボったが、、。練習後の勉強はもちろんだが、練習試合の合間、遠征の移動中などいわゆるスキマ時間は勉強していた。

とはいえ、野球に費やす時間は多く、休日も疲れてあまり勉強はできなかった。なんとか塾だけはサボることなく通い、成績を維持していた。文系で学年5位くらいをキープできれば東大に合格できると思っていた。

しかし、東京大学は甘くなかった。

高校3年生編

成績の大きな上下もなく、基本的には現状維持のまま高校3年生になった。教師も周りの友人も受験を意識し始める。どこの進学校でも同じかもしれないが、明らかに3年生だけ空気が変わるのだ。

3年生になったからと言って僕が変わったことは特にない。塾で受講する授業の数が増えたことくらいか。
それにより忙しさが増し、当時の彼女と別れることになったことくらいか。当時の彼女はあるスポーツが全国レベルの腕前で、インターハイを目指し、厳しい部活を毎日頑張っていた。僕も弱小チームではあるがそれなりに野球は頑張っていたし、そもそも野球部は拘束時間が長い。お互い時間が合わなくなり、彼女はインターハイ、僕は東大合格というそれぞれの目標に向けて頑張ろう、ということで別れることとなった。

初めての東大模試

6月、初めての東大模試を受験することになった。本番と同様のタイムスケジュール、問題構成、難易度。初めての本番形式の模試ということで、自分の学力でどれくらい通用するのか知りたかった。だからあえて特別な対策はすることなく現状の能力で臨むことにした。

結果はE判定(合格可能性20%以下)だった。
ショックだった。ある程度勉強には自信がついてきたし、学年でも成績は上位の方だったので、C判定くらいはとれると思ってた(マジで)。甘すぎた。成績上位者は名前が冊子に掲載されるのだが、僕の高校で掲載されたのは浪人生ばかりだった。彼らの判定は間違いなくAだ。現役時代の学力が引き継がれているのはもちろん、不合格をバネにさらに学力を伸ばしていたと思う。一度挫折を味わった人たちは間違いなく強い。僕はこんな頭のいい人たちと戦わないといけないのか、、、、そう思った。一方で自分はまだまだ東大を受験するに値しない学力だということ、逆に伸び代はハンパではないこと、周りの現役生は同じような成績だったこと、がわかった。すぐ未来を見据えて切り替えることができた。楽観的すぎるかもしれないが、この切替の速さは僕の良いところだと自負している。ショックは一晩で吹き飛び、自分自身でも部活引退後の圧倒的成長に期待していたため、なんとかなるだろうという根拠のない自信で溢れていた。

野球部引退

高3の7月、甲子園での全国大会につながる岡山県大会が開幕した。最後ということで、さすがに自主的な勉強は放置し、練習も真剣に取り組んだあと、帰宅して毎晩300回くらい素振りをしていた。結果としては、1回戦で敗退した。野球を続けさせてくれた家族、特に毎日すごい量の弁当やご飯を作り、泥まみれのユニフォームも文句言わず洗ってくれた母、応援してくれた同級生、色んな周りの人達のためにも1回は勝って誇らしげな姿を見せたかった。結果として勝つことはできなかったが、引退まで自ら選んだ野球をやり通すことができ、清々しかった。本当に野球を続けてよかったと、心の底から思っている。
最後の大会で敗退し、引退することになったその日の夜、僕は勉強机に向かった。もちろん負けたことの悔しさ、野球がなくなることの喪失感などはあったが、一方で、いよいよ勉強だけに向き合う時が来た、もう野球を言い訳にできないのだ、という覚悟が芽生えた。勉強の流れを作るためにも、ちょっとでもやらないといけないと思い、僕は数学の問題を1問だけ解き、寝た。

勝負の夏休み

野球部引退後、夏休みに突入した。受験生にとっては学力を伸ばす勝負の夏休みである。ひたすら勉強した。まだまだ自分は通用しない、東大には合格できない、姉に負けてしまう、と考えると、勝手に勉強が進んだ。そして、東大受験の日まで毎日最低15時間勉強する、と決めた。

1日のスケジュール
・5:00 起床
5:00〜7:30 英語か数学
・7:30〜8:10 朝ごはん、準備
・8:10〜8:30 登校or塾
8:30〜12:00 学校or自習
・12:00〜13:00 昼食
13:00〜16:00 学校or自習
16:00〜18:00 自習
18:00〜22:00 塾の授業
・22:00〜22:30 帰宅
・22:30〜23:00 晩飯、風呂など
・23:00 就寝

