見出し画像

”共感できない”という良さ

共感性の高さが云々と本当によく聞く昨今

共感性の高さ、共感能力がどうのこうの、人と打ち解けあったり、分かりあうために必要だとされる「共感性」というもの。

男性諸君はよく聞くだろう、「女性が求めているのは解決ではなく共感である」と。

恋愛のテクニックあれこれとかではなく、本当にあちこちで聞くようになった。この”共感性”というやつ。

私は、何事においても、人とは感じ方が少し違うところがある。それがため、人からも妻からも「あなたに足りないのは人と共感することだ。」と頻繁に言われる。

私には全く理解が及ばないこと、全く譲れないこと、全く反対意見であることでも、「一部はわかるよ。」とか「そういう見解なんだね。」と”共感している姿勢を示す”ことが大切らしい。もう共感とは何かわからなくなってきた。モラルのような扱いになってしまっていないか?いちいちそんなことに気を遣っていたら、話す時間も気遣う精神も削られるのではないか?と思ってしまう。

わからなくもないし、共感し理解し合えたことがあるからこそ、人類はここまで発展できた一面も強くあるだろう。だが、共感できなかったことが異形につながったり、新たな発見になった事例も多くあるのもまた事実だろうと思う。


”共感し合えないことって素敵なことだ”という記事に強く共感した

ある雑誌を見ていた。幼少期より本を愛した筆者が、学生の時、話題の本の感想を友達と述べ合っていたとき、筆者の感想に友達は全く共感してくれなかったらしい。

そこで、「1つの本でこんなにも感じ方が違う。だからこそ、多くの発見があり、だからこそ、共有する面白さがある。また新しい角度からの見方・解釈が生まれ、人の数だけの魅力を有する大作へと昇華する。」と感じたという。そうして「共感し合えない、共感できないことって、新たな発見、気づきを生むとても素敵なことなのだ。」として文を締めてくくっていた。

この記事を読みハッとした。私は学生時分には、芸術や音楽への感じ方に共感してもらえないことに意地を張って、むしろそのことは誇るべきことだと言い聞かせてさえいた。その頃は度が過ぎていた程だったが、社会に出て、周囲から孤立することへの恐れや圧力によって、共感する姿勢を取り繕うばかり。気づけば、己の感受性すら否定して、表面を嘘で塗り固め、本来の自己を見失っていた。

自分の感じ方を自分で否定するなんて。自分自身にはもちろん、この頭と心を与えてくれた、両親、一族に対しての無礼にすら感じた。

私は私の感じ方がある。それに共感してもらえなくなってかまわない。人の感じ方に対して共感できなければしなければいい。(もちろん物腰の柔らかさは必要だとは思うが。)「共感できなかった。」とはっきりと伝え、自分の感じ方を伝え、新たな見方を共有し合えばよい。むしろ、共感できなかったことがあれば、互いに新しい見方・解釈を手に入れたということとなる。なんと合理的で、効果的なことか。

よって、自分の感じ方以外のものを一切受け入れない頑固者にはならず、むしろ柔軟に柔軟に、人と共感できない感じ方をたくさん持ち、人から多くの感じ方を共有させていただくのがいい。

ここにきて初めて、”共感できないよさ”に誇りを思えるようになった。

何気ないところに学びがある。面白いものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?