序章:エピソード0【萌動】第1話
(もう朝か)
カーテン越しの日差しが瞼を通して脳細胞に働きかける。
しかし、体が言うことを聞いてくれそうにない。
(だるい、 あと10分だけ)
液体やガスの成分分析装置や光学機器、半導体製造装置など、いわゆる産業用設備と呼ばれる機械の部品の受託生産を生業とする株式会社常盤の代表であるコウジは時折、暗く重い空気に包まれていた。
理由は分かっている。何かが足りないのだ。
創業から40年余り。事業承継を経てここまで様々な支援や沢山の恩恵を対外的なステークホルダーから授かりながら、幾多の荒波をなんとか乗り越え、会社の体制を整えてきた。
お客様からの評価も決して悪いわけではない。
御来社いただいた多くの方々からは「とても良い雰囲気の会社ですね」「挨拶が素晴らしい」などと褒めていただくことも度々ある。
品質優良賞やベストサプライヤー賞をはじめ、貢献に対する感謝状など栄誉ある賞を何度も授与していただいている。
下請けである常盤にとってはこれ以上にない光栄である。
業績もならしてみれば右肩上がりのグラフを描いている。
それにもかかわらず何かが足りない。
見えそうで見えない、掴めそうで掴めない何か。
しかし確実に存在する何かが、自他ともに認める楽天家のコウジの会社に向かう足取りを重くさせた。
加齢からくる気怠さが原因ではないことは、本人が最も良く理解している。
2019年の春、瀬田川の畔を艶やかに彩る桜の花びらもコウジの心を解すには至らなかった。
もやもやした日々が空しく過ぎていたそんな折、会員登録している京都中小企業家同友会という経営を学ぶ会から、定期的に送付される研修会などの案内が入った封筒が届いた。
コウジはいつものように使い古された灰色のデスクの引出しからハサミを手に取り、封筒の端を4ミリほど切り取って開封した。
中には毎度の様に月刊誌や例会などの参加を促す数枚のリーフレットが同封されている。
コウジはそれらを取り出してパラパラと内容を確認した。
好き嫌いが激しく、加えて面倒くさがり屋のコウジはこの手の案内にはさほど興味を示さないが、不意に一枚のリーフレットが目に留まった。
そろりと抜き出したリーフレットには、にこやかに微笑む講師の上半身の写真が三分の一を占め、その横に講師紹介文、そして更にその下に黒文字で大きく見出しが書かれている。
【ビジョンの大切さを学ぶ研修会】
"あなたの会社に夢はありますか?
ワクワクするビジョンを社員と共有できていますか?"
コウジはしばらくの間、じっとこの文字を見つめ続けていた。
目を背けようにも潜在的な意識によって金縛りに近い状態で釘付け状態になっている。
コウジの鼓動が徐々に高鳴り、顔面の皮膚が熱を帯び始め、赤く染まっていく。
入力された情報が脳内でどの様に展開され、この様な出力を生み出しているのかは自分でも冷静に分析できない。
投げかけられた質問に対して、まともに答えられない自分を恥じての現象なのか、あるいは負けを認めざるを得ない状況に追い込まれた悔しさからなのか。
そんなことを深く検証する間もなく、気が付けば同友会のホームページを検索し、WEB上にある出席を登録するための小さな丸いマークをクリックしていた。
3週間後、待ちに待った研修会に藁をも掴む思いで、なだれ込む様に会場に駆け入り、前から3列目の中央やや右側付近で講演者の顔が確実に見える席を確保した。
会場は京都ビジネス街の中心地、四条烏丸に位置する京都経済センタービルの6階C室。参加者は80人ほどだろうか。
周りでは、知り合い同士が会話を弾ませ賑わいを見せていたが、コウジの耳には雑音としてすら認識されていない。
カラカラに干上がった心が、水瓶の女神が現れるのを今か今かと待ち構えている。
ほどなく司会が立ち上がり、開会を告げた。
「開会に先立ち、当会委員長より開会の御挨拶をさせていただきます。
委員長、宜しくお願い致します」
「只今、ご紹介に預かりました、当会委員長の辻本です。本日はご多用の中、この様に沢山のご参加を賜りまして誠にありがとうございます」
ここは良識ある大人として苛立ちを現わすわけにはいかない。
コウジははやる気持ちを抑える為に目を閉じていた。
「委員長、ありがとうございました。それでは皆さん、早速ですが、只今より研修を始めさせていただきたいと思います」
ようやく女神が水瓶をゆっくりと傾け始めた。
リーフレットの写真よりも明らかに血色がよく若々しく見える講師が落ち着いた足取りで演壇に立ち、マイクをスタンドから外して、やんわりと右手で掴んだ。
「皆さん、こんにちは。本日はですね、経営の醍醐味でもあるビジョンについてお話しさせていただこうと思います」
(第2話へつづく)
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