毎日こんな感じ。本当に毎日。多少休憩とかあるが15時間は本当に毎日勉強していたと思う。正直やることが多すぎて15時間じゃ足りなかった。だが、睡眠時間を減らすのは非効率的だし、良いことがないので、6時間は絶対寝るようにしていた。今振り返っても、なんでこんなにストイックに勉強できたのか自分でも謎だが、勉強、成績を上げる行為を楽しむことができたからだと思っている。
特に意識したことは、2つ。1つ目は勉強の予定の立て方だ。2時間、というふうに時間で予定を決めるのではなく、数学なら問題を5問解く、みたいにノルマ形式で予定を組んだ。気分が乗らない日はもちろん少なめに設定した。2つ目は、精神面。絶対に合格するんだ、と自分に言い聞かせた。「東大合格」と一日100回以上口に出すことで、合格するマインドに変えていった。チャリで通学していたが、帰り道などは「合格、合格、合格〜〜」みたいに夜道を叫びながら爆走していた。(完全に不審者ですが田舎なので大丈夫でした笑)

まあ受験勉強に関しては上記のような15時間勉強を毎日やっていただけなので特筆すべきことはないが、大きく意識していたことだけ書いておく。

勉強法
・わかる、わからないをはっきりさせる
 →わかる問題は勉強する必要ない。わからない問題だけ徹底的に。
・なぜそうなるか、プロセスを理解する
 →歴史も数学も英語も、成り立ちや経緯などストーリーで覚える
・間違いを恐れずやってみる
 →すぐに答えを見るのではなく、ある程度考えて仮説を立ててみる
・絶対に東大に合格するんだ、という強い意志を持つ

という風に東大受験まで毎日15時間勉強していたので、勝手に成績は上がっていった。高校の先生、塾の先生、同級生など、良き指導者やライバル、仲間が周りにいてくれたことが、間違いなく一番の成績アップ要因だった。受験が個の戦いであるのは間違いないが、自分ひとりで勉強して東大に合格するなんてのは絶対ムリだ。今でも一番意識している。僕は一人じゃ何もできない。周りの人々に支えられて生きているのだと。

その後、東大模試は11月にB判定を取ったのが最高で、A判定を取ることはできずセンター試験を迎えることになった。東大はセンター試験の900点満点を110点満点に圧縮するため、合格点を取るためにセンターの割合はかなり低い。センター試験が110点満点、二次試験が440点満点。とはいえ、過去の合格者の傾向を見ると、センター高得点者のほうが合格率が高く、0.1点差で不合格みたいな先輩の話も聞いていたので、点数が高いに越したことはない。目標は800点(900点満点)。センター試験も模試を受けるのだが、10回くらい受けて、目標とする800点(900点満点)を取れたのはわずか1,2回だった。

迎えたセンター試験本番。会場の岡山大学の入り口には多くの先生たちが応援に来てくれた。国語の先生で姉の時代も知っているH先生からキットカットをもらった。「迷ったら4!自分を信じて頑張れ!」と書いてあった。何を根拠に4と言っているのかは不明だったが、すごく勇気が出た。2日間の受験が終わり、家に帰って自己採点をした。
844点/900点だった。自己最高得点を本番で出すことができた。ただ一つだけ、ひどいことが起きた。現代文の最終問題、筆者の言いたいことを2つ選べ的な問題。1つは選択肢が決まったが、もう一つを4か5でかなり迷った。他の教科を入れても一番迷った問題だっと思う。僕は5を選んでいた。。。H先生ごめんなさい。試験日の朝、H先生からもらった言葉「迷ったら4!自分を信じて頑張れ!」、自分を信じた結果、5を選んでしまいました、、、、

翌日から約1ヶ月半後の二次試験に向けた勉強が始まった。
自分でも期待以上にセンターで高得点を取ることができたので、焦り等も感じることなく、二次試験の勉強に取り組むことができた。ただ、私立大学(国公立を第一志望とする人にとってはいわゆる滑り止め)をどこにするかという問題が生じた。センター試験が高得点の人は、試験を受けることなく合格できる、センター利用という制度が存在していた。僕は親に一応センター利用で早稲田とかを受けようかな、と相談をしてみた。しかし、父親から「東大以外は受けさせん。お前の東大に対する想いはそんなもんか。姉ちゃんは自ら『東大以外は受けない。落ちたら浪人させてください』と言ってきたぞ。お前そんな覚悟なら絶対落ちるぞ。」と言われた。勉強に関して父親に何か言われたのはこれが最初で最後である。僕は普段から「姉ちゃんに負けたくないから絶対に現役で東大に合格しちゃるけん!」と親にも豪語していた。センター試験が期待以上の高得点だったことで僕はどこか浮かれていたのかもしれない。本当に覚悟が決まった。東大以外は行かない。絶対に合格してやるんだ。また勉強に熱が入った。さすが俺の父ちゃんだ。

