見出し画像

しゃわしゃわのジュース



 今時こんなの流行らないよ、と誰かに笑い飛ばされそうなくらいくたびれたアパートの一室で、詩織は考え事をしていた。窓から差し込んでくる街灯の光が妙に湿っぽく感じて慌ててカーテンを閉めると、思ったよりも濃度の高い暗闇に覆われた。詩織は急いで部屋中の電気(といっても1Kのアパートなのでせいぜい廊下とリビングくらいのものだ)を点ける。


 この部屋の家主は、きっと詩織より早く目を覚まして、コンビニにお茶でも買いに行っているのだろう。もしかしたら、コンビニで近所に住んでいる友達と会って、そのまま飲みに行っているのかもしれない。その友達はかつてササキ(家主の名前である)の恋人だったクミさんで、時間も時間だしまともな店開いてないから、なんて言い訳をしながら彼女の部屋で飲むことになって、二人で過ごしていたら別れた当初の憎しみなんて綺麗さっぱり忘れてしまって、今頃情熱的に絡み合うような事態に発展しているのかもしれない。詩織はクミさんとササキの情事をできる限り詳細に想像しながら、お気に入りのTシャツと数年前に姉から貰ったジェラートピケのもたもたした生地でできているショートパンツを身につけた。詩織が目を覚ました時にそばにいてくれないササキは最低だと思うが、ササキがやっていることは最低だ、とはっきりと突きつけてやる度胸のない詩織も同罪なのだ。詩織はほとんど泣きそうになりながら、その辺に散らばっている自分の荷物をかき集め、癇癪を起こした子どもみたいな乱暴さでトートバックに詰め込む。こんな気持ちになるくらいなら来なければ良かったのに、と詩織の中のまだ冷静な部分が自虐的な笑みを浮かべている。詩織だって、もっと長閑に恋愛をやりくりする方法を知らない訳ではないし、ササキに対してここまで強い感情を抱いているのは愛だなんてそんなにロマンチックなものではなく、ただの執着なのだと何度も何度も言い聞かせている。それでも、目を覚ました時にササキがここに居なかった、というその事実が詩織をどうしようもなく不安定にするのだ。


 もしもコンビニから帰ってきたときに詩織の姿がなかったら、ササキは傷つくだろうか。傷ついて、寂しくなって、詩織に「どこいったの?」と連絡をしてくるだろうか。詩織はソファの背もたれに掛けていた薄手のジャンパーを羽織り、お泊りセットの入ったトートバックを持つと、忘れ物がないか部屋中を点検した。どんなにボロボロの状態であっても、好きな男の家に忘れ物をするのは、詩織の信条に反する行為なのだ。念のために冷蔵庫を開けると、駅からこの部屋に向かう道中にあるコンビニで明日の朝ごはん用に買ったサンドイッチとカフェラテ、それから不健康マニアのササキが朝に飲むために買った炭酸のジュースが入っていた。両方ともササキのおごりで買った物だったので、置いて行こうと思っていたのだが、ササキに対する罰として全て持って帰ることにした。

 

 ササキのアパートから詩織の住むマンションまでは、歩いて三十分くらいである。郊外の、あまりにも単調な線路沿いの道を歩くことに退屈した詩織がジュースの入ったペットボトルを開けると、小気味のいい手応えと共にキャップが緩み、しゃわしゃわと小さな気泡が弾ける音がする。ちびりと口に含むと、舌や口の内側の柔らかい部分をチクチクと刺す。何がいいのか全然わからない。詩織にはこんな物を美味しいと思うササキの気持ちがわからないのだ。そんな人のことをどうしようもなく求めてしまう自分自身の気持ちも、もはや詩織にはわからない。

 

 祈るような気持ちで携帯電話を確認したが、ササキからの連絡はない。まだ詩織が帰ったことに気付いていないのか、気付いてはいるものの連絡をするまでのことではなかったのかはわからない。自分から帰ったくせに、なんと無様なのだろう。


 マンションに着いて、詩織は鬱々とした気持ちで階段を登る。詩織の部屋は3階で、いつもはエレベーターを使うのだが、今日はどうしても階段をつかわなければならないと思ったのだ。まだ半分も過ぎていないこの夜を、ひとりで過ごさなければならないなんて、とても耐えられないかもしれない――――そう思いながら、やっとのことで階段を登りきって、ぺたりぺたりと物憂い足音を立てながらやっとのことで部屋の前までたどり着いた。意を決して玄関のドアを開くと常夜灯代わりにしているキッチンの蛍光灯の緑色がこうこうとその存在を主張している。詩織はすぐさまベッドに倒れこんで、ずっと握りしめていた携帯の画面を確認した。すると、ササキからの不在着信が3件入っていた。

 ああ、これだからやめられないのだ。詩織はそう思ってゆったりと微笑んでから、眠りに就いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?