東大二次試験本番を迎えた。前日に新幹線で東京に向かい、下見をしてホテルで軽く勉強をして眠りについた。受験会場は東京大学駒場キャンパス、周りに頭の良さそうな人がたくさんいた。気負うことなく、自分の力を信じ最後までやり抜くことができた。東大の二次試験が2月25日、26日。合格発表が3月10日。放心状態である。もし不合格であれば後期試験を受験することになっていたのだ、あれだけ毎日15時間もやっていた勉強が一切手に付かない。ずーっと実家のリビングでテレビを見ていた。
3月10日、合格発表の日だ。ネットでの発表はなく、東京に住んでいた姉が現地まで合格発表を見に行ってくれた。オカン宛に電話がかかり、オカンが泣きながら「あんた、合格じゃったよ!」と伝えてくれた。今でも覚えているが、あのドキドキからの脳汁ブシャーという感覚はすごかった。ホッとして涙が出てきた。
勉強という行為は好きだった。でもしんどかった。姉という偉大な存在、絶対の安心が存在しない受験という一発勝負の世界、周りからの期待とプレッシャー、落ちたらどうしようという不安、全てから開放されたんだと思うと自然と涙が溢れ出てきた。でもやっぱり目標としていた現役合格を達成した喜びは凄まじかった。

1時間も経つと最強の天狗状態。人生楽勝モード突入。俺がこの世で一番だ、くらいの勢いとテンションだった。なんとも恥ずかしい。ただそれだけ田舎者の僕からしたら、東大という存在は大きく、神格化されたものだった。

受験を通して、色々なことを学んだ。努力、継続の大切さはもちろん、周囲への感謝、モチベーションの維持などたくさんある。今までの人生で一番頑張ったこと、エネルギーを注いだものは間違いなく受験勉強だ。もう一度やれと言われたら絶対無理だし、やりたくもない。でも経験して本当に良かった。つくづく思う、僕は周りの人、環境に本当に恵まれているのだと。

東京大学編

1年生、麻雀との出会い、野球サークルに熱中
憧れの東大に入学した。文科2類スペイン語9組。今でも付き合いのある友達が多く、かなり濃いメンツである。大学で勉強するつもりは一切なかった。初めての一人暮らし、あんなことやこんなことに期待を膨らませ、ひたすら遊んでやるぞ、という思いだった。
重要なのはサークル選びである。これによって大学生活の9割が決まると言っても良い。僕は入学前から迷っていた。ずっとやっていた野球をやるか、経験は一切ないが、可愛い女の子がたくさんいるダンスサークルに入るか。究極の2択だった。とりあえず新歓に行って決めることにした。まずは野球サークルから。僕が入るサークルは一瞬でSという野球サークルに決まった。野球強い、女の子かわいい、飲み会楽しい、というのが決め手だ。よくよく考えると、ダンスサークルは女の子の数こそ多いが、未経験なのでヒエラルキー的に底辺からのスタート。しかも女の子も本気でダンスに取り組むので、ガチ感強かった。強豪校で控えになるより、レベルを下げてでもレギュラーになりたいタイプだったので、野球サークルに決めた。入るサークルが決まったので、あえてそのサークルには行かず、4月いっぱい色んなサークルでタダ飯タダ酒、かわいい女の子を求めて渡り歩いた。授業が終わり次第友達と正門前に行き、今日はこのサークルにしよう、という軽いノリで参加をした。他の野球、テニス、ダンス、演劇、ゴルフ、フットサルなどなど、全く興味はないが毎日違うサークルを巡り歩いた。まじで毎日楽しかった。新歓期は1年生にとって天国モードだし、もう一回やり直したい。

5月になり、野球サークルに本腰を入れて参加した。プレイヤーは全員東大生だったが、わりとレベルは高く強かった。同期も先輩もノリの合う楽しい人ばかりで真剣に野球に取り組むことができた。新歓当初から認識していたのだが、永遠のライバルチームが存在していた。Bというサークルだ。人数が2〜3倍、練習後は居酒屋ではなくファミレス、女の子がガチの野球好き。雰囲気的にも自分には合いそうになかった。新歓練習など参加したが、すでにSに入ると決めていたので、こっそりSの勧誘をしていた。バレて怒られた。規模も雰囲気も真逆だがSとBは完全にライバル関係で毎年学内の最強を決める大会で決勝を戦う関係だった。そのBに勝って、関東大会に出場することが僕らのサークルSのチーム目標だった。光栄にも1年生から試合に出させてもらい、打倒Bを目指してがんばっていた。

同時に大学1年生9月、なんとか大学初めての試験も乗り越え、もうすぐ夏休みも終わるという頃、麻雀と出会った。僕の人生を大きく左右した世界で一番すごいゲームだ(本気で思ってる)。サークルの先輩から誘われ、麻雀を覚えてみろ、ということで雀荘へ。丁寧に教えてもらい、一通りのルールを理解した。ドハマリした。スマホのゲームでやりこみ、役や点数をマスターした。それ以降というもの、野球の練習→飲み会→麻雀(徹夜)を週2〜3で繰り返していた。何時間やっても飽きなかった。本当に面白い。
僕はギャンブルは麻雀くらいしかやらない。一時期競馬もやっていたが、掛け金を自分で決められるのでギャンブルじゃないと思ってる。麻雀は人間同士がやるゲームなので、打ち手の表情や発言、所作に少なからず特徴が出る。そして人間は絶対にミスをする。自分も相手もだ。パチンコやスロットと違って機械が相手の単純作業ではない。だから面白かった。何より、二度と同じ状況が訪れない、というのも真剣にさせてくれる要素の一つだった。麻雀にはある程度のセオリーや確率論は存在する。ただそれは状況によって大きく変わってくるため、臨機応変に対応する力も求められる。加えて麻雀というゲームは、配牌という不平等な素材をもとに、ツモというリソースを活用し、3人の相手=競合の様子を伺いながら攻めたり守ったりして点数を伸ばす、というゲームである。なんだか経営者になったような気がして本当に楽しかった。今でも僕は麻雀をよくやるが、成功している経営者に麻雀好きが多いのも理解できる。ぜひ皆さんも麻雀はやってみてほしい。

野球に話を戻そう。ずっと東大の中で一番を目指して取り組んでいたが、結果として関東大会東大学内予選で敗退し、関東大会に出場することはできなかった。正直実力的にも優勝できると思っていたのでめちゃくちゃ悔しかった。高校時代の引退となった夏の大会よりもだ。高校時代は正直勉強がメインだったこともあり、野球は負けても仕方ないという思いが多少なりともあった。だが、大学では違う。
僕が大学生時代一番意識していたことは、「東大生っぽいと思われない」ことだった。"東大生"というと、メディアの影響のせいか見た目が真面目でガリ勉インキャメガネのTHE東大生のイメージが強い。僕もそんな印象を持っていたし、姉もそこまでではないが真面目な人だった。真面目が悪いとかではなく、徳田雅己という人間のポリシーである。東大生っぽくないのに東大生というところに価値があり、かっこいい、と今でも本気でおもっている。ギャップを感じてもらうのが好きなのかもしれない。
そんなポリシーが根底にあり、サークル選びにも影響している。僕が入ったSというサークル以外の野球サークルは、「東大生っぽい」サークルだった。何度も言うが、そういう人たちが嫌いとか悪いとかでは決してない。僕の価値観がそうなっているだけである。嫌いではないし、仲の良い友だちもたくさんいたが、もちろん意識はしていた。だから野球でも負けたくなかった。
結果として負けてしまったのだが、本当に悔しくて来年こそは絶対に勝って関東大会に出てやろう、そう決意した。まずは関東大会がどんな舞台なのか、早稲田や慶応なども参加しているのだが他大学のレベルはどんなものなのかを見に行くことにした。明治神宮球場に足を運んだ。
次元が違った。各選手の体格、技術、スピードも僕らより格段に上だし、甲子園出場選手もいる。チームの規模、戦術、応援などの一体感もすごかったし、イケイケ感もハンパじゃない。大学サークル野球界のレベルはこんなに高いのかと衝撃を受けた。ただ軟式野球は実力ほど差が出ず、戦略・戦術面がかなり勝敗に影響すること、関東大会で優勝することが目標ではなく東大内で優勝し関東大会に出場することが目標だったこと、を考えるとそこまで気負いすることはなく、むしろ自信が湧いてきた。初めて東大模試を受けたときと同様の感覚だ。伸び代しかなかった。

1年生の12月、僕はサークルの代表になった。東大は3年生から学部が確定しキャンパスも変わる。簡単にいうと皆忙しくなるため、2年生が幹部代として引っ張っていくことになっていた。僕はもちろん代表に立候補してチームを強くするために色々なことをやってやろうと意気込んでいた。関東大会を見に行ったときに、ある学生団体と出会った。「大学甲子園プロジェクト(DKP)」である。その団体は、学生だけで学生目線の独自大会を運営し、高校時代甲子園を目指したように大学サークルも甲アツくなれる甲子園での大会を目指して活動する団体だった。また、大学やサークルの垣根を超えた交流など、野球を通じたつながりを創り出そうとしていた。自分のサークルを強くするため、僕はDKPが主催する交流会に一人で参加した。アツい人がたくさんいた。改めてDKPの存在意義や目指していることを直接聞くことができ、自分も一緒になって野球サークル界をもっと良くしていきたいと思い、運営側にジョインした。
DKPでの活動はすごく有意義で楽しかった。毎週日曜日、13時から17時まで大会運営に関するMTGを行い、その後飲みに行く。飲み会では毎回野球に関する話、サークル運営の話などを聞かせてもらい、東大のサークルがどれだけ遅れているか実感することができた。僕はDKPでインプットした内容を自分のサークルに持ち帰り、即実践した。試合に出ていないメンバー、女子マネージャーも盛り上がれるように応援を取り入れたり、練習だけを行う合宿ではなく優勝目指して他チームと試合だけを行う大会合宿に参加したり、他大学との練習試合もたくさん組んだり、1アウト3塁ではエンドランという戦術を取り入れたりした。他大学の強いチームからすれば当たり前のことばかりだったが、それくらい東大の野球サークルは遅れていた。DKPでの活動は刺激が多くて本当に毎回楽しかった。
時は経ち、2年生9月、関東大会予選を迎えた。結果は負けてしまった。あまり鮮明には覚えていないのだが、気合が入りすぎていたのでかもしれない。悔しかったけれど、全く後悔はなくやれることは全部やったので清々しい気分だった。

迫りくる就職活動

一個下の学年に幹部代は移り、自分も3年生になった。勉強面では文科2類から無事経済学部に進学することができ、3年から赤門のある本郷キャンパスに通っていた。とはいえ出席を取らない授業が多かったので、野球、飲み会、麻雀、バイト、寝る、これしかやってなかった。完全にゴミクズ大学生である。

ところが周りの友人たちは就活を意識し行動し始めていた。外資系企業などは5月くらいから夏のインターン選考などが始まるらしく、友人たちも忙しそうにしていた。一方で僕はまあ就活なんてなんとかなると思っていた。遊び呆ける毎日を過ごしていた。
仲の良い先輩たちも就職先が決まっていき、ある先輩から某広告代理店のインターンを勧められた。当時就職のことなんて何も考えていなかったが、なんとなくその1社だけ夏のインターンを受けてみた。特に緊張とかはなく、面接で食べログの話をしたらなぜか受かった。内定をもらったわけでもないのに、就活なんて楽勝じゃん、と天狗状態。この先就活で痛い目に遭うことも知らずに。。。。
インターンは色々な有名大学から60人くらいが参加しており、3日間の座学やワーク、その後軽井沢で2泊3日の合宿をするというプログラムだった。5人1チームで、「すてる」の未来に関して考え、ビジネスアイディアを発表するという内容だった。頭の中は???状態。ビジネスのことなんて一切考えたことがなかったのでしんどかった。2泊3日の合宿では最終日の発表に向けて準備をするのだが、なかなか考えがまとまらずほぼ徹夜。なんとかギリギリでまとめることができた。僕らのチームが発表した内容を簡単に書くとこうだ。そもそもすてるという行為は断捨離によるストレスからの開放だったり、物理的な清潔感が得られたり自分にとってプラスの影響がある行為である。ところが近年、すてることにお金がかかったり手続きが煩雑だったり、制限があったりと、ストレスフルな行為に変わってきている。これっておかしくね?という問題提起から、シェアリングエコノミーのサービスを導入しよう、みたいな内容だった。お偉いさんや著名人たちの審査の結果、僕らのチームは優勝した。天狗も大天狗に進化した。

就活なんて楽勝じゃん。今思うとクソみたいな発想である。面接に受かったのは確かに自分の力だ。だが、チームの発表で優勝できたのは自分ひとりだけの力じゃない、周りの仲間がいて成し遂げることができた結果だ。そんなビジネスマンになる上での当たり前のこともわかっていないクソガキが就活なんてうまくいくはずがないのだ。面接官は何百人、何千人という学生を見ている。僕みたいな浅はかで自分よがりの人間は簡単に見抜かれてしまう。あえて就活のことを一気に書くが、僕は企業研究やOB訪問などほとんどすることなく就活に臨んだ。まあどこか受かるだろう、最終面接でことごとく落とされた。後述するが、怠惰の結果1年間の留年もしていたため、怠惰な性格や傲慢な性格を見透かされたのだろう。
ただまあ終わったこと、起きてしまった結果は変えられないので自分なりに真剣に考え、面識はないが東大経済学部の先輩である社長が創業したベンチャー企業に入社することにした。新卒の会社選びとしては間違っていない、というか選んで良かったと思っている。

留年

さて、順番は前後したが留年した経緯を書いていこうと思う。前述の通り、僕は毎日勉強や就活のことは一切考えずひらすら遊び続ける生活を送っていた。東大は入学したら楽勝、大学生は勉強なんてする必要ない、遊ぶのが仕事、非常にイタいが本気でそう思っていた。
東大のテストは難しく、周りの人も頭が良い。ボリュームも多いため、毎回授業に出ている人でも苦戦するぐらいだ。そんなテストを毎日遊び呆けていた僕が解くことができるだろうか、できるはずがない。テスト直前に徹夜で勉強するが全然無理だった。簡単に留年した。僕のサークルには留年組が異常に多かった。4回留年し東大のシーラカンス的存在である猛者もいた。なんとなく留年への抵抗感はなかった。僕は2年生のうちに単位を取ることが普通の授業を落としていたため、わりと早い段階から留年が決まっていた。そして留年した僕は1回目の4年生のときにノリと勢いで、東大の近くにある行きつけの雀荘(麻雀のお店)でバイトすることにした。時給は格安なのだが、冷静に考えてほしい。自分の大好きな麻雀をしながら金がもらえる。最高のバイトだと思った。雀荘のバイトは、飲食店のホールスタッフのような接客に加え、お客さんと麻雀を打つという仕事がある。自分の給料をかけて麻雀を打つのだ。12時間働いてマイナス1万円、みたいなことも全然ある。でも麻雀が大好きだったので本当に楽しかった。多い時は週5回10〜22時で12時間勤務し、その後先輩と朝まで飲む。クソみたいな生活だったが楽しかった。運が良いことに麻雀の成績も良い方でしっかりと給料は残り、常連のおじさんたちとも仲良くなることができた。コスパだけみると明らかに悪いのだが、今でもメンバー時代に戻りたいと思うほど楽しく、やっててよかったバイトだと心から思っている。

学生時代をまとめると、サークル野球、DKPを本気で頑張り、遊びまくり、麻雀のしすぎで留年して、ろくな就活もせず、結果的に「東大生っぽくない」5年間の学生生活を送ったのだ。恋愛のことなども書けば色々あるのだが、それはあえて触れないでおこう。
徳田家は別に裕福ではなかったので奨学金を借りてはいたが、学費や仕送りなど留年もするくらいので金銭的にも手のかかる息子だったのは間違いない。東大に入って親孝行をしたいという想いはもちろんあったが、結果的に迷惑ばかりをかけてしまい、大変申し訳なく思っている。ただ、大学生活は今振り返っても最高の思い出、経験ばかりだし何一つ後悔はない。勉強しとけばよかったとか、就活頑張ればよかった、とかも全然ない。強がりでもなんでもない。東大の同級生にも、サークルのメンバー、DKPの人たち、バイト仲間、色んな人と出会って今でも付き合いがあるが、最高の人たちばかりだ。普通の人より1年長く通っていたからかもしれないが、濃密な学生生活を送ることができたと思っている。

社会人編

5年かけて東京大学を卒業した僕はベンチャー企業に入社した。東大卒ということで期待され、早い段階から経営企画室管掌役員のもとで子会社の経営に関する業務を行っていた。理解力やコミュニケーション能力は普通の学生よりは高いと自負しているが実際に仕事をしてみても同期よりもよくできていたと思う。残業の必要がないほど素早く業務を片付けることができていたし、残業=無能という考えも少なからずあった。だから仕事に物足りなさを感じていたし、残業をしないので給料も少ない。せっかく東大を卒業したのに、、、という若干のコンプレックスみたいなものが芽生えていた。とはいえ社内の先輩や上司、同期にも恵まれていて楽しかったし、ゴルフを本格的に始めることができたり、いい会社に入ったなと思っていた。
ただ、やはりどうしても隣の芝は青く見える。人間は欲深い生き物だ。もっと東大生らしく大手に入ったら給料や福利厚生も良いんだろう、とか、もっとやりがいのある楽しい仕事ができるのだろう、とか、女子ウケも良いんだろう、とかなんとなくモヤモヤした思いが頭の片隅にあった。
僕は約1年半の社会人経験を経て、転職を決意した。ベンチャーならではの風土やスピード感、経営陣の姿を身近で実感することができたので大手に行こう、そう思い、転職活動の結果2018年12月NTTデータに転職した。
大手ながらも比較的新規事業を営む部署だったが、やはりベンチャーほどのスピード感や社員の勢いみたいなのは乏しかった。確かに給料は上がった。休みも増えた。でも物足りない。魅力的でロールモデルとなる社員も前職のほうが多かった。別に女性ウケも良くなってない。

僕は痛感した。何を仕事にするかというのは、めちゃくちゃ大事だ。仕事というのは人生の大部分を占める。特にサラリーマンは最低でも週5日8時間程度の時間を仕事に費やす。通勤時間なども含めるともっとだ。その仕事に熱中できない、物足りなさを感じる、ということは間違いなく豊かな人生とは言えない。休みの日だけが楽しみで、日曜の夜になると憂鬱になる。大変な思いをしながらも仕事をしているからこそ休みの価値があがる。確かにそうだ。でも、休みの日はもともと楽しいし、仕事も楽しいほうが絶対もっと楽しいに決まってる。仕事を楽しむことができればどれだけ人生楽しいだろうか、豊かになるだろうか、幸せになるだろうか。給料が安くても自分のやりたいことを仕事にしたい、2019年くらいからそんな思いをずっと持っていた。だが、簡単にやりたいことは見つからなかった。

シャルソンコンサルティングへの想い

前述したとおり、僕は今シャルソンコンサルティングという株式会社の代表取締役を務めている。立場上社長である。社長ってすごいね、と言われることが多いが誤解しないでほしい。何もすごくない。会社なんて30万くらい出せば誰だって作れる=社長になれる。肩書なんかにとらわれないでほしい。そして何より、僕が創業したわけではない。
大学時代同じクラスだったY君が創業した。彼は冷静で頭が切れるタイプで、いわゆる超大手企業に入社し大阪勤務となった。ご時世的にも大手だからこそ働き方改革などで残業が規制される。大阪だし友達も少ない。1年目は給料も低い。時間と能力を持て余していた。まさに僕の新卒時代と同じ悩みを抱えていた。東大卒あるあるとでも言っておこう。彼は副業をするため、dodaでアルバイトを探した。何社か応募しその日のうちに即連絡が来たある会社の面接を受けることにした。いわゆる中小企業である。面接官は社長自身。東大卒が来たということで大騒ぎになったそうだ。営業代行の会社だったので営業マンを求めていたが、東大卒となれば話が違う。高卒、中には中卒もいるような零細企業で、東大卒というインパクトは凄まじかった。彼は社長の右腕として、社長の会社や業務に関する悩みを聞いて、それを解決するために調査し、手段を検討して社長に提案した。専門的知識はないが、ロジカルにわかりやすく取り組むだけで、社長は目からウロコだった。
中小零細企業の社長は、会社のこと全般で考えることが多すぎる。売上、人材採用、社内整備、マーケティング、経理などなど何もかもだ。一方大手企業はリソースも豊富だし組織として分業が明確になっており、社員も優秀である。中小の社長は一人ですべて考えることはもちろんできないので、誰かに任せたい。しかしながら任せられるほど、専門的な知識を持ち、論理的に考え実践してくれる優秀な社員もいない。かといって採用したり、コンサルなどに外注するほどのお金も手間もない。だが、世の中には僕やY君のように時間と労力を持て余している若い人材はたくさんいる。そこをマッチングすることで双方win-winの関係が生まれる。こうしてシャルソンコンサルティングのサービスが出来上がったのだ。
約2年の大阪勤務を経て、彼は上記の想いを僕にぶつけてくれた。僕を代表にしたい、と。「本業で大きな目標があり辞めるつもりはない。そして自分は代表気質でもないし、会社の顔として不向きだ。情熱、人間性、ユーモア、そして垣間見せる頭の良さがとっくん(僕)にはある。だから代表になってほしい。」冷静なY君だが、二人で居酒屋に行き語ってくれたあの晩の彼は今まで見た中で一番熱い男だと感じた。そして僕は二つ返事で引き受けた。
僕みたいに東大を卒業しながらも、就活もどちらかというと失敗した人や、就活に成功したけれど時間と労力を持て余している人は一定数存在する。というかめちゃくちゃ多いと思う。そしてそういう人たちは間違いなく人生にどこか物足りなさを感じている。金銭的な部分も含めた豊かさという観点からだ。だが何か本気でやりたいことが明確にあるわけでもないし、ぼんやりあったとしても挑戦する勇気もない。もしかしたら読んでいただいているあなたもそう思っているかもしれない。大手企業に入るくらいの人は優秀だし、ビジネスマンとして成長したいという思いも絶対に持っている。僕は自分のように、受験という困難を乗り越え、日本一の東大を卒業したにも関わらず人生に物足りなさを感じる人達の力になりたいのだ。そしてビジネスマンとして成長できる機会を提供できれば、自分みたいな思いをする人、人生物足りないと感じる人も減ると思う。
散々書いてきたが、僕は東大に入りさえすれば人生楽勝だと思っていた。金持ちになれるし、可愛い女性とも出会えて、幸せな暮らしができると思っていた。27歳の今、中高校生の頃の自分が想像していた姿とは遠くかけ離れている。じゃあどうすれば理想の状態になれたか、そんなことは誰もわからない。幸せの定義だって人によって違う。金持ちになっても不幸と感じるかもしれない。隣の芝はいつも青く見える。誤解を防ぐために何度も言うが僕は自分の人生に後悔しているわけではない。生きててめちゃくちゃ楽しい。でも、物足りないというか、何やってんだろ、と思うことがあるのも事実だ。僕はありがたいことに人と比べて、どんな状況でも楽しめる方の人間だ。楽しみを見出してノリとテンションでなんとかなると思って生きている。でも僕みたいに人間そんなに強くないし、そういう人はむしろ少ない。僕自身もふと弱い部分を感じることもある。人間そんなもんだ。
だからこそ、僕と同じような人生物足りないという思いをする人の力になりたい。僕みたいに寂しさとか物足りなさを感じてほしくない。東大に限らずせっかく頑張って受験を乗り越えてきたのだから、報われてほしい。それが僕のシャルソンへの一番のモチベーションであり、代表としての一番のミッションである。

徳田雅己の価値観

最後に、僕が生きる上で一番大事にしていることを書いて終わりにしたい。ありきたりではあるが、それは「感謝」である。

僕は2019年12月22日、死にかけた。文字通り、一歩間違えれば命を落としていた。

画像1

集中治療室に入っている僕だ。(このnoteにアップした唯一の画像がこれで恥ずかしいです。もっとエグい画像ありますので見たい方は連絡下さい)雨の日だった。僕は駅の階段で滑って転げ落ちた。らしい。落ちる瞬間の記憶はない。約25段ほど落ちて頭を強打し、大量出血。頭蓋骨骨折。駅員さんが救急車を呼んでくれて救急搬送。即手術だ。打ちどころが奇跡的によかったこと、発見や処置が早く脳内の出血は最小限で抑えられたこと、お医者さんの腕前、などのおかげで一命をとりとめた。そして何の後遺症もなく5日で退院することができた。主治医いわく、「命があるのも、まして何の後遺症もないのは本当に奇跡だよ」と。

手術後僕は集中治療室で目を覚ました。事故は夜、帰り道の出来事だったので、朝家のベッドにいて、会社に行かなきゃと思って寝ぼけていた。ところが目の前には、家にいるはずのない涙を流す父親、そして姉がいた。僕は状況が理解できなかった。すぐに頭の痛みを感じ、見渡して病院だということに気づいた。術後27時間くらい意識が戻らなかったらしい。丸一日以上だ。父親は事故の一報を聞き、岡山から駆けつけてくれた。頑固で口数の少ない父親が泣いている姿は衝撃的で、言葉にできない感情が湧いてきた。

「生きてて本当に良かった。」涙する父の第一声だった。

両親より絶対に長生きすることを誓った。それが一番の恩返しだと思っている。

一般病棟で入院中、多くの友達、先輩、知り合いがお見舞いに来てくれた。皆が僕なんかのことを心配してくれて、時間を割いてお見舞いに来てくれた。恥ずかしさを感じるタイプなので、僕は「地球とプロレスしたら負けました〜」と笑い事にしてごまかしていたが、内心では色んな人がお見舞いに来てくれて本当に嬉しかった。今だから言えるが、皆が帰って一人眠りにつく前、何度も涙を流した。自分は家族、友達、先輩後輩、本当に色んな人に支えられて生きているんだ。本当に恵まれているんだ。そう思うばかりだった。感謝は直接伝えるべきだともちろん思っているが、どういう形であれ伝えても伝えすぎることはないと思っているので、ここにも改めて記す。

「みんな本当にありがとう」


最後に

こんな素人が書いた長い文章を最後まで読んでくれて本当にありがとうございます。こんなに細かく人生を振り返って、自分の価値観や幸せについて考えることはなかったので、色々読みづらいことあったと思います。そもそも文字ばっかりですみません。
改めて思うことは、綺麗事に聞こえるかもしれませんが、僕って本当に運が良くて、周りの人々や環境に恵まれていると心の底から思ってます。だからこそ好き勝手生きている人生ですが、本当に毎日生きているのことが最高に楽しいです。
学生時代とか色々な経験をしてきた濃密な27年間ですが、僕はサラリーマンという安定を捨てて一人の経営者としてこの資本主義社会で勝負をします。周りの人には今までも散々迷惑かけてきましたが、これからもご心配、ご迷惑をかけてしまうかもしれません。でもやっぱり徳田らしいな、と皆さんに認めてもらえるよう精一杯全力で頑張っていきたいと思っています。何かあったら助けてくれると嬉しいです。そして僕にできることがあれば何でもやるので遠慮なく言って下さい!
本当に最後まで読んで頂きありがとうございました。書くのめっちゃ疲れたんですが、書いてよかったと個人的には思っています。もしこのあたりもう少し聞きたいとか、感想伝えたいとか、シャルソンで一緒に働きたい、みたいに思っていただけたらぜひ一緒に飲みに行きましょう!ノリとテンションで何でも話しますので。

当然ですが全文無料にしています。僕が好き勝手書いているだけですし、皆さんにとって価値のある内容を提供しているとは思えないので。ただ、もし徳田を応援したいけど手段がないとか、独立して飯に困ったら牛丼でも食ってくれとか、ぐらいの感覚で投げ銭もできますよー(この記事の下にあるサポート機能)。笑 全く営利目的ではなく、noteにもともとある機能を紹介しているだけなのでご安心を!

最後まで読んで頂き本当にありがとうございました!


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